エンドレス・ティータイム -その後のお話-

 貴族社会の人間というやつは、得てして一般人には理解できないような物事に執着するものだ。
 生まれてからの十数年、底辺のそのまた底辺とはいえ、一応貴族の一員として過ごしていた私には、そんなことよくよく分かってるハズだったのに。
 ……甘かったなあ。
 ここ最近は、心の底からそう思わずにはいられない。

 ある昼下がり、私はステラの誘いで、とある絵画鑑賞会に足を運んだ。
 将来有望な画家達の作品を集め、それを観ながらお茶をするという何とも優雅な会である。それほど規模の大きいものでもなかったので、私も気楽に考え二つ返事で参加する旨を伝えていた。が。
 実際会場となる屋敷に足を踏み入れた途端、凄まじい違和感が私を包み込んだ。その場にいた全員が一斉に私に注目したのである。誰か人が来たと、ちらりと視線を向けた――とかそんな生易しいものじゃない。値踏みする、という表現がしっくりくるほどにじろじろと遠慮なく、私を観察し始めたのである。
 その原因は分かりきっていた。
 セルダン伯爵とのことがあったからだ。
 以前、王妃主催の舞踏会で大っぴらに……その、こっ告白なんかをしてくれちゃったセルダン伯爵のせいで、以降私は社交界の話題の的となっていた。
 セルダン伯爵は、名門貴族の一員で、見目もよく、処世術にも長けている。私の立場で言うのも何だけど、モテて当然というタイプの人だったわけだ。実際モテてモテてモテまくって何人もの女の人と遊びまわっていたりして。貴族社会で彼のことを知らない人は多分いないし、どころかいつでも世間は彼の動きを見守っていたと思う。
 もちろん中には例外もいたんだろう。私だって、セルダン伯爵なんて自分には関係のない雲の上の人だと思っていたし。ハッキリ言って彼がどこで何をしようが全く興味なんてなかった。
 それが何をどう間違ってしまったのか、よりによってあんな大きな舞踏会で愛を告白されてしまったのだからたまらない。……ま、まあ、嬉しくなかったっていったら嘘になってしまうんだけどね。
 とにかく、それでびっくりしたのは私だけじゃなかった。周りの人達も心底驚いたに違いないのだ。だって、片や社交界の花形紳士。片や名前も知らないような元・下級貴族の平凡な小娘。美人でも何でもない、何の取りえもない娘にあのセルダン伯爵がご執心だなんて、そんなはずないって誰もが思うことだもの。
 その上私は――、セルダン伯爵の告白を、跳ねつけてしまったのよね。何よりもその事実がこの社交界に激震をもたらしてしまったらしかった。
 今日この鑑賞会に私を誘ってくれたステラも、私の決断には不満でいっぱいの様子である。事あるごとにその話を持ち出してはその後どうなったのだとせっついてくる。今もそうだ。
「ねえフィーリア、会が始まってからずっと、あなた皆に見られてるわね」
「……ええ、そうね」
「今日の会の趣旨、間違えていたのかしら。絵画を鑑賞する会ではなくて、あなたを鑑賞する会だったとか」
「……そうかも」
「まあ仕方がないわよね。あのセルダン伯爵にプロポーズされていながら、それをあっさりと断ってしまったんですもの」
 ステラはかつて本気でセルダン伯爵に想いを寄せていた(かつて、なのかは怪しいところなのだが)。そのためか、微妙に言葉に棘がある。
「皆が気にするのも無理ないわ。これほど面白そうな他人の恋愛って、最近の社交界じゃ他にないもの。あのキースレイ様が本気になった娘っていうだけでも十分面白いけど、その娘がキースレイ様を袖にしたっていうのがますます皆の興味を引いてしまうのよ。それがイヤなら早くキースレイ様と一緒になってしまうことね」
「ま、ま、待ってよ!それじゃ本末転倒じゃない」
「どこが?」
「どこがって。皆の注目を浴びるのが嫌でプロポーズを受ける、なんて……」
「そもそもどうして断ったりしたのよ?その理由の方こそ私にはワケが分からないけど」
 う、それを言われると辛い。ステラは、私が本当はセルダン伯爵のことを好きだっていうことも知っているんだ。セルダン伯爵を受け入れられないのは、偏に自分自身に対する自信の無さが故。でも、社交界一、二を争う美少女と謳われるステラには、そんな私の気持ちなんて丸っきり理解できないらしい。
 今日もステラは胸元と裾にレースをあしらった薄桃色のドレスを可憐に着こなし、私とは違う意味で周りの視線を集めている。誰がどう見たってステラとセルダン伯爵の方がお似合いなんだけどなあ。嫌味じゃなくて本当にそう思う。
「とにかくね、もういい加減観念してしまいなさいな。いつまでも意地を張っていたって、いいことなんて何も無いわよ」
 ステラは同性の私でさえドキリとしてしまうようなウインクを寄こしてみせた。

 鑑賞会の後、街中で流行りの傘を見て行かないかとステラに誘われたけれど、私はそれを断って帰路を急いだ。
 セルダン伯爵との約束があるためだ。
 ……なんて言うと、まるで私がそれを楽しみにしているかのように聞こえてしまうが、決してそういう訳ではない。
 約束、という言葉は私からすれば語弊がある。セルダン伯爵が勝手に我が家を訪れる宣言をしているだけで、私の方はそれを受けた覚えがまるでないのだから。いくら断っても向こうは聞く耳を持たない。ならばとこっちが無視してやりすごそうとしても、母親や使用人が勝手に彼を私の部屋へ通してしまう。ならばならばと、彼が来る時間に家を空けてみる作戦第二弾を決行してみたが、数日後に「宣言」すらなく乗り込んできて、あまりそういうことをするならこちらにも考えがあるとか何とか脅されて以来、自粛している。だって、その時のセルダン伯爵の目、よく分かんないけど本気だったんだから!セルダン伯爵の本気……想像するだけで恐ろしすぎる。一体どんな考えがあるのかは聞かずじまいだったけれど、どうせロクでもないことに決まっている。
「あら、おかえりなさい、フィーリア」
 家に戻ると母が優雅にお茶を飲んでいるところだった。にっこりと微笑む様は、十六の子供を持つ女性のものとは到底思われない。
「セルダン伯爵がいらしてるわよ」
 のんびりとした口調で母はそう告げた。――早く言ってよ!
 私は飛び上がってすぐさま二階の自室へ向かう。息せき切って階段を上りながら、何故こんなにも必死になっているのか自分でも分からなくなってくる。
「おや、お帰りフィーリア」
 大慌てで扉を開けると、人の部屋で勝手にくつろいでいたセルダン伯爵が落ち着いた表情で振り返った。どうやら窓の外を眺めていたらしい。
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
「だ、だって。セルダン伯爵がもう来てるって聞いたから……」
「それは嬉しいな。一刻も早く私に逢いたいと思ってくれたんだね」
 訳の分からないことを言いながら大股で私に歩み寄り、あろうことかペットの猫にそうするように、人を抱きしめ頭を撫でてきた!その手を払いながら、私は一歩後退さる。
「よく言うわよ。私が約束の日に家にいないと怒るクセに」
「別に怒ってないさ。約束の時間より早く来たのは私だしね」
 苦笑しながらセルダン伯爵は私の手を取り、口づけた。
「ほんっとに、物好きな奴……」
 ぼそりと私は呟いた。何故この人は私のことを好きだというのだろう。何かの思い違いとしか考えられない。きっとすぐに我に返るんだろうと思っていたけれど、あれから二ヶ月が経った今も相変わらずこの調子だ。
「ん?何か言ったかい、フィーリア」
 微笑みながら顔を寄せてきたので、私は身を翻して避難した。危ない危ない、相手のペースに乗せられるわけには行かない!
「何でもないわ。そ、それよりねっ、せっかくだからセルダン伯爵にちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
 やや不満げな表情を浮かべ、セルダン伯爵は返事を寄こした。
「そう。あのね、この曲を作った人を知ってたら教えてほしいなと思って」
 私はチェストの引き出しから小さなオルゴールを取り出した。手のひらに載るくらいの、本当に小振りなサイズだ。ゆっくりとぜんまいを巻いて手を放すと、軽やかな音色が部屋に響き始めた。
 これは母から貰ったオルゴール。まだ父が生きていた頃、勝手に入った母の部屋で見つけたものだ。初めは父から母へのプレゼントなのかなと単純に考えていた。父は私にオルゴールをくれたこともあったしね。でも、どうやらそうではなかったようだ。詳しいことは知らないままに、聴いてすぐに気に入って、母にねだって譲ってもらった。あの時の母は少し考え込むような仕草を見せてから、大事にしてねと私に手渡してくれたのだっけ。子供心にも、母の表情が何か特別なものに思えて、それ以上オルゴールのことを口にしてはいけない気がした。だからこの曲を聴く時は、いつも一人。ずっと作曲者を知りたいと思っていたけれど、その思いは胸に仕舞ったままだった。
 でも、聴けば聴くほどこのメロディーは私の心に染み込んでくる。もう目を逸らせないと思った。知りたい、もっと、この曲のことを。
「……いい曲だな」
「でしょう?優しくて、包み込んでくれるような感じ」
「だが、初めて聴くよ。おそらく有名な曲ではないと思うが」
「そう、セルダン伯爵でも分からないの……」
 私は小さく肩を落とした。芸術にも造詣が深いセルダン伯爵が知らないというのなら、確かにこの曲は有名なものではないのだろう。
「フィーリア、もしよかったら、しばらくそのオルゴールを預けてもらえないかな?」
「え?」
 セルダン伯爵の突然の申し出に、私は驚いて顔を上げた。
「君が私に頼ってくれることなんてめったにないからね。『知らない』の一言で済ませてしまうには惜しい。少し周りをあたってみるよ。私より音楽に詳しい知人はたくさんいることだし」
 惜しい、っていう言葉は微妙なんですけど……。何となく下心のようなものも感じ取って迷ったものの、作曲者が分かるかもしれないという期待には勝てず、結局セルダン伯爵にオルゴールを手渡したのだった。

 で、次にセルダン伯爵がやってきたのが一週間後。しっかり「答え」を携えての登場だったのだから流石としか言いようがない。本当に超人だな、この人は。
「ねえ、それでどんな人だったの?」
 胸の高鳴りを押さえきれず、私はセルダン伯爵を急かした。
「……」
 テンションの上がっている私とは反対に、セルダン伯爵は妙に冷めた顔だ。
「どうしたのよ、セルダン伯爵?」
「いや、複雑だと思ってね。喜んでくれるのは嬉しいが、その生き生きとした表情が私を通して別の男に向けられているのだと思うと」
「何つまんないこと言ってるのよ」
「ほらまた、すぐそうやって仏頂面に」
 誰のせいだ、と喚きたくなるが、今はガマンガマン。
「この曲を作った人は、最近の人なの?それとももうずっと昔の時代の……」
「最近の人だよ。最近というか、まあ、普通に今も同じ町で生活をしている男性だ」
「そうなの!」
 百年以上前の音楽家、なんてこともあり得ると思っていただけに、この瞬間もその人と同じ空気を吸っているだなんて変な感じだ。でもそれってすごく嬉しい。私がこの曲を本当に本当に好きだという気持ち、その気になれば本人に直接伝えることもできるってことよね?それに、この曲にまつわる話を聞くことだってできちゃうわけで……。――うん、すごく、聞きたい!
「……ねえ、セルダン伯爵」
 ちら、と視線を送ってみると、セルダン伯爵は私の胸の内なんて見透かしているという様子で眉を動かした。やれやれ、とその顔に書いてある。
「ちょうど氏を私の屋敷へ招待しているんだ。これから、会いに行くかい?」
「――ありがとう、セルダン伯爵!」
 どこまでも抜かりのないセルダン伯爵に、思わず抱きつきたくなった。けれど、そんなことをしたら物凄く大変なことになるのは目に見えているので、代わりにオルゴールをぎゅっと両手で握り締めて、キスを落とした。

 何だかんだで、セルダン伯爵のお屋敷を訪れるのは初めてである。
 私は馬車に揺られながら若干緊張していた。長年焦がれたオルゴールの作曲者に会えるというのももちろんあるけれど、セルダン伯爵のテリトリーに自分から入り込むというのが……、どうにもね。
 向こうが我が家に押しかけてくる分には、こっちは被害者ですって言い張ることもできるわけだけど、逆に私のほうから出向いてしまえば、そういう言い訳もできなくなってしまう。
 とはいえ、今回のことは仕方がないって私にも分かっている。母の持ち物について、本人には黙って探っているようなものだからね。その作曲者をうちに連れてきてほしいとはとても言えない。セルダン伯爵の判断は別に間違っていないんだ。ここでまた何だかんだと文句をつければ、流石にセルダン伯爵だって怒ってしまうだろう。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、馬車はセルダン伯爵の屋敷前に到着した。――ううっ、やっぱり大きくて立派なお屋敷だ。初めてベックフォード侯爵のところを訪れた時の圧迫感を今再び感じている。
 しっかりと手入れされた玄関前の庭は、とっても開放的。白い花を基調に整えられているらしく、なんだか高貴な雰囲気が漂っている。
「さあ、着いたよ」
 馬車を降りたセルダン伯爵とその背景に広がる庭の、なんと優雅なこと。私がこっそり見惚れていることに気づいていないらしく、セルダン伯爵は私の手を取ってさっさと屋敷内へ足を運んだ。……気づかれなくて良かったわ。
(わ、すごい)
 お屋敷の中もやっぱり圧倒的だ。高そうな調度品があちこちに飾られている。使用人の数も多い。すれ違うたびに優雅な仕草で会釈されると……なんだか、明らかに相手の方が身分あるお方って感じなんですけど。恐らく使用人の間でも噂になっているであろう私の存在に対しても、過度に反応するようなことはない。
「こちらでございます」
 執事さんが扉の前で恭しく頭を下げた。おおっ、もう着いちゃったのね。本当はもう少しお屋敷を探索してみたかったんだけどな。
「お待たせして申し訳ない」
 よく通る声でセルダン伯爵は中の人物に声をかけた。その背中越しに、ちらりと目当ての人の様子を探る。
 四十の半ばを過ぎた頃と見える男性が、一人静かにソファへ腰かけている。少し襟足の長い黒髪を清潔にセットしていて、整えられた短い髭も……ううん、素敵だ!理想の四十代っていう感じ。
「初めまして、キースレイ=セルダンです。面識もないままお呼び立てしてしまったが、快い返事を下さって感謝している」
「ブライアン=カーターと申します。勿体ないお言葉、恐縮です」
「そしてこちらの女性が、フィーリア=アーヴィング」
 紹介されたので、私は一歩進み出てなるだけ優雅に会釈をした。それを受けたカーターさんは、何かの衝撃が胸を突いたというように、言葉を失ってまじまじと私を見つめてくる。……な、何っ!?
 私も戸惑ってただカーターさんを見返していると、セルダン伯爵が助け舟を出してくれた。
「カーターさん、随分驚いていらっしゃるようだが」
「……ああ、申し訳ありません。お母様に似た面差しでいらっしゃったので、つい」
 お母様?ということは、この人は母と会ったことがあるんだ。曲の作者っていうだけじゃなくて、オルゴールを母にプレゼントしたのもこの人自身だってこと!
「エレナさんにお嬢さんがいらっしゃることは伺っておりましたが……。こんなに大きくなられていたとは。いや、月日が経つのも本当に早いものです」
 カーターさんは優しい瞳で私を見つめた。その優しさの中にはほっとするような愛情も含まれていて……、そうか、この人はお母様のこと……。
「あの曲をを母に送ってくださったのは、あなただったんですね」
「いや、何ともお恥ずかしい。爵位も持たぬ無名の音楽家風情で、当時は随分思い上がったことをしたものです」
「いいえ、とんでもない!――母は、ずっとこのオルゴールを大切に持っていたんです。私、子供心にもそれが分かって。きっとすごくすごく大切なものなんだろうなあって」
「……エレナさんが」
「父もきっとこのオルゴールのことは知りませんでした。私も勝手に見つけ出してきて、母にねだって譲ってもらったんです。母は『きっと大事にしてね』って言っていました。本当はずっと仕舞っておきたかったのかもしれないですけど……、私がこの曲をすごくすごくすごーく好きなこと、きっと母も分かったから、譲ってくれたと思うんです。本当に素敵な曲!私、大好きなんです、本当に!もちろん、一生大切にしますっ」
 母の想いと私の想い、両方ちゃんと伝えなくては!と息巻いて、でもそのせいで、訳の分からない熱弁をふるってしまった。カーターさんは私の勢いに気圧され気味だ。またまたそこでセルダン伯爵が助け舟を出してくれたので、助かった。
「フィーリア、落ち着きなさい」
「ご、ごめんなさい」
「君がこの曲にどれほど思い入れがあるかは、きっとカーターさんにも伝わっているよ。なんせこの私をパシリに使って、カーターさんを呼び出させたんだからね」
 ……やっぱり助け舟なんかになってなかった。間違ってもいないんだけど。
「でも本当に、カーターさんにも申し訳ありませんでした。私のわがままでこんなところまで足を運ばせてしまって」
「まるでここが我が家というような物言いだなあ。まあ、私として嬉しいけど」
 そう言いながら私の右手を取って唇を寄せてくる。この空気の読まなさっぷり、ホントにむかつく!思い切り手を振り払ってやったら、その様子を見ていたカーターさんがふっと笑った。――ああもう、恥ずかしい!
「宜しかったら、この場でも是非、聴いていただけませんか」
「えっ?」
「そちらのピアノをお借りできれば」
 カーターさんが、すぐ側に設置してあったピアノに視線を向けた。そういえば、音楽会でもないのに客間にピアノがあるなんてと思っていたけれど、わざわざセルダン伯爵が用意してくれたようだ。
「わあっ、ぜひ!お願いします!――セルダン伯爵、いいでしょう?」
 ……私って、もしかしてすごく調子いい?
「もちろん」
 セルダン伯爵は渋る素振りもなく快諾してくれた。良かった、直前に手を振り払ったことはそれほど根に持っていないみたいだ。……多分。

 オルゴールの曲をピアノで聴くと、一気に曲の世界が広がった気がした。
 もちろんオルゴールの音も可憐で素敵だ。
 でもきっと元はピアノ曲だったこの作品は、やっぱりピアノで聴くと迫力が違う。
 ピアノを弾くカーターさんの横顔は、とても情熱的でどこか苦しげでもあった。
 本当は私でもセルダン伯爵でもなく、誰よりも母へ向けて奏でられているのだろう。
 この場にお母様がいられたら良かったのに――、そんな風に思うと切なくて胸が締め付けられる。
 代わりになんてなれないけど、それでもできるだけ、母の分もこの演奏を受け止めようと思った。

 素晴らしい演奏が終わった後、私たちはお茶を飲みながら少し話をした。カーターさんは爵位も持たないなんて言っていたけど、とても礼儀正しく作法もしっかりしていて、本当に素敵な方だ。
「まだ私がセルダン伯爵のように若かった頃に、初めてエレナさんにお目にかかりました。駆け出しの演奏家でしてね、たまたま縁あって呼んでいただいた音楽会に、エレナさんはいらしたのです」
 カーターさんと母の馴れ初め。ちょっとどきどきする。母がたくさんの男の人たちとの「思い出」を持っているのは知っているけれど、それを男の人の側から話してもらうのは初めてだ。それに、今回ばかりは母がオルゴールを大切にしていたことからも、他の人とは何かが違ったんだろうなって思う。
「その音楽会の主催者は少し変わった方でして、音楽家としてまだ花開かぬ若い芽を見つけてきては皆に紹介するのを楽しんでおられました。身分も何も関係無しに、です。招待客の中には、演奏こそ楽しんでくださるものの、私個人に対してはまるで無関心な方も多かった。その中で、エレナさんは気軽に私に話しかけてくださる数少ない方でした」
 お母様……、ホントに軽かったのね。
「エレナさんは、私の作る曲が好きだとよく仰ってくださいました。あれこれと音楽のことについて話をして……、エレナさんにとっては本当にただそれだけのことだったのでしょうが、私の方はすっかりエレナさんの虜になってしまいましてね。ただ、流石に私も身の程というものは知っていました。エレナさんは当時、社交界の花形として大変有名な方でしたので、私も自らの想いを告げるつもりなどありませんでした」
 けれど、とカーターさんは目を少し伏せた。
「音楽会を主催していた伯爵夫人が、具合を悪くされまして。もう音楽会を開くことは難しいということになりました。ちょうどその折、エレナさんの結婚話も持ち上がりまして、ああ、もう私は二度とエレナさんと会うことはできないのだな、と悟らざるを得ませんでした。そうなると急にいても経ってもいられなくなりましてね。ただの若造が、伯爵夫人に頼み込んで、もう一度だけ音楽会を開いていただくことになったのですよ」
 すごい!と私は心の中で驚きの声を上げた。だって、相手は伯爵夫人でしょう?しかも音楽会を開くとなると出費とか色々……まあそれは相手にとっては問題ではなかったのかもしれないけど。でも、色んな人に招待状を出したり家の中を整えたりとか、かかる労力は半端ない。こう言うのもなんだけど、そのどれ一つにも責任を取れない普通の若者が、音楽会を開いてください!って伯爵夫人にお願いしてしまうなんて、本当に、すごい。若さゆえのパワーってやつなのだろうか。
「伯爵夫人は、きっと私の想いをご存知で、気にかけてくださっていたのでしょう。私の馬鹿げた申し出を快く承諾してくださいました。本当に、今でも伯爵夫人は私にとってかけがえのない方です。……とにかく、彼女のお陰で私はもう一度だけエレナさんと会う機会を得ることができました。そこで私は……」
「この、曲を?」
「そう。言葉ではどう伝えていいのか分かりませんでしたから、心を込めて曲を作りました。そして最後の音楽会で演奏したのです。オルゴールを作ってくださったのは伯爵夫人です。エレナさんがあの曲を気に入ったというからプレゼントしましたよ、と仰っていました」
 そうか、お母様もきっと、その曲にカーターさんの想いが込められていることに気がついたんだ!
「最後まで、想いを言葉にはしなかったのですか?」
 セルダン伯爵が静かに問いかけた。カーターさんも穏やかに頷く。
「それでも私は満足でした。幸せでした」
 ――ああ、これが大人の恋っていうものなのかも!私もこんな風に誰かから想われてみたい!……と、実際口に出しかけて、かろうじて思いとどまった。そんなことを言おうものなら、今私の隣に座っている某伯爵がどんな逆襲にでるか分からない。でもでも、いいなあ。お母様ってば、羨ましいなあ。
「カーターさんは、今も色々な音楽会で演奏をされているんですか?」
 聞いてみると、今もそうして細々と暮らしている、なんて控えめな言葉が返ってきた。
「それでしたら、ぜひいつか、我が家でも演奏を聞かせてください。あの、あまり豪勢な会とかは開けそうにないですけど。でも、私だけじゃなくて……母もきっと、喜びます」
 そうだよね、お母様。きっとまたカーターさんに会えたら嬉しいよね。
「おいおいフィーリア、そんなに簡単に言ってしまって大丈夫かい?かつての恋心が再燃して、――カーターさんが君の義父になるかもしれないよ」
「えっ」
 かつて私の義父になりかけた人から言われると、なんだか余計に洒落にならない。待って、カーターさんは確かに素敵だけど、でもやっぱり私のお父様はたった一人きりなわけだし!それとこれとは別問題っていうか、それは!
「カ、カーターさんだって、今はご家族がいらっしゃるのでは……」
「残念ながら、と言いますか、幸いに、と言いますか、未だに一人で気ままに暮らしておりますよ」
 いたずらっぽい笑顔を浮かべ、カーターさんがそう言った。うわわ、何だかその笑顔、セルダン伯爵っぽくて嫌だ!
 固まる私を見つめ、カーターさんとセルダン伯爵は面白そうに笑った。

 その後私を自宅まで送り届けてくれたセルダン伯爵は、当たり前のように再び私の部屋に居座っている。私としては一人でカーターさんの恋物語の余韻に浸っていたかったんだけど、今日の出会いはセルダン伯爵のお陰で実現したのだから追い返すようなことはできない。まあ、いくら私といえどね。そのくらいの分別はあるわけですよ。
 何となくセルダン伯爵と話をするような雰囲気でもなかったので、私は手の中のオルゴールをいじりながらぼうっとしていた。……ああ、それにしてもカーターさんって素敵な方だったな。あの年齢であの素敵っぷりなんだから、きっとお爺さんになっても素敵な方でい続けるんだろうな。あれこそが大人の男の魅力ってやつよね。セルダン伯爵とかベックフォード侯爵とか、色気があってどうこうと色んな人に言われてる(し、私も時々思うところがある)けれど、やっぱりまだまだ若造ってもんよ。特にセルダン伯爵には、あらゆる意味でカーターさんを見習ってほしい……
 と、勝手なことを一人考えていた私だったけれど、突然目の前に手が伸びてきてオルゴールがさらわれていったので、そこでふと我に返った。
「あっ、セルダン伯爵」
 見上げると、すぐ側に立つセルダン伯爵が憮然とした顔で私のことを見下ろしている。
「な、なによ。返してよ」
 取り返そうとソファから立ち上がった私だけど、セルダン伯爵はなおもオルゴールを私の手から遠ざけようとする。もうっ、子供じゃないんだから!
「どうも今、面白くないことを考えていたようだな」
「何の話?」
 ぎくりとしたけれど、それを悟られないようなるだけ突き放した返事を投げつけてみた。だけど、それが却って裏目に出たみたい。
「やっぱりどうも、カーター氏を見つけ出してきたのは失敗だったようだ」
「どうしてよ!私、すごく感謝してるわ。会えて本当に本当に嬉しかったもの」
「だから、だよ。当たり前じゃないか」
 あ、当たり前ってなに。そこまで開き直って拗ねられるとどう反応していいのやら。
「私の手は振り払い冷たくあしらっておきながら、カーター氏には随分優しく接していたし。今だって、氏にすっかりのぼせ上がっているじゃないか?」
 嫌味な薄ら笑いを浮かべて、セルダン伯爵は私の顔を覗きこんできた。……やっぱり怒ってたのか。心の狭い男め。
「変な表現しないでよ。確かに、素敵な方だなーとは思ってるけど。だって、セルダン伯爵もそう思うでしょ?」
「確かに一人の男性の選んだ道としては心打たれるものがある。だが、私が彼の立場に立つのならば、到底理解も納得もできないな」
「なに、その言い方」
 カーターさんが全否定されたような気がして、私はむっとした。それがますますセルダン伯爵には面白くなかったようで――どう反撃されるのかと身構えた瞬間、いきなりぐいっと腕をつかまれ引き寄せられた。
 ただでさえ至近距離にセルダン伯爵の顔があるっていうのに、それで更に引っ張られたら――なんて危惧する暇もないうちに、私の唇に押し付けられた鈍い感触。
 しまったああああ、油断した!!!
「ふっ――」
 噛みつくような口づけは、すぐに包み込むような甘いものに変わっていった。でも激しさは変わらない。深い吐息が押し込まれて、その熱に思わず身をよじる。けれど腕を取っていた手がなぞるように背中に回されて――結局まるで身動きが取れなかった。強く強く抱きしめられて、文字通り胸が苦しくなる。顔を背けて逃れようとする度に、わざと唇が離され、そしてまた塞がれる。
(このサド伯爵!!)
 遊びはもうお終いとでも言うように、一段と口づけが深められた。が、その瞬間に、かろうじて自由のきいた左足でセルダン伯爵の足を思いっきり踏みつけてやる。それでもやめようとしないので、そのまますねを蹴っ飛ばした。さすがにこれは効いたのか、ついにセルダン伯爵は私を解放した。
「――っ、何をするんだ、君は」
「それはこっちのセリフでしょ!?セルダン伯爵のバカ!」
「全く、君にキスする時はいつでも命がけだな」
 とか何とか言いながら、私の背中に回した両腕は離さない。まだ蹴られ足りないのだろうか、この男は。
「どうせフィーリアのことだから、私もカーター氏を見習えとかそんなことを考えていたのだろう」
 ……うっ。
「だが、それはできない相談だからそのつもりで。分かっているだろう?今更だ」
 凄みのある眼差しはそのままに、口元だけは妖艶な笑みを浮かべた。間近で見ると物凄い迫力だ。
「……セルダン伯爵って、カーターさんみたいな、ただ相手を想うだけの淡い恋とかってしたこと無いの?」
「ない」
 即答ですか。
「だが、カーター氏の想いが『淡い』ものかというと、それは違うと思うけどね。きっと氏は今でも君の母親の事を想っている。二十年近く経った今でも、だ。それこそ、恐ろしい程に激しい恋だと、私は思うよ」
 セルダン伯爵は手の中のオルゴールに視線を落とした。つられて私もそれを見つめる。
 愛しい人への秘めた想い。言葉で伝えることができないから、それを曲にしたとカーターさんは言った。
 だけどそれだけじゃなかったのかもしれない。
 いつか堰(せき)切って溢れ出た想いが相手を飲み込んでしまうことのないように。そのために、想いをこの曲の中に封印したのだとしたら――。
 優しくも、どこか切ない旋律。
 その旋律の奥底に、燃え上がるような情熱が秘められているのを、微かに感じた気がした。
「ね、セルダン伯爵」
「なに?」
「私、このオルゴールをきっと大事にするわ。お母様との約束だったし、今はカーターさんとの約束でもあるし」
「……そうだな」
 オルゴールはセルダン伯爵の手から返ってきた。

(押さえ切れないほどの、激しい想い――か)

 私はまだそんな想いを知らないのかもしれない。もしいつか、セルダン伯爵が私なんかに見向きもしなくなって、こうして抱きしめてもくれなくなったら、その時初めて知るのだろうか。狂おしい程に相手を愛しく思う気持ちを。もしそうなったら――私はカーターさんのように、自分の気持ちを抑えることができるだろうか?  私はじっと、セルダン伯爵を見つめてみた。その視線を受けてしばしの間きょとんとしていたセルダン伯爵だったが、やがてにっこりと笑みを浮かべると、性懲りもなくその整った顔を近づけてくる。
 条件反射で私のかかとがセルダン伯爵の足を踏みつけた。あ、ごめん、本当に無意識だった。
「……フィーリア」
 恨めしげな声で名前を呼ばれてしまったが、私ばかりが悪いわけじゃない!そう開き直ることにして、私はそそくさとセルダン伯爵の側を離れたのだった。


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