01.

 昔の話をしましょうか、リアンは歌うような口調でそう言った。

 いつも変わらぬ古めかしい室内。昼間だというのに薄暗く、辺りは怪しげな骨董品で溢れかえっている。時が止まったかのようなこの部屋の中で、常にリアンは一人きりで過ごしていた。ほとんどの時間を読書に費やし、たまにぼんやりと往来を眺めている。珍しくも客人がやって来たならば、その時初めて、この瞬間が「今」であると思い出したように瞳をくるりとさせる。
 近頃はますます人付き合いの少なくなったリアンが何となく気がかりで、セシルは小まめに骨董屋へ足を運ぶよう心がけていた。街の見廻りついでに顔を出す、その程度だから別段苦になることもない。以前リアンと交わした会話が心に引っかかっているのだ。「この世ならざるもの」絡みでもなければ会うこともない、自分達は因果な関係だ――。
 それはセシルとリアンに限った関係ではないと思う。リアンは他の誰にとっても、おそらくそういう存在だ。もちろん例外はあるだろうし、いつでも「もの」絡みの話しかしない知り合いばかりというわけでもあるまい。だが逆に考えて、リアンの知り合いの中で、これまで一度も「もの」に関する話題を出さなかった人間などいるのだろうか?
 そのことをリアンがどう思っているのかはわからない。元来人付き合いの好きな性質(たち)ではなさそうだ、大して気にも留めていないかもしれない。しかしセシルにとっては、そうと気づいてしまえば気に留めないわけにはいかなくなってしまった。
 セシルがわざわざ骨董屋に顔を出しても、リアンの対応はそっけない。「もの」絡みの話があれば追ってでも捕まえようとするくせに、用がなければまさに「用無し」扱いなのだ。変わりはないかと尋ねれば、あるわけないでしょとにべもなく。たまには茶でも出せよとせっつけば、茶が飲みたいなら茶屋へ行けばと愛想もない。
 せっかく気にかけてやっているのにと思わなくもないが、そんなことを言えば「頼んでない」の冷たい一言が飛んでくるのは目に見えていた。実際、頼まれてもいないことをセシルが勝手にやっているだけだという自覚はある。
 そうして時が経ち、ようやくセシルが己の行動に疑問を持ち始めた頃、珍しくリアンの方からセシルを中に招き入れた。ご丁寧に、以前はあっけなく却下された茶まで出てきたものだから、これはまた「もの」絡みだなとセシルが邪推したのも当然のことだろう。
 今度はどんな「もの」の話なんだ。まだ何の噂も聞いていないが――。
 しかし、セシルの思惑はある意味で外れていた。「もの」は「もの」絡みでも、今度の話は何かがいつもと、どうやら違う。
 昔の話をしましょうか、リアンは歌うような口調でそう言った。

「百年にも満たない程度の、ちょっと昔の話だけどね」
「何だよ、突然」
「まあいいじゃない、暇つぶしには面白い話よ。――ねえセシル、あなた、魔術って信じる?」
「……は?」
 昔話が始まる前に話が変わり――それも突拍子もない方向に――セシルは間の抜けた声を上げた。
「魔術。ほら、鉄くずを金に変えたり、何もないところから火を出したり」
「意味は分かるが、信じるかと突然言われてもな……」
「ま、そんなものよね。このホーテンダリアに住んでいる人間でさえ、『魔術を信じますか』と言われたら戸惑ってしまうわけよ」
 リアンは出来の悪い生徒をなだめるような口調でそう言った。
「いつも『この世ならざるもの』っていう非現実的な存在に包まれているこの街でさえ、それと魔術は別だと考える。これがまるきり普通の外の街へいけば、『魔術』なんて単語、聞いただけで皆鼻で笑うに違いないわ」
「……それは、そうかもな」
 セシルは頷いた。他所の人間にしてみれば、「この世ならざるもの」の存在自体、信じるに値しない馬鹿馬鹿しいおとぎ話だと思うだろう。自分達は日々「もの」に囲まれているからこそ、「もの」については信じている。信じざるを得ないと言うべきか。
「でもね、昔は『魔術』も普通にこの世に存在していたものなの」
「ええ?」
「何百年も前は、それこそ本当に普通のことだった。水をお湯に変えたり、けして消えない灯火をつけたり、そういうことが出来る人は何人もいたわ。ホーテンダリアの街に限らず、他の地方でも魔術を扱う者――『魔術師』は存在した。魔術は全ての人が使えるわけではなかったけれど、それでも人々の一般生活に溶け込んでいたのよ。でも、科学が発達していく過程で、魔術は少しずつ疎まれていくようになった。ものを理論的に考える人が増えてきた、と言うかね。曖昧で輪郭の捉えられない魔術はだんだんと排除されるようになっていったのよ」
「そんな話、聞いたことがない。本にも載っていないし」
「正しい歴史としては残っていないだけだわ。魔術師の話はどの地方の伝承にだって残っているし、お伽噺の本にも載ってる」
「いや、だが……」
 セシルは何と答えたものかと言葉に詰まった。リアンが言えば何でもかんでも真実味を帯びてくるから恐ろしい。この少女は、どこまで本気でこの話をしているのだろうか。
「歴史の教科書にこの世で起こった全てが正しく記されているとは思わないことね。どんなに大きな出来事だって、人の意識と時間さえあれば簡単にもみ消すことができてしまうんだから。――とにかく、魔術と魔術師は存在したの。そしてどちらも時と共に衰退していった」
 リアンはふと顔を上げて、窓の外に目をやった。セシルもつられて視線を動かすが、窓に映る景色には何一つおかしなところはない。通り過ぎる人々、馬車、その喧騒、全てはいつも通りだ。
「迫害に近いものを受けるようになった魔術師達が逃げ延びたのが、このホーテンダリアの街。この街には他と比べて随分遅くまで魔術が残ったようだけど、それでもやっぱり時間の問題。一人、二人と魔術師達の数は減っていった」
「『この世ならざるもの』は、その魔術師達と関係があるのか?」
 リアンは頷いた。
「魔術師が自分達で大っぴらに魔術を使うことはもはや出来なかった。彼らも魔術がこの世から消える覚悟はしていたと思うわ。でも、何らかの形で何かを残したいと思ったのでしょうね。それで、街中にこっそり仕掛けを施した。銅像に歌を歌わせてみたり、人通りの少ない道に足音だけ響かせてみたり、ね」
「それが『この世ならざるもの』の正体……」
「害のないいたずらのような『もの』ばかりだったからでしょうね、それは人々に受け入れられた。どんどん魔術が忘れ去られていく世の中だったけれど、この街の小さな不思議だけは細く続いていたの。ただ、魔術はそれを操る者の存在なくして実体を保てない。魔術師の数が減れば、当然『もの』も減っていくわ。そして百年ほど前、ついに魔術師は最後の一人を迎えた」
 セシルは真剣な眼差しで先を促した。
「彼の名前は、イニシアム=ムンディ。……もちろん本名じゃないけどね。皮肉なことに、世界最後の魔術師にして、史上最高の魔術師だった。と、言われてるわ。彼は自分を最後に魔術が完全に失われることを承知していた。けれど、ホーテンダリアで居場所を得た『この世ならざるもの』達までが失われてしまうことは耐えられなかったみたい。そこで彼は、晩年になって一冊の魔術書をしたためたの」
「魔術書?」
「そう、彼の魔力を惜しみなく注ぎ込んだ、世界に一冊きりの本」
 リアンはゆっくりと立ち上がった。部屋の一番奥でひっそりと佇む本棚まで歩み寄り、その上段で息をひそめていた本の背表紙に手をかける。小さく舞い上がる埃と共に、その本はリアンの手の中に落ちた。
「これが、イニシアム=ムンディの書」
 リアンが本を机の上に置くと、他の骨董品達はどこか居心地が悪そうに身をすくめたように感じられた。もちろんそれはセシルの気のせいなのだろうが、話を聞いていたためか、普通の本とはとても思えない威圧感があった。古ぼけた深い紫の表紙には、題字も何も記されていない。
「ムンディは文献に残っている昔話やその当時起こった事件などで印象に残ったものを手当たり次第に記したの。春祝祭の日にはオスターラ広場で三色の花びらを撒いたといった慣習的な行事から、事故で地下貯蔵庫に閉じ込められ、三日三晩助けを求め続け救出された女性の事件まで、色々ね。その本が完成すると、間もなくムンディはこの世を去った。そして残された本は、ムンディの魔力の全てを引き継ぎ――」
「記された出来事を、そのまま『この世ならざるもの』として具現化させていたわけか」
「その通りよ」
 リアンは本をぱらぱらとめくった。細かい字でぎっしりと書き込まれているのでセシルは読む気にもなれなかったが、とんでもない数の説話がこの中で“息づいて”いることは想像できた。
 この本が、「この世ならざるもの」たちの源泉。これまで深く考えてみたことなどなかった――「もの」が一体どこからやって来たのか。しかし真実を知れば、セシルの中につっかえていた何かがすとんと落ちていくのを感じた。
「それじゃあ、例えば『白の花嫁』も」
「ええ、この本の中に書かれているわ。ムンディが、聞いた話をここに書いたの。どういう理屈かは知らないけれど、ただのおとぎ話ならば『もの』として具現化しない。かつて本当にあった出来事だけが、ムンディの魔力を借りて蘇るのよ」
「それじゃあこれまでのことは全部、お前には分かっていたんだな。ゾメニパリオンのことも、楽譜のことも、それに……」
 リアンはセシルを遮るように首を横に振った。俯きがちな瞳に、力はない。
「これまではそうだった。これからも、そのはずだったけど」
「けど?」
「『白の花嫁』も『ゾメニパリオン』もムンディの書には載っていた。でも、花嫁が生贄にされた我が身を嘆いて夜な夜な街を歩き回るなんていう記述はどこにもなかったわ。『ゾメニパリオン』に至っては、それこそおとぎ話もいいところ、かつて本当に存在した悪魔じゃない。――それなのに、彼らは街に姿を現し人を殺める道を歩み始めた」
 セシルは真っ直ぐリアンを見つめた。
「『呪いの楽譜』や『肖像画家』に至っては、ムンディの書にすら出てこないのよ。分かるでしょう? あの画家はつい最近まで生きていた人物よ、ムンディに言及できるはずがない」
「それはつまり……」
「『この世ならざるもの』達は一人立ちを始めたということよ。どんどんムンディの書から離れている。私には把握しきれない存在になってきているの」
 リアンの顔はいつも以上に白かった。自分で口にしている内容が、自分自身を追い詰めているかのように。
「だ、だが。そもそも『この世ならざるもの』というのは、そのムンディの魔力が生み出したものなんだろう? 本を媒介にしてやっと存在を保っている、幻みたいなもの。だったら、一人立ちなんて出来っこない。しようとした瞬間に消え去るはずだ」
「それが消え去らないから、恐ろしいの」
 沈黙。時計の針の音だけが部屋に響いている。
「きっとムンディの魔力が暴走しているんだわ。長く一冊の本に閉じ込められていた魔力が、抑えきれずに溢れ出ている。これは由々しき問題よ」
「人が『もの』に殺されるようになったのも、魔力の暴走が原因なのか」
「多分。でも、真実は分からないわ。――もう、誰にも」
 セシルは混乱の極みだった。なぜリアンがこんな話を自分にする気になったのか、そこからして理解できない。明らかにセシルの手には余る話だ。対処できるとすればリアンしかこの街にはいまい。そう、リアンしか――。
 はっとセシルは目を見開いた。
 目の前にいるこの少女。華奢で、か弱く、誰かに守られなければ立っていられないように見える……それなのに、本当は誰よりも孤独で、強い。
「リアン、お前は」
 ほとんど何も考えずに、セシルは口にしていた。
「もしかしてお前こそが、生き残った最後の魔術師なんじゃないのか……?」
 リアンはどこかぼんやりとした瞳でセシルを見つめた。しばらく押し黙っていたが、ゆっくりと笑みを浮かべる。儚くて、今にも消えてしまいそうな微笑だった。
 そしてリアンは首を横に振った。
「私は魔術師じゃない。最後の魔術師は、イニシアム=ムンディよ。だからこそ私は――途方にくれているの」