エリンギウムの雫(中)

 貴族の居住空間に出入りすることになり、まず最初に新しい制服が与えられた。
 私が持っているどの晴れ着よりも仕立てのいい濃紺のワンピース。首を覆う襟元に、金色のボタンが二つ。ウエストを絞ってあって、そこから流れるようにスカートが広がっている。それに白いエプロンをつけてみれば、どこからどう見ても上流貴族に仕える召使いの出来上がりだった。
 今までは無造作に一つくくりにしていた髪も、それでは清潔感がないと言われ、高い位置で引っ詰めてお団子にしている。親がこんな姿を見たら卒倒するかもしれないと思いつつ、前を行く執事のような男性に案内されるままついて歩いた。
 居住空間は城の一番奥側にあった。使用人は使用人専用の通路を使って出入りをするそうだが、その通路でさえ、通れる資格を持つ使用人は限られている。本来なら私のようなただの平民は出入り口に近づくことさえ許されない。
 使用人の控え室らしきところに連れられて、そこで使用人の心得というものを説明された。清潔感を保つこと、姿勢を正して歩くこと、貴族様には自分から声をかけないこと、……その他たくさん。お辞儀というのも非常に重要だというので、五種類くらいの礼を徹底的に叩き込まれた。貴族様とすれ違ったときどうするか?もし声をかけられたらどうするか?そういった想定問答もじっくりやった。貴族とのやりとりだけでなく、他の使用人達との付き合い方まで学ばなければならなかった。もちろん使用人にも階級があって、私などは本来下の中というところだが、仕えるのがブライア様ということで中の中くらいの立場になるということだ。とにかくも、自分より目上の使用人に対する礼を失することのないように、とのことだった。
 そしてやっと本題の清掃方法と手順についての説明だ。これはソブル様も言っていた通り非常に簡単なことだった。とにかく、部屋を掃除すればいいだけだ。貴族様のお部屋を掃除するからといって、見たこともないような用具を使うわけではないし、その手順が特別だということもない。要は人とのかかわり方にさえ気をつけていれば、後はどうにでもなる仕事なのだろう。掃除をするにあたっていくつか気をつけるべき点を教えられたが、それほど難しそうなことはなかった。
 しかしそれも、掃除場所がブライア様の部屋だからということは後になって知った。貴族の中にはやたらと細かいこだわりを持っている人も多いそうだ。例えば、曜日ごとにテーブルクロスの色を決めていたり、飾ってはいけない花の種類があったり、置き物の位置を小指の爪ほどもずらしてはいけなかったり。ブライア様の部屋を掃除するにあたって、そういう決まりごとは一切なかった。そう言う意味でも私は使用人達に羨まれる人の下で働くことになったのである。
 仕事を始めて一週間、何事もなく非常に順調に時は流れた。
 ブライア様は仕事柄とても規則正しい生活を過ごしているので、私も規則正しく務めを果たせばそれでよかった。部屋の主によっては日中ずっと自室で過ごし、夜中に城下町を遊び歩くような人もいるらしい。そうなると使用人が掃除をできるのは、それにつられて夜中ということになる。ブライア様がそういう人でなくて幸運だとしみじみ思った。部屋もこざっぱりとしていて、掃除するのに手間がかからない。これでやたらと手の込んだ細工のオブジェが無数に飾ってあったりしたら、それを隅々まで拭いて回るだけでとんでもない重労働になっただろう。

 その時私は、大きな窓を開け放して空気の入れ替えを行っていた。さすがブライア様の部屋だ、窓からの景色も格別である。城下町とその向こうに続く森を一望できる。地平線、というものをこの部屋から初めて見た。私は掃除の初めと終わりにこの窓を開け閉めするのが一番好きだった。ちょうど夕暮れ時で、赤く染まる街並みは言葉で言い表せないほど美しい。街全体が宝石のようにきらきらと光り輝いている。私はしばらく窓際に佇んで、ぼうっとその景色を眺めていた。
「何か珍しいものでも見えるのか?」
 不意に声をかけられて、私は思い切り肩をびくつかせた。顔だけで振り返ると、ブライア様がちょうど部屋に入ってきたところだった。隊服の襟元を緩め、ゆったりとした足取りでこちらへ近づいてくる。
 私はとっさに、叩き込まれたお辞儀を返した。この場合、使用人ができる最上級のお辞儀をすればいいはずだ。スカートの裾を少しつまみ、腰を落とす。目は伏せて――ああ、まさかこんなお辞儀を実践する時が来ようとは!なぜブライア様はこんなに早く部屋に戻ってきたのだろう。夕食前に一度部屋で休むのが日課だそうだが、それにはまだ時間があるはずだ。
「なかなか堂に入ってるじゃないか」
 らしくもないお辞儀をしていると気づいて、恥ずかしさのあまり汗が噴出した。ぎこちない動きで窓を閉める。
「も、申し訳ありません。すぐにおいとま致します」
「別に出て行かなくていい。掃除はまだ終わってないんだろう」
 ブライア様は上着を脱ぎベッドに放り投げると、側に備えてあった水をコップに注いだ。
「いえ、あの、ちょうど今終わりました」
「なら、その上着を掛けておいてくれないか」
 今脱ぎ捨てた上着のことだろう。私は言われたとおり上着を拾い上げ、ついでに皺のできたベッドのシーツを直した。
「仕事は慣れたか?」
 私の背中にブライア様が声をかける。
「はい、なんとか」
「……家は城の近くだったな」
「はい、ごく普通の小さな家です」
「今までにどこかの屋敷に仕えたことでもあるのか?」
「いいえ、こうしてお仕えするのはこれが初めてですけど……」
 私は上着を衣裳部屋に片付けて、掃除用具をまとめにかかった。
「その割にはよく馴染んでいるな。言葉遣いや仕草が」
 ちらりとブライア様に視線を向けると、向こうもこちらを眺めていた。見られていると思うと恥ずかしさが増してくる。慌てて視線を外して、片付ける手を早めた。
「まだまだ勉強中です。……それでは、お休みのところ大変失礼いたしました」
 きっちりお辞儀をして、私は部屋を後にした。

 翌朝、ブライア様が訓練に出た頃合を見計らって、窓掃除だけしてしまおうと足を運んだ。形だけのノックをして、返事がないことを確認してから扉を開ける。そのまま真っ直ぐ窓際へと進んで――、次の瞬間、手にしていた雑巾とバケツを取り落としそうになってしまった。
 ブライア様がベッドで横になっていたのである!
「あっ」
 私が小さく声を上げると、ブライア様の伏せられた瞳がこちらを向いた。
「し、し、失礼いたしました!」
 昨日といい、今日といい!どうしておかしな時間に部屋にいるのだ、この人は。
「……どうやら風邪を引いたらしい。昨日、大事を取って早めに仕事を切り上げたんだがな。これ以上こじらすと後が面倒だから、今日は一日寝ていることにした」
 私が驚きつつも納得のいかない顔をしていたからだろう、ブライア様はそう説明してくれた。いつもより心なしか赤い顔、かすれた声。きっと熱があるのだ。
「申し訳ありません、いらっしゃるとは存じませんでした。すぐに」
「出て行かなくていいと、昨日も言っただろう。掃除をするならして行けばいい」
「そういうわけには参りません。埃を立てれば、きっとお身体に障ります」
「そういうものか?」
「……分かりませんけど、多分」
 そう答えると、ブライア様はかすかに笑った。
「お前はいつも俺を避けようとするな」
「それは、貴族様にお仕えする掃除婦とはそういうものと教わりましたから」
「錬兵場で働いていた時からだ。……俺が初対面でお前に厳しく当たったのを、今も怒っているのか」
 まさかそんな時の話を持ち出されるとは思わなかった。確かに錬兵場でブライア様の姿を見つけるたびに隠れるようにしていたけれど、それに気づいていたなんて。
「悪かったな」
「い、いえ、怒っているなんて、とんでもないです!そういうわけじゃなくて、その、なんと言うか……」
「まあいい。喉が渇いた。そこの水差しから水を注いでくれないか」
 遮られてしまったが、そのほうが有り難かった。どうにも答えようがない。ブライア様を避けていたのは事実なのだ。
 私は言われた通り水を注ごうと、手にしていた掃除用具を部屋の隅に置いた。
(……あ)
 身体を起こして、ふと思いつく。
「あ、あの。やっぱりできません」
「は?」
「水、お注ぎできません。手が汚れていますから」
「構わない」
「でもっ、たった今まで雑巾を握りしめていましたから」
 ブライア様は気だるそうに顔をこちらに向けた。
「……思ったんだが、お前、微妙にズレてるな」
「え?」
「別に水の中に雑巾を突っ込むわけじゃないんだ、構いやしない」
 投げやりな口調でそう言われたが、本当に注いでしまっていいのだろうか。汚れた手で扱ったものを口に入れたくないと思うのは、貴族も平民も同じだ。私だって嫌だ。でもこの場合、ブライア様は構わないと言っている。それを鵜呑みにしていいのか悪いのか……。
 結局私は、水差しとコップの置かれたトレイごと持っていくことにした。私の中で見つかった最良の答えはそれだった。
「……重いぞ」
 ブライア様は呆れたようにそう言う。確かに重い。手が震える。けれどここまでしてしまったらもう引き返せない。
 ゆっくりベッドへ歩み寄り、ブライア様の手元に寄せた。そこまでは何とかなったのだが――あろうことか、そこでトレイをひっくり返してしまったのだ!はっと息を呑んだがもう遅い。一瞬の後に水差しもひっくり返り、中身が派手にぶちまけられた。ブライア様の胸元からベッドにかけて、見事に水浸し。
 ――最悪だ!
「す、す、す、すみませんっ!」
 私は悲鳴にも近い声を上げた。ブライア様は熱に浮かされた瞳でぼんやりと目の前の光景を見つめている。
「ごめんなさい、すぐに拭きます。着替えも頼んで、えっと……」
 混乱していた私はとっさに身につけていたエプロンで水を吸い取ろうとした。拭くもので近くにあるものといえば雑巾くらいだったが、それを使わないだけの判断はかろうじて働いた。まあ、使用人のエプロンも同じようなものなのだが。
「もしかしたらと思ったが、やったな」
 ブライア様はどこか面白がっているような声で呟いた。
「すみません、すみません。本当に、ごめんなさい」
 すぐにエプロンも水浸しになった。一度バケツに絞りに行こう。そして人を呼ぶしかない――混乱した頭でそう判断したときだった。不意に大きな手で顎を持ち上げられ、ぐっと身体を引き寄せられた。誰に――もちろん、ブライア様しかいない。驚きに目を見開いているうちに、柔らかく唇が重ねられた。
 ブライア様の熱を間近に感じた。そして水の冷たさも――。
 しかし、私はその全ての感覚を理解できなかった。何が起こっているのかまるで分からなかった。ブライア様を水浸しにして、それをエプロンで拭いて、そして……。初めから混乱していたから余計に悪かった。理解しきれないうちに唇が離される。私は固まったまま動けなかった。
「……誰でもいいから、呼んできてくれ。何か拭くものを持ってくるように伝えてほしい」
 何事もなかったかのようにブライア様は静かに言った。その声を聞き、たった今起こった出来事は何かの間違いもしくは勘違いだったのではないかという気持ちになった。私も静かに頷いた。
 結局、侍女が三人がかりで後片づけをしてくれた。ブライア様の衣服を替えて、ベッドのシーツを替えて、綺麗な水に入れ替えて。ブライア様は、水を飲もうとしてこぼしたところに私がやって来たと説明してくれた。それで私は全くお咎め無しだった。
 その日はずっとブライア様が自室にいたので、私は仕事ができなかった。掃除用具を洗ったりして時間を潰し、少し早めに切り上げた。
 起こった事態を冷静に振り返って耳まで真っ赤になったのは、その晩自宅のベッドに身を沈めた時だった。

 それ以降、私はブライア様と顔を合わせないよう慎重に慎重を重ねるようになった。立場的にも顔を合わせるべきではないし、立場云々を除いても、色々とあまりにも気まずすぎる。上司にブライア様の一日の予定を毎朝確認し、部屋に入るときも間を置いて必ず二回ノックをするようになった。あの時ブライア様はどういうつもりであんなことをしたのか分からないけれど、深く追及するべきではないと思った。追求するほどのことでもない。ブライア様は熱があったのだ。きっともうあの時のことなど忘れているに違いない。……そう自分に言い聞かせながらも、思い出すたびに頭が沸騰しそうになるのはどうしようもない。我ながら情けないが。
 私は洗濯籠から真っ白のシーツを手に取り、広げた。日の光を浴びて眩しいくらいに光り輝いている。どんどん干していくと、風になびいてシーツの裾がゆるゆると揺れた。数があるから圧巻だ。
 ブライア様が手の掛からない人なので、余った時間に洗濯を手伝うようになった。掃除婦達が面倒がるのは、毎日取り替えるベッドシーツの洗濯である。城内に暮らす貴族たちの数は多い。その全員分となると相当な量だ。初めは、毎日シーツを替えるだなんて信じられない思いだったけれど、貴族というのはそういうものだと今では疑問にも思わなくなった。
 はためくシーツの間を縫って、人影がこちらに近づいてきた。
 掃除婦仲間の誰かかと思ったが違う。男性だ――初めて見る顔の。ひょろりと背の高い、まだ若い男だった。顔に笑みを貼り付けているが、なんとなく嫌な雰囲気があった。
「精が出るねぇ」
 彼は親しげな調子で声をかけてきた。
「君、ブライア様に仕えてる子だったよね」
「……そう、ですが」
「ブライア様ご自身でスカウトしてきただけあって、よく仕事ができるらしいじゃない」
「……ありがとうございます」
 彼は私の目の前で立ち止まった。私は思わず一歩退く。
「実はそんな君を見込んで、ちょっとお願いしたいことがあるんだ」
 お願いしたいこと?私は眉根を寄せて男を見上げた。
「難しいことじゃない。今日、ブライア様の部屋を掃除したついでに――窓の鍵を開けておいてほしいんだ」
 男はそっと囁いた。
 窓の鍵を、開けておく。一瞬意味が分からなかった。何故そんなことを――、そう問いかけようとして、男の歪んだ笑顔に答えを見出した。
「できません」
「……どうして?」
「戸締りはしっかりしないと。基本中の基本です」
「だからさ、今日だけでいいから。普段は基本を忠実に守ってる君だからこそ、わざわざこうしてお願いに来てるんじゃない」
「できません」
 私は頑なに言った。そして、空になった篭を持ち上げ立ち去ろうとした。しかしその腕を強く取られる。
「できないとは言わせない。分かってるんだろう?今夜、あの男を暗殺に行く。そのために手引きしてくれる奴が必要なんだ。君ほどの適任者は他にいない。一人であの部屋を出入りしてるんだからな。なにもブライア様に毒を盛れとか剣を突き刺せとか言ってるわけじゃない。鍵を、開けておく。それだけじゃないか」
「どうして、ブライア様を……。立派な方じゃないですか」
「表向きの戦争は終わった。だが、水面下ではまだ終わっちゃいないのさ」
「あなた、この城の人なんでしょう」
「表向きはな」
 怖かった。逃げ出したかった。掴まれたままの腕を引こうとしたけれどびくともしない。白いシーツに囲まれた私達は、完全に孤立していた。助けを呼ぼうにも他に人影も見えない。
「いいか、鍵を開けておくんだ。もしそうしなければ、明日お前を殺しに来る。ブライア様と違ってお前を殺すのはあくびが出るほど簡単な仕事だろうな。間違っても、誰かに相談しようと思うなよ。この後ずっと、お前を見張っているからな。もし下手な動きを見せれば、その相手共々すぐさま葬ってやる。――行け」
 私はやっと解放された。私はその場から駆け出した。とにかく男から遠ざかりたかった。走って走って、人の多い水のみ場までやって来て――ようやく私は立ち止まった。
 人はたくさんいたけれど、私は一人きりのような気がしていた。どうすればいいのか分からない。誰か、助けて。でも誰にも相談できない。あの男の目が背後で光っているかもしれない。もしあの男に気づかれず誰かに相談することができたとしても、あの男が何者なのかも分からない状態では捕まえようもない。
(ブライア様に、直接相談を)
 できるはずがなかった。私はただの掃除婦だ。ブライア様と会える機会などありはしない。――そう、これまでのことが奇跡だったのだ。本当はブライア様は雲の上の人。一言だって言葉を交わすことなどできるはずがなかったのに――。
(どうしよう)
 私は一人きりで、途方に暮れた。


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