エリンギウムの雫(下)

 結局私は誰にも相談できないままいつも通り時を過ごした。
 本当に、何もかもがいつも通りだった。時折言葉を交わしたのは、戦うだとか殺すだとかいった言葉にまるで縁のないような、ごく普通の使用人ばかりだ。都合よくブライア様が現れてくれることもなければ、側近のソブル様が現れてくれることもなかった。私の真っ青な顔色に気づいてくれる人もいない。誰かに声をかけてもらうのを待つばかりではいけないと思いながらも、何も知らない掃除婦仲間を巻き込むこともできずにいた。
 ブライア様の私室。
 相変わらず物の少ない部屋だ。ゆっくりと足を踏み入れ、改めて辺りを見回して思うこと。貴族らしくない無骨な雰囲気にブライア様の人柄が表れていた。
 いつものように窓を開け放つ。心地のいい冷たい風が頬を撫でていった。――私は、どうすればいい。
 答えは見つからないまま部屋の掃除を始めた。はたきをかけ、棚を拭き、ベッドのシーツを取り替える。床を掃いて、そして拭く。水差しを交換して、指紋一つないことを確認してからコップを置いて。そうして、全てはつつがなく終わった。
 再び窓に歩み寄り、そっと閉めた。そのまま体が固まったように動けなくなる。じっと鍵を凝視した。この鍵に触れず、両手をただ下ろすだけで――私の役目は終わるのだ。これほど簡単なことはない。それだけで、私の命は救われる。
 けれどそれはブライア様の命を危険に晒すことに他ならない。以前ソブル様は言っていた。部屋は戦う者にとって唯一の安息地で、そこが脅かされることは想像を絶するほどの苦痛になると。私はその大切な安息地を預けるに足る人間だと認めてもらった。ただの掃除婦に過ぎないけれど、ブライア様はわざわざ私を選んでくれたのだ。錬兵場から私をここへ連れてきてくれた。あのブライア様が。その期待を裏切るような真似はしたくない――!
(だけど、だけど)
 鍵を閉めたら。あの男が今晩ここへやって来て、部屋に入ることができなかったら。私は本当に殺されてしまうかもしれない。今日、誰の目にも留まることなく私の側までやって来たのと同じように、静かにそっと私の背後に立つだろう。その時の私に抵抗できるはずがない。
 ブライア様ならどうだろう。夜中、眠っている間に闖入者が現れたとしたら?気づかず殺されてしまうだろうか。剣聖とまで謳われたこの国一番の騎士様が?そんなはず、ない……のではないか。カタンと窓が開いた瞬間に目が覚めて、簡単にあの男を返り討ちにしてしまうかもしれない。少なくとも私よりはずっと助かる可能性が高いはずだ。
(だけど、私)
 やはりできない。ブライア様だって超人ではないのだ、自室でくつろいでいれば気づかないことだって十分にあり得る。それにブライア様のこの部屋に、暗殺者を招き入れるようなことはできない。例えブライア様が簡単に返り討ちにしたとしても、暗殺者の手助けをしたという事実は私に重くのしかかるだろう。
 では、私は自分の命を見捨てるのか?
 ――それも怖い。死にたくない。
 私はもう一度考えを巡らせた。どうにかこの状況から逃れる術はないだろうか。ブライア様を探しに行くのはどうか。いや、駄目だ。今日の予定では、確かこの時間は会議に出席しているはずだ。会議場に乗り込む前に見張りの兵にでも捕まってしまうだろう。それでは、その兵士に事情を話すのは?きっと初めは信じてくれない。信じてくれたとしても、あの男の名前すら知らない私に話せることは高が知れている。あまり大きな騒ぎになれば、あの男は身を潜めるだろう。そしてほとぼりが冷めた頃に、私を始末しにやってくる。
 ブライア様に会うことができないのなら、手紙を残すのはどうだろう。そう考えて私は力なく首を振った。私は字の読み書きがほとんどできない。自分の名前と、せいぜい日常会話程度のことしか分からないのだ。「今夜、暗殺者がブライア様のお命を狙ってやってきます」――そんな短い一行ですら、私には書いて伝えることが叶わない。
(もう駄目だ、駄目だ)
 考えれば考える程に袋小路に追い込まれていく。そして追い込まれるほど、窓の鍵を開けておきたい衝動が強まっていく。
(もう、これ以上考えては駄目)
 自分の心に負けてしまう前に、鍵をかけてしまおう。
 その後のことはもう考えたくなかった。
 そして私はブライア様の部屋を後にした。

 その夜、もちろん私は眠れなかった。
 今頃あの男はブライア様の部屋の窓が開いていないことに気づいているだろう。激しく怒っているに違いない。必ず私を殺してやると、そう誓っているだろうか。私のような小者は手にかける価値もないと考えてはいないだろうか。
 明日から家に閉じこもっていようかとも考えた。このまま城に上がらなければ助かるかもしれない、と。しかし相手は私のことをきちんと調べているようだった。この実家にまで乗り込んでこられたら堪らない。私は静かに覚悟を決めた。
 そして翌朝、私はいつもよりも早く家を出た。昨晩どうなったのか、気になって気になって仕方がなかったのである。きっと表向きは何事もなかったかのように落ち着いているだろうと思いながらも、私の足は駆けるようにして城へ向かっていた。
 だが。
 予想に反して、城内の空気はいつもと明らかに違っていた。
 騒ぎになっているとまではいかないものの、どこか慌ただしい雰囲気に包まれている。こんな時間には珍しく、兵士たちも武器を携えて走り回っていた。
 私は嫌な予感がした。制服に着替えるのも忘れてブライア様の部屋に向かう。そんな私を咎める者はいなかった。誰もが、私などには構っていられないという様子であちこちを行ったり来たりしているのだ。私はその中の一人を捕まえてどうにか話を聞きだした。
「あの、何かあったんですか?」
「はあ?なんだい、あんた」
「ここの掃除婦です。今来たばっかりなんですが、皆さん何か慌ててらっしゃるようで」
「そういや、どっかで見たことある顔だな。……実は昨日の晩、あのブライア様の部屋に侵入した輩がいたんだよ」
「えっ」
 私は衝撃のあまり固まった。息が、できなかった。心臓を鷲掴みにされた心地がした。
「ブライア様の部屋に、侵入……?」
「そう、窓からな。ここの使用人だって話だが、どうやら敵国に内通してた男らしい。それでブライア様に刃を向けたって」
 言葉の意味を理解すると同時に、体中が震えだした。

 ――私、昨日、どうしただろう?
 結局――きちんと、窓の鍵を、かけただろうか?

 冷たい汗が背中を伝っていった。絶望的な答えが私をゆっくりと包んでいく。

 ――どうしよう、どうしよう、どうしよう。私、とんでもないことをしてしまった!

 私はすぐさま駆け出した。ブライア様の部屋を目指して、もう立ち止まったりはしなかった。今日ばかりは扉をノックをすることも忘れ、体当たりをするように激しく開く。中には数人の兵士やら文官やらが立っていた。突然の乱入者に、皆目を丸くしてこちらを振り返る。その肩の向こうに、――ブライア様の姿も見えた。
 ブライア様も驚いたような表情で私を見ていた。その姿のどこにも怪我をした様子はない。私は涙混じりに深く息をついた。
「リノ?」
 ブライア様が私の名前を呼んだ。それが嬉しくもあり、また悲しくもあった。
「な、なんだ、お前は」
「待て」
 兵士の一人が私を部屋から押し出そうとしたが、ブライア様がそれを止めてくれた。
「……もう話を聞いたのか。早いな」
「ブ、ブライア様……。暗殺者は?」
「昨日侵入した男達なら、その場で捕まえてやった。今は牢屋に放り込んである」
 その言葉を聞いて私は心底ほっとした。良かった。やはりブライア様があんな男に易々と殺されるはずがなかったのだ。
 しかし問題なのはその結果だけではない。
「ブライア様、申し訳ありません!」
 私は思い切り頭を下げた。
「私、私が、窓の鍵を閉めなかったんです。だから昨日、暗殺者が部屋に入ることができたんです」
「リノ、落ち着け」
「私のせいなんです。本当に申し訳ありません!」
「リノ!」
 頭が膝につくほど身体を折り曲げていた私の肩を、ブライア様が強い力で掴んで起こした。
「違う、お前のせいじゃない。窓の鍵を開けていたのは――俺だ。俺がわざと、部屋の鍵を開けたんだよ。お前はきちんと鍵を閉めていた」
 何を言っているのだろう。わけが分からない。私は声も出せずにブライア様の顔を見返した。
「昨日の昼、あの暗殺者がお前に鍵を開けておく話を持ちかけたな。それをソブルが、聞いていた。ソブルには日頃からお前を気にかけるよう命じていたから、あの時もたまたまお前達の側にいたんだよ。その場で男を捕えられれば話は簡単だったが、証拠が何もない状況だったから。ソブルから報告を受けて、それなら実際に忍び込ませてやろうと、そう考えて――」
「ブ、ブライア様が、鍵を」
「そうだ。だから昨日の晩俺はずっと起きていたし、奴がやって来るのも知っていた。武器も手元に用意していたし、捕まえるのは簡単だった」
「……」
 もう何も言えなかった。あまりに安心しすぎて、言葉の代わりに涙がこぼれ出た。ブライア様はその涙を優しくぬぐってくれた。
「……お前は、自分の命が危険に晒されていたのに窓の鍵を開けなかったな。他の者にも危険が及ぶからと、誰にも相談できずにいたんだろう」
「……」
 私はそっとブライア様の手から逃れ、頭(かぶり)を振った。
「私――、私」
 溢れる涙のせいでうまく喋れない。何度も支えながら、それでもどうにか先を続けた。
「私、これ以上、ブライア様のお側でお仕えできません。本日限りで、お暇を頂きたいと思います」
 そして返事も聞かず、その場から逃げるように走り去った。背中にブライア様の私を呼ぶ声が聞こえてきたけれど、止まることはできなかった。
 涙も止まらなかった。泣いて泣いて、走って走って。私はもと来た道を戻って城を出た。

 それから、時間がすぎるのはあっという間だった。
 親には詳しい事情も話さずただ仕事を辞めてきたと告げたので、随分と心配をかけてしまった。数週間のうちに何通も城から手紙が送られてきたので、ますます何事があったと気を揉んでいたらしい。
 辞書を引きながらどうにか読んだ手紙には、ぜひ城に戻ってきてほしいという旨が書かれてあった。しかしそれはできなかった。もうブライア様にあわせる顔がない。半月分の給金は貰っていないままだったけれど、それもどうでもいいことだった。
 しばらくは庭の花に水をやったりして過ごしていた。次の仕事を早く探さねばという気持ちもあったが、やる気が沸き起こってこなかった。後もう少し、もう少ししたらきっと吹っ切れる。
 そうしてずるずる過ごしていたある日――、城からの使者が、やって来た。

 その使者というのはブライア様だった。地味な色のフードを目深に被っていたが、分からないはずがない。ブライア様の顔など知らない家族に入り口まで引っ張り出されてその姿を目にした時、私は激しく取り乱して、思わず逃げ出そうとしてしまった。しかしさすがに、我が家でブライア様を放り出すわけにいかない。ほんの少し話をする時間を貰いたい、とブライア様は言った。
 狭い応接室でブライア様と向かい合い、私は途方に暮れた。あまりにも場違いな人が目の前に座っている。しかも、私に会うためにやって来たのだ。
「ここがお前の家か」
 フードを下ろして控えめに部屋を見渡すブライア様の横顔は、相変わらず整っていた。
「……久しぶりだな」
「……はい」
「元気にしていたのか」
「……はい」
「どうして突然城を辞めた?」
「……」
 ブライア様はわずかに瞳を伏せた。
「暗殺者の件を知っていたのに、俺はそれをお前に知らせなかった。俺やソブルがお前に接触したことが相手に知れれば、警戒して姿を現さないかもしれないと考えたからだ。だが――お前は一晩、生きた心地がしなかっただろう」
 ブライア様の声は囁くように小さかったが、よく通っていた。
「すまない。お前の気持ちを無視してしまった。お前は自分の身よりも俺の身の安全を優先したのにな。それで俺に愛想をつかしたとしても、仕方がないと思っている」
「ち、ちがうんです」
 居たたまれなくなって、私はブライア様を遮った。
「違うんです……。そんな理由じゃありません。私は、私が愛想をつかしたのは、自分自身です」
「自分自身?」
 ――そう、私は自分が、許せなかったのだ。
「私、あの日、あの男に脅されて……悩んだんです。鍵を開けたままにするかどうか。私は自分の身可愛さに、暗殺者に手を貸そうかと本気で考えたんです。次の朝、窓の鍵が開いていたと知って、私が開けたままにしたんだと迷いもなく思いました。――結果的には、私は鍵を閉めていたのかもしれません。でも私はそれを憶えていなかった。私は、自分がどうしたのかも分からない程に迷っていたんです、最後の最後まで。だから私、ブライア様に信頼していただける人間じゃありません。もうこれ以上お仕えできないと思ったのは、そういう理由からです」
「リノ」
 ブライア様の声に強さが戻った。
「俺はお前を信頼してるよ。ただの掃除婦にしておくのは勿体ないと以前から思っていた。その思いは今も変わっていない。俺が信頼する人間は、俺が決める」
「駄目です。私、自信がありません」
「少しずつ取り戻していけばいい。俺の元で」
 ブライア様は少し身を乗り出し、テーブル越しに私の手を取った。
「戻ってきてくれるだろう」
「掃除ができる人間なんて、他にたくさんいらっしゃるでしょう」
「掃除ができるだけならな。だが信頼できる人間はそうそういない。それにリノには、掃除婦ではなくて、まずは俺付きの侍女として戻ってきてもらうつもりだ」
「侍女……?」
「そうだ」
「まさか。私のような平民に、ブライア様の侍女が務まるはずありません」
「もう他の者には話を通してある。お前が暗殺者に脅されてもなお窓の鍵を開けなかったというのは城でもよく知られているから、そういう人間を俺が側に置きたがるのも大方納得するだろう。作法については気にすることはない。少しずつ憶えていけばいい」
 ぐっと手を強く握られた。
「リノ、戻ってきてくれるか」
「……」
「リノ」
 この人は、きっと本当に私を信頼してくれている。握られた手を通してそれを強く実感した。私が一度裏切りの道を選ぼうとしたと知ってもなお、揺るぎない信頼を寄せてくれるのだ。
 ――私、やっぱり、この方にお仕えしたい。ブライア様の側にいたい。
 視界が涙で滲んでいく。その涙が零れないように唇を噛んだ。
 そして私は、頷いた。
「――良かった」
 ブライア様は大きく息を吐いた。心底ほっとしているような表情に、私も素直にほっとした。またブライア様にお仕えしてもいいのだという喜びがじわじわと沸き起こってきた。
「……色々、本当にすまなかった。またこれから、よろしく頼む」
「いいえ、こちらこそ……」
 ああ、だめだ。涙が溢れてしまいそうだ。
「あの、私、至らないところもたくさんあるかと思いますが、精一杯頑張ります」
 そうだ。初めから私は、ブライア様のことを思って頑張っていたんだ。初めの頃の『思う』気持ちと今の気持ちは、まるで違っているけれど。物は考えようでどうにでもなるんだなと、少しくすぐったい気持ちになって、やっと私は笑うことができた。
「では、早速明日から城に来てもらえるか。必要なものはこちらで手配しておくから、リノは身一つできてくれればいい。時間は、そうだな。とりあえず今まで通りで構わない。今後の予定は明日決めよう」
 手際よく段取りを決めていくブライア様の様子を眺めながら、一つ、ふと疑問に思うことがあった。
「ブライア様」
「ん?」
「先ほど仰った、『まずは侍女として』というのは、どういう意味でしょうか?」
 するとブライア様はふっと笑みを漏らした。
「以前リノに口づけたのは、俺が熱に浮かされていたからだと思ったか?そうじゃない。それに俺は遊びで女に手を出したりもしない。だからつまり将来は――、まあ、今はまだ何も言うまい。だが、そういうことだ」
 その言葉に、私は目を見開いて固まった。
 それから顔を真っ赤に火照らせ――、これから歩むかもしれない途方もない道のりを思い、眩暈を起こしたのだった。


backtop