03.

 三杯目のハーブティーを飲み干した頃、時刻は夜九時を回っていた。
 部屋には重々しい空気が漂っている。あまりに手持ち無沙汰なこともあるし、何よりこれから起こるかもしれない戦慄の時間を思い浮かべると嫌でも気分は沈んでしまうのだ。それに、リアンとセシルはもともと仲のいい友達というわけでもないために、こんな時に場を盛り上げるような共通の話題も持ち合わせていなかった。
「……自衛団のほうは、大丈夫?」
 気だるげな口調で、リアンが問う。街の見回り中に引っ張り込んでしまったが仕事は大丈夫かという意味だろう。しかしこれは、問いかけであって問いかけではない。答えなど必要とせず、単に沈黙を破る糸口として紡がれた言葉に過ぎない。例え大丈夫ではなくとも、彼を帰す気などリアンには全くないに違いない。セシルもそれは分かっているようで、やはり気だるげに適当な言葉を返すのみだ。
「何も収穫ナシじゃ、あまり大丈夫とは言えないが――白の花嫁を捕まえられるならな。一晩でも二晩でも、安いモンだろう」
「じゃ、もし今夜がダメでもまた明日付き合ってね?」
「明日は他の奴を呼んでくれ」
「なによ、たった今二晩でも三晩でも安いもんだって言ったくせに」
「一晩増えてるぞ」
 言いながら、あまりにも馬鹿馬鹿しいやり取りに、二人ともげんなりしつつある。喉も渇いていないのにティーカップがやたらと空になってゆくのも、徒(いたずら)に時間の長さを感じさせてしまって非常に良くない。
「そうだな、今日はもう――」
 そしてセシルが早々に音を上げようとした時だった。

「――しっ!」
 突然人が変わったように、リアンが厳しい表情をして窓の外に目をやった。つい数秒前までだらりと椅子に腰掛けていたとは思えないほど俊敏に、さっと立ち上がってドアの方へと歩み寄る。
「……どうした」
 尋常ではないリアンの様子に、セシルも気を引き締めて腰を浮かせた。一応問うてはみたものの、何が起ころうとしているのかは尋ねるまでもないほど明白だ。
「――来たのか」
 お互い、口を閉ざして全神経を扉の向こうに集中させた。静かだ。物音一つしない。――不自然な程に。

 コンコン……

 出し抜けに、木製の扉が音を立てた。か弱いノックの音、それでもこの部屋にははっきりと響き渡った。リアンもセシルも、息をつめて動けない。穴が開く程に、ただ扉を凝視し続ける。ピンと張った糸がぷつりと切れてしまうように――この場の張りつめた空気が、今にも破裂してしまいそうだった。
 コンコン……
 立ち尽くしていると、再びノックの音が返事を催促する。その音を受けて、すっとリアンがセシルに目配せした。セシルは心得たように頷いて、低く呟く。
「誰だ」
「もし……」
 ノック同様、非常に儚い声が、扉の向こうから。人の気配はまるでない。ただ声だけが虚空から沸いて出たようだ。
「どうか、お姿をお見せください。ずっとこの時を待ちわびておりました」
 澄んだ美しい声だ。喜びよりも悲しみをまとっているような、どこか泣き出しそうな声音。
 セシルはリアンを振り返った。「行きましょう」 短くリアンは返事をして、手近にあった小瓶を取り上げる。
「扉を開けるぞ」
「ええ」
 身構えて、恐る恐る扉に手をかける。ガラン、と、扉についた鐘の音が場違いなほど軽やかに響いた。
 そして――
 その扉の向こう側に立っていた白い影に、二人は思わず息を呑んだ。白い花嫁衣裳に身を包んだ女が、そこにそっと佇んでいたのだ。
 噂通り、いやそれ以上の美しさだった。愁いを帯びた切なげな瞳、形の良い小さな鼻、ほんの少し開かれた白い唇。まるで女神の彫刻のよう――そう思わせるほど崩れのない左右対称をした顔立ちは、いっそ完璧といっても過言ではない程だった。しかし、これほど衝撃的なまでの美しさも、一たび目を逸らせば頭の中からその表情がすうっと消えてしまいそうな、空しい虚ろさがあった。そしてそれこそが、彼女が「この世ならざるもの」である何よりの証であろう。
「やっとお会いできて嬉しゅうございます。どうか、一緒にいらしてください」
 女はセシルをじっと見つめて小さく微笑んだ。――今、手を伸ばして彼女に触れようとしたら、一体どうなるのだろう。それは叶うのだろうか。それとも、まるで初めから何事もなかったかのように、彼女はすっかり消え失せてしまうのだろうか。セシルはそんな不思議な思いに囚われたが、行動に移すことはなく、ただ黙って立ち尽くした。自分の抱いた思いが狂気に繋がる最初の一歩であると、わずかな理性が己を戒めたからだろう。彼女に取り込まれたら、全てが終わる。セシルは口をぎゅっと結んだ。
「……セシル、大丈夫。ついていきましょう」
 後ろから、リアンがそっと背中を支えた。彼女もセシルがぎりぎりのところで自分自身と戦っていることを感じていたのだ。
「ああ……、行こう」
 その言葉を、自分への返答と受け取ったのか。白の花嫁は音も立てずにそっと背中を向け、薄暗い路地を歩き始めた。
 女は細い裏路地ばかりを選んで、ゆっくりと歩いていく。ただでさえ人通りの少ない今のホーテンダリアでは、裏路地に泥酔した酔っ払いを見つけることすらできなかった。この場にいるのは、セシルとリアン、そして白の花嫁のみ――。花嫁は迷うことなく一定の足取りで歩き続け、時折後ろを振り返ってはセシルが側にいることを確認し、また前を向き直るということを繰り返していた。
「本当に、タチが悪いわ」
 リアンが小さく呟いた。
「何だ?」
「『白の花嫁』は、街の造りをよく分かってる。普通『この世ならざるもの』っていうのは、大体同じ場所で同じ行動しか取らないものなのよ。なのにこの女は、色んな家を訪ね歩いて、そこから一番人通りの少ない道を選び、男を連れて行く。人間に近すぎる知性を持った『もの』はあまりにも危険だわ」
「……確かに、普通の『もの』は出現場所が決まってるな」
 例えば、街の東側にある宿屋「ネルーセンの巣」では、毎晩一〇二号室に若い女の「この世ならざるもの」が現れて、子守唄を一曲歌い去っていく。一度だって一〇三号室に現れたことはないし、子守唄を歌う以上の行動をとったこともない。だからこそ害はないのだし――その宿屋は男たちに異様な人気を博しているのだ。
「それにしても……」
 一体、どこまで行くのだろうか。どんどん街外れの方向へと向かっている。最初の被害者となった靴屋のレイモンが発見された公園も、今しがた通り過ぎてしまった。これ以上行けば、確実に街を出てしまう。
「おい、どこまで連れて行くつもりなんだ」
 セシルは気丈な声で女に尋ねた。しかし女は振り返らない。
「行き先を言わないつもりなら、ここで引き返してもいいんだぞ」
 彼女に取引めいた言葉が通じるのか――自信はないままに、それでもセシルは足を止めて彼女の様子を窺った。花嫁はしばらく反応も見せず歩き続けていたが、ふと振り返った拍子にセシルが続いていないことに気付いて、悲しげな声を上げた。
「どうか、どうかわたくしについていらしてくださいまし」
「どこまでついていけばいい?」
「ずっとあなたをお待ちしていたのです。もう、独りきりにはしないでください」
 会話になっているようで、その実どこかちぐはぐな感じがする。空恐ろしさにセシルは背筋を凍らせた。リアンはと言えば、唇をぎゅっと結んだまま何とも言わず、ただ様子を窺っている。が、ふと思い出したように口を開いて花嫁の代わりに返事を寄こした。
「おそらくは、街外れの教会に向かっているんでしょうね」
「教会?」
 仕方なく歩みを再開しながらも、セシルは振り返って続きを促した。
「そんなもの、街外れにあったか?」
「今はもう廃墟になってるわ。街の外れに雑木林が広がってるでしょ。あの入り口辺りに、ものすごく古い教会があるの。記録によれば、昔は街の様々な行事がその教会で執り行われたとか」
「ということは、そこで結婚式を挙げようっていうのか」
「教会は結婚を祝福するだけの場所じゃないわ――、白の花嫁には、そろそろ安らかに眠ってもらいましょう」

 街をぐるりと取り囲む外壁を越えた先に、その教会はあった。
 欝蒼と茂る草木に囲まれ、荒れ放題となった木造の建物が、黙してそこに座している。かつては神々しい佇まいを見せていたと思われるが、今では見る影もないほど寂れきっていた。
 窓には一枚たりともガラスが残っておらず、壊れかけた窓枠には代わりにぽっかりと暗闇が浮かんでいるのみだ。木製の柱はあちこち折れてしまって、その役割を放棄しているものも少なくなかった。かろうじて建物を支えている柱たちも、白い塗料が禿げ上がって痛々しい姿を晒している。
 白の花嫁はその教会の入り口に立ち、静かにこちらを振り返った。
「やっぱりこの教会か……」
「ここが正念場よ。あとは私の言う通りに動いてね。絶対に勝手な行動はしないで」
「分かった」
 花嫁は自分ではその扉を開けられないのか、じっとセシルを見つめ、同じように入り口までやってくるのをただ待っている。
「それじゃあ……、教会に入りましょう。この中で『何か』が起こるのは間違いないわ。それにさえ対処できれば、道は開けるはず」
 セシルは頷いて、そっと白の花嫁に並んだ。目を閉じ大きく深呼吸をして扉に手をかける。ギギイ、と軋む音を立てながら、ゆっくりと扉は開かれていった。