02.

 白の花嫁、それが今このホーテンダリアで一番力を持つ言葉だった。今や、この言葉を耳にして震え上がらぬ者はいない。「白の……」というその一言で、皆一様に顔色を失くし、怯えた瞳で言葉の先をそっと窺う。この言葉はもはやタブーも同然だった。面白半分に口に乗せる者は誰もおらず、その言葉を発せねばならない時は、良くない知らせを伝える時と決まっていた。

 ――また白の花嫁が出たらしい。
 ――今度は、どこへ。
 ――ファーヴィアンのところさ。あそこの息子がやられたって話だ。
 ――なんだって。一人息子だったってのに……。

「ここのところ出現率が上がってきてるな。三日に一人は犠牲になっている」
「ええ。こういう良くない『もの』は、放っておくとどんどんタチが悪くなるのよ」
 リアンとセシルは、互いに厳しい表情で手元のカップに目を落とした。普段は軽口ばかり叩き合っている二人も、流石にこの話題では軽々しい気分になどなれない。
「珍しいよな。人の命を奪う『もの』なんて」
「――そうね」
 白の花嫁が初めて現れたのは、ほんの一ヶ月ほど前のことだった。
 いつもと変わらず、「宵迎えの鐘」が鳴り響いたホーテンダリア。昼間に広がる理性の光はその身を潜め、妖しくも魅惑的な闇夜のヴェールが代わって辺りを包み込む。そんな街の一角に、朧(おぼろ)な女が姿を現したことも、それだけならばやはり「日常」を越えた出来事ではなかった。
 その女は、肌も衣装も見事に純白で美しかった。幽かなる者特有の、ぼんやりとした淡い光に身を包まれている。それはまるで、光という影をまとっているかのような、なんとも不思議で、神秘的な姿だった。
 そんな女が、戸口の前に立っている。そして、「どうか、どうか」と、か弱い声で呟き続ける。
「ずっと貴方をお待ちしておりました。どうか、一緒にいらしてください」
 見れば、顔立ちもぞっとするほど美しい。
 この声を初めて聞いたのは、一人の若者だった。両親が旅行に出かけ、家に一人きり。そんなところへやってきた「この世ならざるもの」。彼女に声をかけられた若者は、その可憐な美しさに釘付けになった。
「一緒にって、どこへ?」
「わたくしに、ついていらしてくださいまし」
 思わず口をついたその質問に、確かに言葉が返される。「世にあらざるもの」と言葉を交わしたという事実が、若者を一気に震え上がらせた。――あり得ぬことではない。しかし、よくある茶飯事でもない。相手の言葉を解する「もの」は、滅多に存在しないのだ。たまにいるとすれば、それは決まって良くない念を持つものであった。だから若者はうろたえた。正気に戻った。
「――い、いや。か、帰ってくれ。俺はついていかないぞ!」
 ばたん、強く扉を閉める。そのまま若者は扉の向こうの様子を窺っていたが、一向に妖しい気配は立ち去らなかった。今にも泣き出しそうな声で「どうか、どうか」と繰り返している。気が変になりそうだった。若者の方こそさっさとこの場を立ち去りたかったが、扉に背を向けたが最後、女が戸をぶち破って自分に襲い掛かってきそうな気がして、できなかった。それで結局、若者は一晩中扉の前に立ち尽くしていたのである。いつの間に去ったのか、朝日が昇る頃にはすっかり女は姿を消していた。

「――で、そいつは助かった、と」
「そう。珍しいケースよ。でも次はそうは行かなかった。その女は本当に綺麗な顔貌をしているからね。普通の男は、何も考えずについて行っちゃうの」
「最初に犠牲になったのは……靴屋のレイモンだったな」
「ええ。やっぱり同じように花嫁衣裳の女が家の戸口に立って、ついて来てくれって言う。レイモンの奥さんもその場にいて、必死になって止めたのに、彼は文字通り取り憑かれたようになってふらりとついて行っちゃったの。で、次の日の朝、干からびたミイラになったレイモンが街外れの公園で発見された」
 そこまで聞いて、セシルは顔をしかめた。セシルはその死体を見たのである。自衛団員という仕事柄、いち早く現場に駆けつけねばならなかった。変わり果てたレイモンの姿は、とても忘れられそうにない。皮と骨ばかりになった肢体に、しかし目だけは生きた時のままだった。妙にツヤツヤとした目玉が窪んだ眼窩から零れ落ちんばかりになっている様は、百晩夢に見そうなほど、あまりにも生々しくて。
「それからはなし崩しに被害者が増えていったわ。花嫁の美しさに心奪われる者、続く怪死に好奇心を抱いて冒険する者、色々ね。共通してるのは、全員若くて全員バカだってことくらい」
「辛辣な言いようだな。『世にあらざるもの』に目を留められれば逃れたくても逃れられないんだろう」
「さーあ、どうかしらね。男なんてみんな美人の言うことだったら何でもホイホイ聞いちゃうんだから。美人なら、それが生者でも死者でも関係ないのかもよ」
「『世にあらざるもの』に僻んでるのか?お前こそバカだろ」
「私はね、嘆いてるの。男とはいつの時代も愚かで救いがたい生き物である。だから今回みたいな『もの』が登場しちゃうんでしょう」
「どちらが先かは分からないだろう」
「どっちでもいいわ」
 投げやりな調子でリアンは呟いた。そう、そんなことはどちらでもいい。重要なのは、白の花嫁にどう対処するかということだ。このまま彼女を放っておけば、被害者は更に増えていく一方だ。リアンは頬杖をつきながら忌々しげに息を吐いて、大きく足を組み替えた。その乱暴な動きにつられ、ふわりとスカートの裾が揺れる。
 リアンも見てくれだけはなかなかのものだ。ゆるやかにウェーブした亜麻色の髪は柔らかそうで、動く度に肩先をそっとくすぐる様子は見るからに愛らしかった。少し釣り目がちな瞳も、ぱっちりと大きく綺麗なエメラルド色をしていて、見る者を吸い込む力がある。シンプルだが少女らしさを感じさせる衣服も彼女の顔立ちにはぴったりだった。
 だがしかし、一たび口を開けば可憐さなどは一瞬でどこかに吹き飛んでしまう。彼女は非常に乾いた性格をしていて、簡単に言ってしまえば、何に対しても大層シビアなのである。物に対する考え方は、可憐どころかいっそ男前ですらある。彼女がもし男だったらさぞかしもてたことだろうと、セシルなどは密かに思っているくらいだ。そんなセシルの思惑など知る由もないリアンは、今日もやはり飄々とした態度で「世にあらざるもの」に悪態をついている。
「全くもって迷惑な奴よね。生前の結婚がうまく行かなかったからって、今頃になって男漁りだなんておこがましい。生贄になっちゃったもんはなっちゃったんだから、いい加減それを受け入れてもらいたいわ」
「生贄に、って……お前、花嫁のことを知ってるのか?」
「調べたの」
 言いながら、リアンは山積みになった本から一冊を取り上げた。焦げ茶の表紙に、金糸で小さく年代が書かれている。
「この街の年代記よ。といっても個人が趣味で書いたものだから、日記みたいにかなり主観的な内容になってるけどね。これは今からおよそ二百年くらい前の時代の分。現代語に翻訳されてるわ」
 リアンに手渡されて、セシルはぱらぱらと本をめくってみた。細かな字でぎっしりと、かつてのホーテンダリアの日常について書かれている。街を荒らした盗賊の話、食中毒を引き起こした井戸の話、美味しいパン屋の大安売りの話……。確かに文章はかなり個人的な視点から書かれていて、どうでもいいような小さな出来事について長々と記している箇所もある。
「ここ、見て」
 リアンはずいと身を乗り出して、本の後半部分までページをめくった。
「――『ミネルシア月第十三日、かわいそうな娘の話』。」

 今日も雨は降り止まない。これでついに、雨天続きはふた月となった。
 神の怒りだと年寄り連中が騒いでいる。以前から話に上がっていた儀式が執り行われることになりそうだ。
 かわいそうに、神の花嫁として選ばれるのはエミーリエになるだろう。
 彼女の花嫁衣裳を縫う女たちの目には涙が浮かび、そのせいで手元が見えなくなるのか、幾度となく縫い間違いをしては糸をほどいている。
 このような天変地異が起こると街で一番美しい娘を神の元に嫁がせる――つまり生贄にするという慣わしは、古くはユリエール地方で続けられていたらしい。
 このホーテンダリアではおそらく初めてとなるだろう。そして、これが最後となることを切に願う。

「このエミーリエが、白の花嫁だってことか?」
「そうだと思う」
「あのな……これだけの情報じゃ何とも言えないだろう。実際儀式が行われたのかすら、後日の日記にも書かれていないし」
 ページをめくれば、またそれまでの調子に戻って、サーカス団が興行に来た話や新しくオープンした菓子屋の話などがつらつらと書かれている。
「“触れられていない”のよ。でも実際に儀式は行われたはずだわ。この作者、パン屋の安売りとかどうでもいい話に数ページつぎ込む人間でしょ。それがこんな大きな出来事については半ページも割いていないのよ。あんまりな出来事に、筆が乗らなかったんでしょうね。儀式の詳細については、それこそ書きたくなかったんじゃないかしら。何にも事後報告がないけれど……それこそが、儀式が実行されたっていう暗黙の報告なんだと思う」
「うーん」
「だって、仮に儀式が取りやめになったんなら、それこそ報告があっても良さそうじゃない?『エミーリエが助かって良かった良かった』とか。それに、もしかしたら儀式で雨が止んだのかもしれないわね。雨が降り続いているなら、サーカス団が興行に来れるはずがない」
「まあ……そうかもしれないな」
 言われてみれば、きちんと筋が通っているような気がする。花嫁、美女、浮かばれない死に方……。しかし、やはりいささか強引な結びつけという気がしないでもない。
「きっとエミーリエは、本当の花嫁になることも叶わず死んでしまったことが未練なのよ。愛する人と結ばれたいという強い想いが、自分を『この世ならざるもの』にしてしまった」
「その確信の根拠は?」
「なんとなくそうと思う」
「……ああ、そう」
 セシルは小さく溜息をついて話を打ち切りにした。リアンはいつもこうだから、理詰めで追及してもまるで埒が明かないのだ。この街で「この世ならざるもの」が何か問題を起こした時、彼女はいつもどこからか解決の糸口を引っ張り出してくる。砂漠に埋もれた一本の針を見つけ出すように、気の遠くなるような可能性の中から、間違いもなく確実に。だから今回も、彼女がそうだと言うのなら間違いないのだろう。
「それで?」
 目を閉じ、眉間に皺を寄せてセシルは先を促す。――この後自分にやっかいな役回りが待ち受けていることも、間違いないのだ。
「白の花嫁がエミーリエだとしたら、彼女が声をかけて回っているのは自分の花婿探しのためということになる。何人もの男が殺されているのは――男たちが彼女の花婿として相応しくない『何か』があるからなのよ」
「ただ男を殺すことだけが目的になってるのかもしれないが」
「そうかなぁ……。生贄にされたことが未練になってこの世に残ってるのよ。その未練を晴らすことが何よりもの目的のはずでしょ?せっかく神サマじゃなくて人間の花婿を手に入れたっていうのに、どうして殺して何度も同じことを繰り返してるの?」
 セシルがああ言えば、リアンはこう言う。二人の話し合いで明らかになるのは、お互いどこまでいっても気が合わないということだけだろう。
「白の花嫁と男が家を出る。翌朝、男が死体で発見される――。この間の空白の時間に、問題を解決するきっかけがきっとあるはずよ」
「……それで?」
 セシルの問う声がいよいよ低い。リアンがしようとしていることを察してしまったのだろう。
「あなたには、エミーリエの花婿になってほしい」
 悪びれもせず言い放つリアン。ここまで来て下手に遠まわしな言い方をしても仕方がないと、彼女は彼女で割り切っているようだ。
「エミーリエについて行って、何が起こるのか確かめるのよ。そうでなくちゃ対処のしようもない」
「お前、それ俺に死ねって言ってるのと大差ないぞ」
「大丈夫、私もちゃんとついて行くから。危なくなったら助けるわ」
「どうやって?」
「……さあ?」
 この上なく頼りない護衛である。
「まあ、仮にその役目を引き受けるとしても、だ。白の花嫁は無差別に男を選んでやって来るだろう?いくらこっちが花婿に立候補したところで、向こうが姿を現さなければ話が進まないじゃないか」
「手は打ってあるわ――賭けに近いけど」
 リアンはくいっと顎で入り口の方を示して見せた。
「扉のところに、アオサの葉をくくりつけてみたの」
「アオサの葉?」
「昔は、結婚式を挙げる当日、花嫁・花婿の実家の玄関にアオサの葉を飾ったのよ。二人の門出を祝うとかなんとか、そんな意味があるみたい。エミーリエが花婿を迎えに来るなら、そういう目印があるところに引き寄せられるかもしれないでしょ?」
「……引き寄せられないで欲しい」
 ぼそり、とセシルは呟いたが、リアンは全く聞こえないフリをした。そしてリアンの返事の代わりに、――「宵迎えの鐘」が厳かに鳴り響いたのだった。