01.

 その人形は、金の巻き髪に青い目が美しかった。色褪せてはいるものの、細かな刺繍の施されたドレスは上品で愛らしい。
「ほんとにね、もうほとほと困ってるのよ」
 じっと人形を見つめていたリアンは、声をかけられるままに顔を上げた。人形を挟んで向かいに腰掛けている女は、実際どうしようもなく途方に暮れているという様子で、一つにまとめた長い赤毛を指先で弄んでいる。困ると髪をいじるのは彼女の癖だ。
「この人形、引き取ってもらえない?」
 結局そういう話に落ち着くことは分かっていた。しかしリアンもそう簡単には頷くことはできない。
「そうは言うけどねえ、ターニャ」
 リアンはやや冷たい調子で口を開いた。
「こっちも商売なんだから、売りさばけない品物を引き取るわけにはいかないのよ」
「それは、分かってるの。でもリアンくらいしかこれをどうにかしてくれる知り合いが思いつかなかったんだもの…」
 ターニャは気味悪そうに眉をひそめて人形に目をやった。もちろん人形が彼女を見つめ返すはずもなく、相変わらず無表情にただ前を向いているだけだ。その澄ました様子は、どこからどう見てもいわゆる「人形」そのものでしかなかった。

 ホーテンダリアの昼下がりは明るく穏やかで、のんびりしている。街頭では陽気な菓子売りの女が声を上げ、通りを駆け抜ける馬車も軽やかにステップを踏んでいる。パン屋の煙突からは甘い香りが漂っていて、歩く者の足を優しく引き止めていた。
 しかしこの骨董屋は少々趣が異なっている。
 室内は昼だというのに薄暗く、通りに面した大きな窓から射す陽射しも、舞い踊る埃たちを徒(いたずら)に浮かび上がらせているだけだった。ゆったり、というよりはじりじりと過ぎ行く時間は、もはや外界とは別の流れを独自に作り出しているかのようだ。こんな中にあって、古びた少女の人形は実にしっくりとその風景に収まっていた。
「その、本当なのよ。その人形が夜中におかしくなるっていうのは」
 リアンは頷いた。信じていないわけじゃない。この――ホーテンダリアの街の中で、その手の話を鼻で笑うだなんて、それこそナンセンス窮まりない。「この世ならざるもの」はいつでもこの街に潜んでいるのだ――。
「夜中に突然笑い出すんでしょ?目をぎょろぎょろと動かしながら」
 問うと、ターニャは神妙な面持ちで首を縦に振った。その時の様を思い出したのか、ぞっとしたように身震いをする。
「母さんが、それはもう怖がって。病気になりそうで心配だわ。捨ててしまいたいけど、なんだかそれはそれで怖いじゃない?」
「まあ、別に捨ててもターニャには何の影響もないだろうけど……」
 ひょい、とリアンは人形を持ち上げた。顔をつき合わせてじっとその瞳を覗き込む。彼女自身どこか人形めいているリアンがそうして人形を抱えていると、どことなく浮世離れした奇妙な光景に見えるのだった。
「捨てられれば、また誰か別の人に拾われて、そこで悪さするんでしょうね」
「そうなの!?」
「ターニャだって、この人形は拾ったんでしょう。違う?」
「そ、そうよ……。草むらに捨ててあったのを見つけてね。とっても可愛らしい人形だと思ったから、つい」
「こういう人形はね、人を取り込む力を持ってるの。何度捨てられても、その度に拾って行く誰かが現れる。そう簡単には朽ちていかないわ」
 言いながらもリアンは真剣な眼差しで人形をしっかりと見据えていた。その形の良い眉が少ししかめれらのに、ターニャは気付いたかどうか。
「ま、いいわ。この人形は私が預かりましょう。放っておいたら悪さするばかりでしょうしね」
「ほんと?ありがとリアン!」
「でもねえ、私のこと便利屋だと思わないでよ。こんなのばっかり持ち込まれたら、ここも化け物屋敷になっちゃうわ」
「うん、分かった。本当にありがとう!」
 憑き物が落ちたように――実際まさにその通りなのだが――晴れやかな笑顔を浮かべ、ターニャは喜んだ。僅かに強張らせていた身体の力も今は抜けて、完全にくつろいだ様子でソファに深く腰かける。人形の件に片がついて、心底ほっとしたのだろう。
「ねえ、そういえばさあ。最近また変な噂が流れてるの、リアンは知ってる?」
 肝心の問題が片付いたところで、ターニャはさらりと話題を変えた。
「噂?」
「そう。死んだはずの人間が、今も普通に生活してるっていう――」
「ああ」
 そこまで聞いて、リアンは軽く頷いた。その噂なら聞いたことがある。
 以前白の花嫁がこの街を震撼させてからというものの、街の住人は小さな噂話にも随分敏感になっていた。何が事件の発端になるか分からないのだ。仕入れ得る情報という情報は残らず手元に置いておきたい、そんな思いが彼らの中にあるのだろう。そのため以前に増して「この世ならざるもの」に関する話題が街に溢れている。となれば、自然とリアンの元に届く情報も多岐に、そして仔細に渡った。リアンがこの手の件にはちょっとした「心得」があるということは街ではかなり知られている話である。このターニャのように、世間話の体(てい)で色々な情報を伝えにくる者は絶えなかった。
「アスハルト家のお坊ちゃんが、ってやつでしょ?知ってるけど、それこそただの噂に過ぎないんじゃないの?」
 アスハルト家は、この街で一番の金持ち一家である。昔はこの辺り一体の領主も務めていたという。そこの一人息子が昔から病弱で寝たきりというのは有名な話だった。しかし死んだという話は聞かないし、実際葬式などが執り行われた様子もない。
「まだ生きてるんじゃない?」
「ただの噂で、元領主一族の息子を死人に仕立て上げるわけがないでしょ」
 ターニャはむっとしたように言い返した。
「私の友達でね、アスハルト家で使用人やってた子がいるの。例の息子の面倒も結構見てたんだって。その友達が、彼は死んだはずだってはっきり言ってるのよ。息を引き取るところを見たわけじゃないようだけど、家中ばたばたしてたし、家の人が葬式の話とかしてるのも聞いたらしいし。その時は家全体がどんよりと物悲しい雰囲気になっちゃって、気が重かったって言ってたわ。――でも」
 そこで一呼吸置いて、ターニャはもったいぶったように声を潜めた。
「次の日の夜、何事もなかったように、その息子に廊下でばったり出くわしたそうなの」
「じゃ、やっぱり死んでなかったんじゃない」
「ううん、おかしいわよ。ずっと病気で寝たきりだったのよ?そんな彼が、上着までしっかり着込んで一人すたすたと廊下を歩いていくなんて。怖くなったけど、それでもなんとか『どちらへ行かれるんですか』って聞いてみたんだって。そしたら『ちょっと散歩』って。――夜更けよ、夜更け。そんな時間に寝たきり青年が一人で散歩って。ね、変でしょう」
 変といえば変だが――絶対にありえない、という話でもない。
「それから週に二、三回は夜更けに街をふらつくようになっちゃったんですって。彼の両親もどこか彼に対してよそよそしいっていうか、なんだか怖がってるようなところがあるらしいし。結局私の友達も、気味が悪くなってついこの間仕事を辞めちゃったの」
「ふーん。週に二、三回、夜の街を徘徊ねぇ……」
 呟いて、リアンはむっと考え込む仕草をした。「昼間は?何してるの?」
「え?さあ……、昼は今までどおり、ほとんど自室で寝て過ごしてたみたいだけど。ほんとかしらね」
「ふーん」
 再び自分の世界に入り込んでしまうリアン。こうなっては彼女とまともな会話は成立しない。日頃から付き合いのあるターニャは心得たもので、リアンに無理やり話しかけるようなことはせず、そそくさと席を立った。
「じゃ、私もう行くわ。それじゃまたねー。今度、人形のお礼に何か持ってくるわ」
「……んー」
 やはり心ここにあらず、なリアンであった。

 その晩。
 リアンは一人街の中を歩いている。
 目的はない。散歩、と言われればそうかもしれない。それでも敢えて理由をつけるならば――やはり昼間の話が気になっていたから、ということになるのだろう。
 白の花嫁が闊歩していた先日まで、夜のホーテンダリアは実に閑散としていた。人通りはほとんどなく、昼間の賑やかさからは想像もつかないほどの寂しさだ。しかし今ではうって変わって以前の活気をすっかり取り戻していた。飲んだ帰りか、陽気に肩を組んで歌い騒ぐ若者達がいる。夜の広場へ向かうらしい仲睦まじいカップルがいる。両親の間で手を繋ぎ、楽しげに帰路を行く子供がいる。そして――今日もやはり「この世ならざるもの」がひっそりとこの街のどこかで息を潜めているのだろう。
「よっ、リアン!珍しいなァ、夜に出歩いてるなんて!」
 突然声をかけられ振り返ると、声の主はジョセフだった。自衛団のメンバーで、随分陽気な性質(たち)の男である。街の見廻り中に声をかけられたのがきっかけで、彼とは軽い付き合いがあった。今も巡回中なのだろう、その隣にはやはり顔なじみのセシルがいる。
「あらジョセフ、久しぶり。セシルも」
「ああ」
 セシルは逆にどちらかと言えば寡黙な男なので、軽く頷くだけで返事を寄こした。
「これから一緒に飲みに行かな〜い?軽く、軽く、ね」
「仕事中なんでしょ。いいの?そんなこと言ってて」
「いいのいいの、ちょっとだけならさ。それに酒場ってのは馬鹿にしちゃあならん穴場だぜ?街の情報が自然と集まってくる場所だ。やっぱこの街の平和を護らねばならぬ身としては、どんな情報でも漏らさず手中に収めておく必要があるのだよ!」
「はいはい。……もう酔ってるんじゃないの?」
 持ち前の冷たさでばさりと切り捨てたリアンだが、それでめげるジョセフではない。
「リアンちゃんと久しぶりに会えたからテンションあがってるんだって。ね、どう?」
「うーん……」
 確かにジョセフの言うことにも一理ある。酒場でならば例の噂についてもっと詳しく聞くことができるかもしれない。流石に一人で酒場に入るのには抵抗があるが、ジョセフ達がいるのなら問題もない。
 しかし。
 リアンは通りの奥へ目をやった。
 今夜は何故だか、このまま歩いていたい気がする。リアンの直感が静かにそう訴えかけてくるのだ。酒場へ行くよりも、この道をまっすぐ歩いて行くべきだ……。
「ごめんなさい、今日はやめとくわ」
「えぇ〜……」
「また今度誘ってよ」
「……分かった、じゃ絶対だぞ。約束な!」
 リアンは押して素直に倒されるようなタイプではない。それを悟っているのだろう、ジョセフも割合あっさりと身を引いた。
「ええ。それじゃ二人とも、仕事頑張ってね」
 軽く微笑んでからリアンは二人に背を向ける。――が、それまで黙っていたセシルが俄かに口を開いた。
「リアン」
「――なに?」
「お前また、何かやっかいな問題抱えてるんじゃないだろな」
 なかなか鋭い。これまで何度かリアンの都合で引っぱりまわしていたせいか、セシルには彼女の行動パターンとそこに至る起因がおぼろげに分かっているようだ。しかし今は、彼に助力を請うような時ではない――まだ。
「だーいじょうぶ。ただの散歩よ、散歩。何かあったらまた相談するから。よろしくね」
 殊更軽い調子で答えて、リアンは夜道を一人進んだ。

 裏路地に入ると、やはり人の通りは少ない。
 住宅の多い区域ならば尚更である。しかしリアンは迷わなかった。引き返そうなどとは微塵も思わない。歩みを進めるたびに、強くなっていく直感。このまま進め、このまま進め。そうすれば……。
 やがて。
 前方の暗闇から、うっすらと人の影が見えはじめた。
 街頭に微かに浮かび上がるその影は、ゆったりとした足取りでこちらへ近づいてくるようだ。リアンははっとしたが、やはり歩みを止めずにそのまま歩き続けた。
 一歩進むごとにはっきりと輪郭を露にしていく影。まだ若い男のようだ。随分と身なりがよく、どこか貴族めいている。
 この男……。
「こんばんは」
 互いの距離が数メートルのところまで近づいたとき、おもむろに相手が口を開いた。リアンはかすかに瞳を細めて相手の表情を注視した。薄ら笑いを浮かべるその表情には、どこか――生気がない。
「こんばんは」
 リアンも慌てず、きわめて無感動に返事をした。そしてそのまま男の横を通り過ぎる。
「君」
 呼ばれて、リアンは無言でそっと振り返った。
「こんな夜道で、女一人出歩くものじゃない。できるなら――そう、しっかりした男性を連れて歩くんだね」
 いくらか距離ができてしまったので、もう男の表情は見えなかった。しかし先ほどと変わらず薄ら笑いを浮かべているであろうことは想像がついた。
 リアンは言葉を返さない。そのまま男に背を向けて、止めていた足を速めた。
 リアンの足音だけがその場に響き渡っていた。

 骨董屋に戻ってくると、待ち構えていたように隣のジーナが家から飛んで姿を現した。
「リアンちゃん、リアンちゃん」
「まあジーナおばさま、こんばんは。どうしたんです、そんなに慌てて」
「リアンちゃん――今度は一体何を仕入れてきたんだい?」
「え?」
 言っている意味が分からず、リアンは少し首をかしげる。
「あんたの家からね、なんだか妙にけたたましい笑い声がずっとしてたんだよ。ついさっきまで」
 その言葉を聞くと同時に、リアンは右手を額に当てて大きく息を吐いた。
 ――しまった、忘れてた。
 片付けるべき問題は、身近なところにもう一つ。
 リアンの夜は、まだまだ長い――。