02.

 人形は、相変わらず澄ました表情で真っ直ぐ前を見つめていた。
 リアンは腕を組んで、睨みつけるように人形を見下ろしてみる。しかしそれで何が変わるでもなく、無益な時間がただ過ぎ行くばかりである。
「さあて、それじゃどうしましょうか」
 リアンは低く囁いた。
「もう二度と誰にも拾ってもらえないよう、その綺麗な金色の髪を切り刻んでしまいましょうか?いえそれよりも、暖炉に季節外れの火を起こして、その中に放り込んでしまったほうが確実かしら?」
 随分と不穏な提案を、歌うように口に乗せる。それでも人形は眉をぴくりとも動かさなかった。――普通に考えれば、ごく当たり前のことではあるが。
 真夜中に、蝋燭の灯り一つ。少女の人形と向き合った、人形のような少女。その光景はあまりにも不気味で、しかしどこか幻想的ではある――リアンとしては、甚(はなは)だ不本意な状況ではあるのだが。
 とにもかくにも、この人形に「隙」を作らせなければならない。人形が「完璧に人形である」うちは、いかなリアンといえど手の出しようがないのである。ほんの一瞬でもいい、その全く歪みのない表情が崩れる瞬間が欲しい――。
 そんなわけで、リアンは先ほどから人形相手に劣悪な脅し文句を吹っかけ続けていた。残念ながら、と言ってもいいのか、本当に人形を切り刻んだり燃やしたりすることはできない。「この世ならざるもの」は、人形を媒体として姿を現しているに過ぎないのである。その器をただ処分したところで、肝心の「もの」は消滅し得ない。むしろ下手に手を出せば、それこそ今は高笑いで済んでいる怪異がどこまで酷くなるものか、リアンとしても分かりかねるところである。とにかくも、リアンの脅しにほんの少しでも怯んでくれれば。そうすれば、その隙を突くことだってできるのだ。
 しかし、人形の方でもそんなリアンの目論みはお見通しなのだろう。全く隙を見せることなく、どこからどうみても普通の人形らしく「振舞って」いる。だからリアンも、困っている。
「……アンタね」
 それまでとは打って変わって、情けないほど気の抜けた声でリアンが呟いた。
「こっちだってね、鬼じゃないのよ。『この世ならざるもの』は別にアンタだけじゃないんだし。お目こぼししてあげたって、別にいいのよ?でもねぇ。アンタの場合はちょっとハタ迷惑が過ぎるわけよ。一晩中大声で騒ぎ立てられちゃ、参っちゃうわけ。分かる?だから、高笑いは止めて忍び笑いにしときなさい。『クスクス』くらいなら見逃してあげるわ。どう?悪い話じゃないでしょう」
 人形の方は、つーんと澄まして真っ直ぐ前を見据えている。
「……こっちは譲歩してあげてるんだから。そっちも少しは、誠意ってものを見せたらどうなのよ」
 やはり人形はうんともすんとも何も言わない。いい加減リアンも空しくなってきた。何が悲しくて、夜中に一人人形に向かって説教を垂れくてはならないのか。もし誰かがこの光景を見ていたら、ちょっとやそっとの怪異には慣れきっている住民といえど、恐れをなして逃げ去っていくことだろう。
「――いいわ、もう寝る。ただし、よーく肝に銘じておきなさい。もし私がこの部屋を出た後、アンタの高笑いが聞こえてきたら……その時はもう、絶対に見逃してやらないから。いいわね?」
 びしり、と人形に向かって指を立てて。それでも全くもって無反応な澄まし顔の少女に、とうとうリアンも音を上げた。
「……ほんとに寝よ」
 人形は他のアンティーク類の波に埋まり、大人しくカウンターの一角に腰かけている。ざっと部屋を見回したリアンは、一つ大きく息を吐くと二階の私室へ続く階段をゆっくりと上っていったのだった。
 顔を洗って、服を脱ぎ捨て。ゆったりとした白いワンピースを無造作に身につけると、そのままベッドに倒れこんだ。と、ちょうどその瞬間である。アハハハハ!と、けたたましい笑い声が建物中に響き渡ったのは。――しかも一向に治まる気配がない。
 これは、もしかしなくとも。
「……あのクソ人形」
 リアンはベッドの中、低い低い声で忌々しげに呟いた。――人形の行く末は、この瞬間にリアンの頭の中にしっかりと描かれた。

 翌朝、まず一番にリアンがとった行動は、両隣の家へ菓子折を持っていくことだった。
 結局明け方まで続いた人形の高笑いは、当たり前だが他所の家にも随分迷惑をかけたに違いなかった。思ったとおり、対応に出た隣家のジーナはたった一晩で随分やつれてしまったようだ。それでも現れたリアンを邪険に扱わないのは、この女の人柄のいいところである。
「ジーナおばさま、昨日はごめんなさい。とても眠れなかったでしょう」
「まあ、ぐっすり眠れたとはさすがに言わないけどねぇ。リアンちゃん、一体ホントに、ありゃあ何なんだい?」
「ええと、まあ。ああしてうるさく笑うだけで、人に危害は加えないんですけど。でも数日中にはすっかり始末しちゃいますから、どうか許してくださいね」
「数日中、かい……」
 しばらくは二の句が告げない様子のジーナだったが、どうにか気を取り直すと「なるだけ早めに頼んだよ」とだけ呟き、ふらつきながら部屋の奥へと戻っていった。リアンとしては、言われずとも、というところである。もしこの場にセシルがいたなら、「始末」という言い回しに彼女の怒りの深さを悟り、ぞっと背筋を凍らせていたことだろう。
 リアンだって、全く眠れなかったのだ。

 「この世ならざるもの」は、朝昼の陽気の中では絶対に姿を現さない。
 彼らが続々と街に出現し始めるのは、決まって「宵迎えの鐘」が鳴り響く夜七時以降である。リアンの骨董屋に居候中の人形とて、もちろん例には外れない。昼の間、正真正銘ただの人形として机の上に座っているのに間違いはないので、リアンはひとまず捨て置くことにした。――ああ、なんとも忙しい、リアンは他にも気になる用件を抱えているのだ。
 隣家に挨拶をしたその足で、リアンはさっさと裏通りを抜けていった。目指すは大層な人形を押し付けていった張本人、ターニャの家である。表通りを真っ直ぐ歩いていくよりも、裏の通りを突っ切るほうがいくらか早い。歩きながら、リアンは「白の花嫁」のことを思い浮かべた。あの晩花嫁に連れられて歩いた道も、今と全く同じだった。日の光の下こうして通りを歩いていると、あの晩の奇妙に幻想的な色を帯びた風景が、今目の前に広がるそれと同じであるとは俄かには信じ難い。考えてみれば、セシルもよく文句の一つも言わず――とはいかなかったが、あの奇妙な散歩に付き合ったものである。奇妙な上に命がけと来れば、まずもって断るのが普通だろう。それを思うと、セシルという青年は、お人よしなのだか使命感が強いのか、はたまたその両方なのか――いずれにせよ損な役目が巡りがちなのは間違いない。
 あの晩右へ折れた通りを、今日は左へ突き進む。やがて再び賑やかな通りが姿を現した。ターニャの家はこの一角の刺繍屋である。ハンカチからドレスまで、注文とあらばどんなものにも繊細な刺繍を施すので評判の店だ。ただし腕がいいのは母親の方で、娘であるターニャにその技術のほとんどは受け継がれなかったらしい。
 ショーウィンドウ越しにターニャの母親が針を操っているのが見える。昨日の話では例の人形にすっかり参ってしまっているとのことだったが、こうして見ている限りではなかなか元気にやっている様子だ。まあ、心配事が根こそぎ他所へ移ってしまえば、それは気楽にもなるだろう。リアンは少々斜に構えて肩をすくめたが、本当に倒れられるよりはよかっただろうとすぐに思い直した。カランカラン、扉を開けると控えめに鈴が鳴る。
「どうも、こんにちは」
 よく通るリアンの声に、ターニャの母はさっと顔を上げた。手元の刺繍に注いでいた意識を不意にすくわれたためか、一瞬呆けた顔をする。だがすぐに心得たように頷くと、「ちょっと待ってね」とターニャを呼びに奥へ下がった。
「あらっ、リアン。どうしたの、やっぱりあの人形、大変だった?」
 まもなく姿を現したターニャは慌てた様子で口を開いた。
「まあ、ね。でも人形は人形だもの、どうにでもなるわ。今日はそのことじゃなくて――ちょっと他に聞きたいことがあって来たの。今時間大丈夫?」
「大丈夫だけど……。え、なに。どうしたの?」
「――アスハルト家の、息子のことで」
 囁くと、ターニャは微かに眉根を寄せた。
「昨日の夜、街で見かけたわ」
「え……そ、それで?」
「まず間違いなく――あれは、死んでいるわね」
 リアンはきっぱりと断言した。ターニャは天を仰いで大きく溜息をつく。
「ホントに?いや、リアンがそう言うならホントなんだろうけど。それってやっぱり『もの』関連なの?」
「多分。ただ、詳しいことはまだ分からない」
「うわあ、そっか。うわあ〜。笑う人形よりよっぽど怖い話だわ」
 ターニャは大仰に身を震わせた。
「で、お願いがあるんだけど。アスハルト家で使用人やってた友達がいるって言ってたわよね?その子からもちょっと話聞かせてもらえないかしら」
「――いいわよ。ちょうどその友達と、お昼食べる約束してたの。一緒においでよ」

 というわけで、リアンたちは街の一角にあるカフェへと移動した。
 シンプルだが可愛らしい内装の店で、客の大半が若い娘達である。その中にいて、リアンもターニャも一見溶け込んで見えたが、二人の話題といえばまるで可愛げのない話なのだから、その実微妙に浮いていた。死人がどうの、化け物がどうのとしかめっ面で語り合う娘二人は、傍から見れば異様である。まもなくアスハルト家の元使用人という少女エニアも加わると、完全に三人だけのオカルトな世界が出来上がってしまった。
「私はつい最近までお屋敷で働いていたんですが、絶対におかしかったですよ。気味が悪くて仕方なかった」
「それは、具体的にはどういうこと?」
「以前までは別になんともなくて、至って普通の金持ち一家って感じだったんですけど。ある日を境に、ご夫婦はすっかり変わってしまったんです。いつも何かに怯えたようにビクビクしていて、朝から晩まで顔も真っ青で。奥様なんかは、数日でげっそり痩せてしまわれましたね。呪われてるんじゃないかってくらい、それはもうひどい変わりようでした。何に怯えているのかといったら、それは息子さんに――としか思えないですよ。それまでは結構頻繁に病気の息子さんの様子を伺ってらしたのが、あの日以来もう全然。むしろ息子さんを避けてらっしゃるようで、私が『お坊ちゃま』と口にしただけで飛び上がるような始末です」
 エニアはすらすらと流れるようにまくし立てた。生来話し好きな性質なのだろう、相槌を挟む暇さえ与えない勢いだ。しかしただお喋りなだけでなく、それなりに筋道立てた話し方をするので、頭は悪くないのだろうとリアンは判断した。
「息子さんは息子さんで、やっぱりこちらも変でした。ある晩、もうこれはという程病状が悪化して、お医者様も覚悟をしてくださいとご夫婦をお部屋に呼んだんです。私も息子さんのお世話をしていましたから、その場に立ち会っていました。息子さんはもうピクリとも動かなくて、息をしているのかも分からないほどで。さすがに最期はご家族だけでと思って、私は退室しました。それから数時間位すると、泣き崩れた奥様が部屋を飛び出し、旦那様は葬式の手配を始めて。ああ、とうとうって思いましたよ。でも――でも、そのまた数時間後には、何もかもがリセットされちゃったんです。葬式の話も無し、奥様の涙もなし、息子さんの今際(いまわ)もなしってね。で、夜更けに廊下を歩いていたら、いきなりヨハン様……息子さんが、ふらりと部屋から出てこられたじゃないですか。こう言っちゃなんですけど、さっきまで死にかけてたんですよ。それが、しっかり服も着こんで飄然とした足取りで歩いていく。聞けば、夜の散歩に行くだなんて。もうびっくりですよ。びっくりっていうか、むしろゾッとしましたね。それからはほとんど毎日のように、夜更けの散歩をされるようになりました。多分、今でもそうなんじゃないですか。私はもう辞めたから分からないけど」
 リアンは神妙な面持ちで頷いた。昨夜すれ違った男は、間違いなくアスハルト家の息子――ヨハンであろう。あの、生気の感じられぬ佇まい。それでいて瞳には爛々とした妖しげな光。もはや彼は、常人ではない――。
「でも」
 そこでターニャが口を挟んだ。
「エニアの話を聞いてると、その息子は一旦確かに死んだけど、また蘇ったってことになるわよね。リアンにしてみれば、それに『この世ならざるもの』が絡んでるって話なんでしょ?……そういうのって、アリ?」
「どういう意味?」
「だからさあ、本当に生身の人間を『もの』がどうこうするようなことって、あるのかなと思うのよ。だって、普通は人を脅かす蜃気楼みたいなものじゃない?いつの間にかそこにいるような存在でしょう。まさに、『この世に存在しないもの』じゃない。でも、アスハルト家の息子は確かに存在するのよ。生身の人間なのよ」
「……」
 エニアは頭の上に無数の「?」を浮かべていたが、リアンにはおぼろげにターニャの恐れが伝わったような気がした。確かに普通ではない。「この世ならざるもの」が人間の内側から影響を与える――つまり、人の身体を乗っ取るようなことがあるというのか。
「とにかく、そのヨハンをこのまま放っておくわけにはいかないわね。蘇りなんて、完全に自然の摂理に反しまくってる」
「……この街に自然の摂理を求めるのもどうかと思うけど」
「じゃあターニャは、このままでいいって言うの?ヨハンはおかしいわ。もう普通の人間じゃない。でも、単なる『この世ならざるもの』でもない……。それじゃあ、一体何者なの……?」
 ごく、とターニャは息を呑んだ。人間でも「もの」でもない――。
「で、でも、どうすればいいんでしょうね?」
 エニアが控えめに口を挟んだ。――そうなのだ。ヨハンが今や人間ではなくなってしまったとして、それで一体どうすればいい?多少言動に奇妙なところがあるといえど、見た目はごく普通の人間だ。まさかナイフで刺して殺してそれでお終いというわけにもいかない。
「『この世ならざるもの』が絡んでいるなら、絶対どこかに突破口があるはずよ。それを見つける」
「突破口?」
「ヨハンは、毎晩のように街を一人でふらついているって話よね。その行動に何か意味があると思うの。そこを突けば……」
 ぐ、とリアンは拳を握った。可憐な容姿に似合わぬその闘志は、一体どこから湧いて出るのか。ターニャとエニアは顔を見合わせた。
「ちょっとリアン、あんまり無茶しないでちょうだいよ」
「分かってる」
「分かってない。あんた、『この世ならざるもの』に足を突っ込みすぎ。そりゃあ、何かあるたびにリアンに頼ってる私達も悪いけど。深入りしすぎるといつかとんでもないことになっちゃうわよ。嫁入り前の大事な時期なんだから、もっとこう……」
「分かってるってば!でもしょうがないじゃない、こればっかりは。他に誰が『この世ならざるもの』の相手してくれるの?自衛団?教会?中央政府?」
「それはそうだけど……。リアンの持ってるノウハウを、他の人にも広めていくとかさ。何があってもへこたれない屈強そうなオヤジとかに」
「ノウハウなんて、説明できるものじゃないわよ。教科書どおりにやっていけるものじゃないの」
「……。でも、さぁ」
 突然、気の抜けたような小さな声が二人の間に割って入った。はっとしてリアンとターニャは声の主に目を向ける。二人の諍いをよそに、一人全く違うことを考えていたらしいエニアが、困ったような顔をしてテーブルに目を落としていた。
「リアンさんがヨハン様を元に戻せたら……、今度こそヨハン様は死んでしまうってことですよね。ご両親、もう一度息子さんの死に直面しなくちゃいけないんだ……」

 リアンは眉根を寄せて丘の上をそっと見上げた。
 いつの間にか空には少しずつ茜色が侵食し始めて―― 一日の終わりが、刻一刻と近づいている。赤と青、全く相反する二つの色なのに、どうしてこれほど美しく空を染め上げることができるのだろう?リアンはぼんやりとそんなことを思いながら、夕暮れ時の一歩手前のホーテンダリアを一人眺めていた。
 丘の上には、大きな屋敷がたった一つ、街を見下ろすかのようにそびえ立っている。長い長い歳月、この街を見守り続けてきたのだろう。悠然と構えるその姿には頼もしい重厚さがある。しかし今、実際にあの屋敷の中を漂っているのは、怯えと困惑、そして悲しみなのだった。
 ターニャ達と別れたリアンは、所在無く街をぶらついている。さて、これからどうするべきか。蘇ったヨハンをあるべき姿に戻してやる、それは決まっている。ただ、さしものリアンもエニアの言葉に思うところがないでもなかった。
(多分、ヨハンは悪くない。ヨハンの家族も悪くない。きっと誰も望んでなかった、こんな形で……)
 だからこそ余計に辛いであろう。その苦しみから解放してやるのが自分の使命だといえば、格好はつく。しかし人の世というものはそんなに単純なものではない。彼らの置かれた状況があまりにも不自然で不幸せ、そうと彼ら自身が分かっていても、そのちぐはぐな夢想を手放すのはやはり辛く恐ろしいのだ。どのみち苦しい。だから、リアンは彼らをただ救えるわけじゃない。彼らに更なる苦しみを与えることにもなるのだ。
(だからって、このまま放っておくことはやっぱりできないわ)
 白の花嫁とは全く話が別である。あの時は何人も死者が出て、皆が恐れ、花嫁自身も不幸の波間を漂っていた。彼女の呪縛を解き放ってやることは、すなわち完璧なまでの「救い」であった。誰にとっても、文句なく。しかし今回は違うのだ。今回は、違う。――だが、それでも放っておくことはできない。
(私は正義の使者じゃない。分かってるわ……)
 ゆるりと首を左右に振って、リアンは一歩を踏み出した。そういえば、あの丘に登るのは初めてだったなと――妙に間の抜けたことを思い浮かべた。