03.

 思っていたよりもすんなりと、リアンは屋敷に通された。
 丘の上にどっしり構える大屋敷の玄関は、これもやはり年代を感じさせる重厚な造りになっている。しかしリアンは怯えや戸惑いなどおくびにも出さず、すっと背筋を伸ばしてベルを鳴らした。これから屋敷の主人と向かい合って話をしようというのだから、堂々と構えていなければならない。
 すぐに姿を現した使用人に用件の向きを伝えると、「少々お待ちください」の一言と共に玄関ホールに置き去りにされた。しかしそれも僅かな間、凝りに凝った部屋の造りに見惚れる暇(いとま)もないままに、まもなくやってきた執事らしい男に連れられた。
 高価そうな花瓶やら絵画やらが飾られた廊下を通り過ぎて、応接間へ。期待を裏切らぬ豪壮な造りだ。ほとんど観賞のためと言ってもいいような美しい装飾の暖炉、その側に飾られた不可思議な形のオブジェは一体誰の作品だろうか――曲がりなりにも骨董屋を営んでいるリアンにとっては興味引かれる応接間である。
 出された紅茶のカップもその道では一流と謳われる職人の作品のようだ。上から下までじっくりと眺め回したいところだが、まあ今回は控えておこう。大人しくそっと口をつけるに留めたところで屋敷の主人夫婦らしき二人が現れた。
「これはようこそ、初めまして――。お待たせして申し訳ない」
 口を開いたのは主人の方だ。ただの挨拶ではなく本当に申し訳なさそうに見えるのは――おそらく彼が非常に疲れているからだろう。この屋敷の主人として相応しい立派な服を着込んでいるが、その服がどうにも浮いて見える。主人自身がすっかりやつれ果てており、心労に押しつぶされんばかりの様子なのである。
 妻の方もそれは同じだった。とてもとても白い肌――しかしそれは美しい白さではなく、明らかに不健康から来る疲弊の色。ワインレッドの華やかなドレスが全く似合っていない。気持ちはいつでも喪に服している、とでもいうような痛々しい表情でひたすら目線を床に落としている。
「私が当主のルドルフ・アスハルトです。こちらは妻のカミラ」
「どうも初めまして。リアン・ハーシェルと申します」
 挨拶を返すと、存じております、とルドルフが小さく頷いた。「お噂はかねがね……」
「それでしたら、話は早い。私が本日こちらにお伺いした理由も、おそらくはもうお分かりですね?」
「ええ、おぼろげには……」
 歯切れも悪くルドルフは呟く。隣のカミラはますます縮こまり俯いた。
「お宅の息子さん、ヨハンさんのことです」
 単刀直入に申し出た。意味の無い世間話など目の前の二人にとっても無用であろう。約束もなく突然訪ねてきた市井の小娘をすんなり通し、回りくどい「手続き」もなしにすぐさま主人が現れたことからも、それは明らかだった。一刻も早く本題に入り、叶うのならこの苦しみから解放する術を授けて欲しいと願っているのだ。
「今彼は、どちらに?」
「自室で……おそらくは、眠っております」
「いつもそうなのですか?」
「ええ、あれは身体が弱いために、昔からほとんど寝たきりの生活を送っております」
「それでは昨晩は――どちらにいらっしゃったのでしょう」
 静かに問うと、ルドルフは唇をかんで黙りこくった。答えの分かりきった質問だが、その答えを実際口にすることに意味がある、しかしだからこそ分かっていても口に出せないのだ――と、無言のうちにそう訴えている。
「ここのところ、夜更けに彼の姿を見かけた者が多くいます。息子さんは、夜街中を出歩いてらっしゃいますね?」
 答えられないルドルフの代わりにリアンが事実を突きつけた。
「それは、ご存知ですか?」
「……はい」
 しばしの沈黙の後、ルドルフは認めた。まるで長年己が胸の内のみに抱えていた重大な罪を目の前に突きつけられた時のように、重々しい覚悟を以って、認めたのだった。カミラはその夫の側で肩を震わせている。
「息子さんは身体が弱く寝たきりだったと仰いましたね。となれば、やはり息子さんの外出はお二人の目にも奇異なものとして映っておいででしょう?」
「はい。息子は、以前の息子は、とても一人で外を出歩くことなどできる身体ではありませんでした」
「それでは一体いつを境に?いつから彼は変わってしまったのでしょう?」
 ルドルフはとっさに妻を見た。妻もルドルフを見た。
「それは彼が亡くなったあの晩――ですね?」
 リアンが鋭く指摘すると、夫妻は震えるように息を呑んだ。
「そこまで……ご存知でしたか。――はい、息子は確かにあの晩、息を引き取りました。死んだのです。私も妻も息子の最期を看取ったのですから間違いありません。ヨハンは……死んだ。確かに死にました」
 何度も「死」と口にした。そうすることで、今まで顔を背け続けてきた真実を己に知らしめようとしているのだろう。もう、逃げたりしない。息子を失うことを恐れて歪んだ生活を送るのは、今この瞬間をもって最後にするのだ!
 リアンは深く頷いた。彼らが息子の死と向かい合ってくれたのならば、後の流れは格段にスムーズになる。
「一旦彼が息を引き取ってから、再び目を覚ますまでの時間は?」
「僅かなものです。おそらく半刻もかからなかったかと」
「目を覚ます前後に、何か変わったことは?」
「――なかったと思います。ただ、そのときはバタバタとしておりましたから、細かなことはなんとも……」
 頼りなく告げるルドルフの言葉を継いで、妻のカミラが後を続けた。
「私、あの子が息を引き取るまでの間、ずっとベッドの脇から縋りついていました。だから気がついたんですけど……、何か黒い『もや』のようなものが。ふわっと一瞬だけ立ち上って、あの子の身体に入っていったような。そうしたらその次にはヨハンが息を引き取って、しばらく後に目を覚ましたんですわ」
「黒い『もや』……」
「その時は気が動転していた故の錯覚かと思ったんですけど」
 もや、とリアンは胸の内でもう一度呟いた。――引っかかるものがある。帰ったら文献の山をひっくり返してみなくては。
「目覚めたあとの息子さんの様子は?性格などに僅かな変化でも、ありましたか」
「僅かどころか!」
 カミラがわめくように言い捨てた。
「もう全く、以前のヨハンではありませんでした。あの子は慈悲深い、優しい子でしたのよ。ずっとベッドに縛られて、それでも文句の一つも言わず微笑んでいるような子でした。それが今では、人をないがしろにするような態度ばかり。私達のことも、まるで赤の他人――いいえもっと酷い、道端の石ころを眺めるような目で見て気にも留めないんです。夜中に出歩くのを止めても、まるで耳も貸してくれない。絶対に、あれは私のヨハンではないわ」
「カミラ」
 落ち着きなさい、とルドルフがその細い肩を抱いた。うっうっと嗚咽を漏らすカミラを眺めて、リアンは眉間に皺を寄せた。
(もう、この二人も限界ね……)
 これ以上あの「ヨハンだったもの」と暮らしていくことはできないだろう。ならば。
「アスハルトご夫妻。それでは――後は私に任せてくださいますか」
「え?」
「奥様がおっしゃるように、今の彼はお二人のお子さんでは、もはやない。悪しき『もの』が己が棲家として巣食っているに違いありません。私でしたら、ヨハンさんの身体に救っている『もの』を暴くことができるでしょう」
「でしたら、どうか!」
「ただ、お分かりですね?彼の身体を取り戻しても――おそらくヨハンさんは戻ってこない。ヨハンさんの魂は、もはやこの地上のどこにも留まっていないのです。もう一度、息子さんの死と直面する覚悟をしていただかなくては」
 残酷だけれど、揺るがしがたい事実である。かつての「ヨハンだったもの」と共に堕落していくか、それとも「それ」を突き放し全てをあるべき姿に戻すのか。
「――分かりました」
 初めてルドルフが威厳を感じさせる態度を見せた。
「どうか、ヨハンの身体と――彼の尊厳を、取り戻してやってください」
 その言葉を受け、リアンはしっかりと頷いた。

 一旦骨董屋に戻ったリアンは日が沈むのを待って再び街に繰り出した。手には一冊の古文書を携えている。
 街中は今日も明るく、これからが夜本番というようにたくさんの人々が陽気な笑顔を浮かべて行き交っている。あの丘の上の、絶望に淀んだ世界とは何もかもが違っていた。
 その中でも一際賑やかな飲み屋「ラ・ヴィンディ」。リアンがその木戸を押し開けると、中からむっとした飲み屋特有の熱気が立ち上った。戸口で立ちすくむリアンには誰も目をくれず、それぞれが自分のテーブルでジョッキを片手に楽しげに談笑している。
 しばらくリアンは周りを見回していたが、やがて目当ての人物をその中から見つけ出すと迷いもなくスタスタと一直線に歩み寄って行った。
「――セシル」
 名を呼ばれた青年は、飲み干しかけていたグラスを傾けたまま目を見開く。彼を取り囲む仲間の男達も驚いた表情で、いつの間にやらセシルの背後に佇んでいたリアンをぽかんと見つめた。
「リアン?どうしたんだよ、急に」
 怪訝な表情で、セシルはグラスを手元に置いた。今日も自衛団の制服を着込んでいるところを見ると、街の巡回帰りなのだろう。先だって通りで出くわした時もそうだったが、このホーテンダリアの街に異変がないか見回るのが彼や仲間たちの主な仕事だ。よその人間からすればそれこそ毎日が「異変」だらけのホーテンダリアではあるのだが――とにかく彼らは、「異常なし」と見て一杯空けているところらしかった。
「仕事よ」
 あっさりとリアンは告げた。
「仕事って……見ての通り、ついさっき仕事を終えて飲みに来たばかりなんだが」
 とりあえずはセシルも抵抗を試みる。リアンは何かあるたびに彼をダシに……もとい、彼に助けを求めてやってくるのだ。その度にロクな目に遭ってこなかったセシルは、常々彼女と顔を合わせることを嫌がっているようだった。リアンにしてみれば失礼極まりない話なのだが、まあ彼女にもそれなりの心当たりがあるので強くは非難できない。
「冷たい言い様ね。ついこの間、何かあったら相談するからよろしくって言っておいたでしょう」
 さらりと微笑を返すと、セシルは諦めたように肩をすくめた。側で成り行きを見守っていた仲間の自衛団員、特に前回セシルとともに街中を巡回していたジョセフは大仰に野次を飛ばす。
「おいおーいセシル、ずるいぞ、何でお前ばっかり!」
「それは俺も聞きたい」
 セシルは無感動に呟いた。
「リアンちゃん、そんな薄情者じゃなくて俺に頼ってよ。絶対役に立つからさー」
「はははっ、確かに確かに。ジョセフは殺しても死なないようなしつこい奴だからな。特に女絡みになると、ある意味死んでくれってくらいにしつこい!」
 仲間の一人が混ぜっ返すように茶化し、どっと笑いが巻き起こった。
「そーそー、この間もさぁ、美人の『この世ならざるもの』が出るって噂の『二つ鎧通り』、あるだろ?俺あそこの実態調査命じられて行ったんだけどさ、そしたらぜーんぜん関係ない班のコイツが一番乗りで突っ立ってんの」
「ジョセフは女なら『この世ならざるもの』でもまるでお構いなしなんだよな。こないだの『白の花嫁』の時だって、実は来るの心待ちにしてたんじゃねぇの」
「うん、実は毎晩正装して待ち構えてたんだけど……って、そこまでバカじゃねーよ!」
「いーや、お前はバカだ。バカのくせにフットワークは軽いから手に負えねえんだ」
「花嫁の時は、男の死体が上がるたびにジョセフじゃないかってハラハラしてたよ、マジで」
 酒の力も手伝って場はすっかり盛り上がっている。この隙を逃すまいと、リアンはそっとセシルの袖を引っぱった。セシルは多少眉をひそめたものの、腹をくくったらしく小さく頷き席を立つ。場の面々は女の話に夢中になってセシルの動きには気にも留めなかった。
「……ったく、今度は何だ?」
 そっと席から離れつつ、セシルは呟いた。
「そんな嫌そうにしないでよ、私だって嫌なんだから」
「ジョセフなら喜んでついていくぞ」
「残念ながら、彼の期待には添えそうにないわ。今回の『この世ならざるもの』は男の姿をしてるもの」
 それに、ジョセフでは相手の期待にも添えないだろう――とリアンは心の中で付け足した。