01.

 その老音楽家は、豪華な自宅の一室で死んでいた。
 初めに彼を見つけたのは孫のゲオルクだった。老音楽家は、その生涯の情熱の全てを注いだに違いない古びたグランドピアノへ覆い被さるようにして死んでいた。以前より悪くしていた胸の病に襲われたのだろうと、皆は話した。
 孫のゲオルクも、やはり音楽家だった。かの一家は揃ってピアノの奏者だった。ゲオルクは、祖父が死ぬ直前まで演奏していたであろう楽譜を手に取り、それがまるで無名の一曲であることに気がつくと、妹を呼び寄せ戯れに通して弾いた。無名でありながら、えもいわれぬ美しく儚い旋律。兄妹は揃ってその曲に魅せられた。その曲が一体誰の手によるものなのか、家族の誰も知らなかった。しかしそれは大した問題ではなかった。兄はこの曲を完璧に弾きこなしてみせると強い眼差しで告げた。
 その翌朝。
 今度は妹が、ゲオルクの亡骸を発見する番だった。
 ゲオルクは己の祖父とまるで同じように、鍵盤の上へ頭を預けるようにして死んでいた。ピアノに立てかけられていたのは、あの無名の楽譜だった。 妹は瞬時に何が起こったのかを悟った。――間違いない、祖父と兄はこの楽譜に殺されたのだ。それはまるで根拠の無い、子供じみた考えだったが、このところ街を騒がせている奇妙な「もの」達が引き起こした悲劇を鑑みるに、全くありえない話ではなかった。
 どうしよう。どうすればいい?妹は激しく葛藤した。もしこの楽譜が「この世ならざるもの」の化身であるとして、それではどのような条件が人を死に至らしめるというのか。幸いにも妹は無事朝を迎えることができた。しかし共にこの曲に魅せられた兄は死んでしまった。この曲を、その手で演奏してしまったから?それとも楽譜に触れてしまったら?いずれにせよ、このまま楽譜を野放しにしておくことはできない。そう、もしかしたら、曲を聴いてしまった自分にも遅ればせに死は訪れるかもしれないのだ。
 かといってどうすればいいのか……。

「それで、私のところに来たというわけね」
 リアンは手の中の楽譜に目を落としながら、呟いた。
 向かいで腰かけているマナは不安そうな顔でリアンを見守っている。結局、近くに頼れる者が見つからなかったマナは、「この世ならざるもの」に詳しいと言われるリアンの元を訪ねる他に選択肢が見つからなかったのだ。
「多分、正解だったと思うわ」
 リアンは難しい表情を崩さない。
「これは『この世ならざるもの』に関係した品物だと思う。あなたのお兄様やお爺様が亡くなったというのも、きっとこの楽譜のせいと見て間違いないでしょうね」
「そ、そうですか……」
 当然ながら、自分の考えた通りだと分かってもマナはまるで嬉しそうではなかった。むしろ却って不安を膨らませた様子で困惑気味にリアンの言葉の続きを待っている。
「これも推測だけど、昼夜にかかわらず、聴いただけ、触れただけで死んでしまうということも無いと思う。そこまでずば抜けて強力な呪力を持つ『もの』には今まで出会ったことがないわ。まあ、このご時世いつどんな『もの』が現れるか分からないけどね。でもきっと、あなたのお兄様達はこの曲を弾いてしまったが故に呪いを被ることになってしまったんでしょう」
「それで、私は……どうすれば?」
「誰にもこの曲を演奏させてはいけない。それがまず第一よ。そうすれば、これ以上の犠牲者は出ないと思うから」
「それなら、楽譜自体を燃やしてしまうとか……それは駄目ですか?」
 リアンは軽く首を振った。無駄だ、と、その動作がごく簡潔な答えを示している。
「やってみましょうか」
 近くの蝋燭を引き寄せて、火を灯す。そこへそっと楽譜をかざしてみた――が。
 楽譜は焦げることすらなく、相変わらず四角い形を保ったままだった。走り書きされた音符がかすむことも無い。蝋燭の炎と古ぼけた楽譜は、まるで別々の次元にあるかのように、静かにその場で揺らめいている。
 その様子をじっと見守っていたマナは顔色を失った。この楽譜が世の常から外れたところに存在するものであると、まさに今目の前で証明されたのだ。改めてその恐ろしさを実感したのだろう。震える声で「もう結構です」とリアンを止めた。
「『この世ならざるもの』はそう簡単には消滅しないの。おそらく、ホーテンダリアの街から出してしまえば呪力も無くなるんだろうけど、そもそも街から出すことすら困難だと思うし」
「というと?」
「例えば、色んな街を行き来する商車に引き取って貰うとする。きっとその商車はこの街中で事故に遭って、車ごと木っ端微塵のバラバラになるでしょう。瓶に詰め込んで、川へ流すとする。そうしたらその瓶は巡り巡って、結局この街の誰かに回収されてしまうでしょう。『この世ならざるもの』は、この地にこそ根ざすものだから」
「そ、そんな恐ろしいもの、私に管理しきれるとは、とても……」
 マナはとうとう涙声になっていた。
「リアンさん、お願いです。この楽譜を引き取っていただけませんか?もちろんお礼はさせていただきますから」
 リアンは束の間楽譜を手にとって見つめていてが、小さく息を吐いて最後には頷いた。
「――分かったわ、私が預かりましょう。でも、お礼はいいわ。これじゃ、あなたを脅かしてお金を巻き上げてるようなものだしね」
「いいえ、こんなに危険なものを押し付けようとしているのですから、その対価は受け取っていただかないと」
 マナも譲らず、しばらく押し問答が続いたが、結局は「買い取る」形で落ち着いた。マナの生家はそれなりに有名で裕福でもあるので、幾ばくか見返りを受け取ったところで相手の痛手にはならないだろう。それに実際のところ、リアンはマナを「脅かした」わけではない。まさにリアンが告げたことこそが真実、「この世ならざるもの」の本質なのだから。

 振り返れば、その日は静かな一日だった。
 チッチッと古時計の針の音(ね)だけが室内に響き渡り、その音を邪魔するものは何もない。いつもならばぽつぽつとある来客も、この日に限っては全くなかった。リアンもただソファに身を沈めてまどろむのみであった。そこへやって来たのが、瞳に不安げな色を浮かべた頼りなげな少女と、一編の楽譜だったのだ。
 初めから、そのための一日だったのかもしれない。この楽譜を見定め、受け入れるための。
 マナが楽譜を置いて骨董屋を後にしてから、この楽譜はひどくしっくりと部屋の空気に馴染んでいる。明らかにこの世から外れた存在であるはずなのに、その禍々しさがゆったりとした時間の中で緩やかに中和され落ち着いているのだ。
(さて……一体どうすればいいかしら)
 そう思ううちに、宵迎えの鐘が厳かに響き始めた。
 規則正しく街に響く低い鐘の音を聞きながら、リアンはじっと楽譜を眺めてみる。リアンは楽譜が読める。しかし音楽によく精通しているわけではなかったから、曲のメロディラインをなぞることは可能であっても、それがどれほど素晴らしい作品であるのかを実感することまでは叶わなかった。
「また厄介なものを、引き取ったな」
 不意に後ろから無機質な声が上がった。ふり返ると、古ぼけた雑貨の数々に埋もれるようにして座らされているアンティーク人形の瞳が僅かに光っている。
「ゾメニ、あんたか。突然話しかけないでよ。びっくりする」
「ゾメニと省略するな!きちんとゾメニパリオンと呼んでもらおうか!」
「そんな大仰な名前で呼んだって、ねえ。見た目はこーんな可愛らしいお人形さんなのに」
「誰のせいでっ」
 人形はいかにも悔しそうな色を滲ませて言葉を詰まらせたが、如何せん人形であるため、とことん無表情であった。
 この人形はただのアンティーク人形ではない。伝承の中のみに登場した悪魔、ゾメニパリオンの魂が宿った「この世ならざるもの」なのである。このホーテンダリア特有の気質で具現化してしまった悪魔を、リアンは人形の中に閉じ込めた。本来は人間の男に乗り移って悪さをするのが常であったから、ゾメニパリオンにとってはそれこそ腸(はらわた)が煮えくり返るほど屈辱的な仕打ちではあったのだが――その腸すら存在しない人形に押し込められたとあって、もはや諦めの境地に達しているようだった。
「略すのなら、せめて終わりを取ってリオンと呼んでもらいたい」
「そんなのダメよ。私の名前とかぶっちゃうでしょ!」
「お前は本当に、どこまでも自分勝手な女だな!」
「あーもう、名前の話なんてどうだっていいじゃない。今問題なのは、この楽譜よ。あんたはどうだっていいの」
 鼻を鳴らしてそっぽを向くと、ゾメニは僅かに怯んだように不機嫌なオーラを引っ込めた。宵迎えの鐘が鳴り終えた後でなければ自我を保てぬ上に、その時の話し相手はリアンしかいない状態なのだ。不本意ではあろうが、リアンにまで捨て置かれるのは我慢ならないようである。
「どうするつもりだ、その楽譜」
「だから今それを考えてるの。ここで保管しておけば、当面は大丈夫だと思うけど」
「うんともすんとも言わないというのに、簡単に人の命を奪う力を持っている――そんな『もの』をそのままにしておいていいとは、思えぬがな」
 ゾメニは初対面の時のはじけぶりから考えると、驚く程に実は冷静で常識的な「もの」である。
「もしお前に何かがあったとき、他の奴らでは対処しきれぬことだろう。そういう危険分子は最初の段階で処分しておくに限る」
 もっともらしく嘯(うそぶ)くゾメニを横目で眺めながら、リアンは肩をすくめた。
「それはもう仰るとおりで。――となると、アンタも一緒に処分しといた方がよさそうね」
「だーっ!俺は違う!俺は今や、喋ることしかできない儚い『もの』なのだっ。確かに昔は、深遠な知識と共に強大な力を持つ至高の存在ではあったが、いやもちろん、今だってこの器から抜け出ることが叶えば、この世を恐怖のどん底に突き入れて――」
「つまりなんなのよ」
「つまり――俺は懸念には及ばぬ至って安全な存在だ」
 まったくもう、とリアンは溜息を一つついた。ゾメニを相手にしていると、確かにその知識量に圧倒されて自身の知的好奇心をくすぐられることもあるのだが、それ以上に疲れを感じることが多いとリアンは思う。
「やっぱり放っておくにはちょっと危険すぎるわよね……」
「お、俺をか」
「あんたじゃない。この楽譜をよ」
 そう言いながらも、実はゾメニもリアンの勘定には入っている。しかしどこか憎めないこの悪魔を処分するよりも、まずは物言わぬ悪魔をどうにかするほうが先決であった。
「まずは明日にでも、この曲に関する手がかりを探してみるわ。マナの話だと、この曲はまるで無名ってことだったわよね。そして楽譜の存在すら、家族の誰も知らなかった。何も知らない分からない、っていうんじゃ私だって対処のしようがない。誰か、何か知っている人を探し出さなくちゃ」
「しかし、この楽譜のあった家は有名な音楽一家なのだろう。そいつらが知らぬという曲について、他の誰が知っているんだ?」
「だからそれをこれから探すんだってば!」
 ゾメニは束の間黙りこくった。何かを考えているような沈黙の後、再び無機質な声が部屋に響く。
「……この街で有名な音楽家一族といえば、そのマナという小娘の生家、ベーレント家だ。だがもう一つ、代々続く音楽家の家系がある。こちらは昔こそもてはやされ豪族と呼ばれた華やかな時代もあったのだが、とある事件がきっかけで、今ではすっかり落ちぶれているようだ」
「それって?」
「ケストナー家。その末裔がまだこの街に住んでいる。見たところ、その楽譜は随分古いもののようだからな。昔の話なら、今有名な音楽一家より昔有名だった音楽一家の方が話を知っているかもしれん」
「――ゾメニ!」
 リアンは一際明るい声で名前を呼んで、人形の頭を撫で回した。
「やめないかっ、人形をいじるように俺を扱うな!」
「だって人形なんだし」
「だから、誰のせいで!」
 こうしてホーテンダリアの一角にある骨董屋の夜は、賑やかに更けてゆくのであった。