02.

 ケストナー家の存在を知っている者は、もはやホーテンダリアの街にはほとんどいなかった。
 かろうじてその名を知っている者がいたとしても、彼らはそろっていい顔をしなかった。――あの家は、芸術家として最低なことをしでかしたのさ。
 逆にマナの実家であるベーレント家を知る者は数多い。年配者の中には、ベーレント家繁栄の軌跡を我がことのように語る者も現れるほどだ。彼らの話によると、ベーレント家の者が音楽家として名を上げたのはここ二、三代のことらしかった。――ということは、例の楽譜により命を落とした老音楽家は、ベーレント家繁栄の立役者の一人だったわけである。
 それはともかく、問題はケストナー家だ。
 リアンは市庁舎にも足を運び、ケストナーという家が街のどこかにありはしないか尋ねてみたが、返ってきた答えは実に素っ気ないものだった。
「ありませんね」
「そんなはずは無いんだけど。もう少し詳しく調べていただけない?」
 応対に出た女性職員は、まるで興味が無さそうに首を振るばかりだ。
「古い記録によると、確かにケストナーという一族がこの街にいたようです。ただ、百年ほど前に、政府の命令でケストナー家の住居は取り壊しになっていますね。それ以降、ケストナーという姓を持つ方はこの街にいらっしゃらないことになっています」
「政府の命令で、取り壊し……?」
「こちらは住民課ですから、昔は家があって今は家がないということしか分かりかねますが」
 これがお役所仕事というやつか。リアンはむっとしつつも「どうもありがとう」と冷ややかに礼を述べ、建物を後にした。――あの調子では、無理に話を聞こうとしても、他の課をたらい回しにされて挙句何も分からないということになりかねない。それならば自らの手で地道に調べた方がいくらも成果があがるというものだ。
 あの職員は、「いらっしゃらないことになっています」という言い方をした。それはつまり、管理外のところでひっそりと暮らしているかもしれないということである。はっきりと口にはしなかったが、街側で全ての住人を管理しきれていないのが現状なのだろう。政府の命令で家が取り壊しになったのなら、一家はおそらくホーテンダリアの街を追放になったはずだ。しかしそれも百年前の話。今ではすっかり落ちぶれているというケストナー家の末裔ならば、この街に舞い戻り、浮浪者がごときその日暮らしでどこかに潜んでいてもおかしくはない。

 朝日が朝日でなくなる頃、リアンは一旦骨董屋へと戻ってきた。
 その足で真っ直ぐ本棚へ向かい、その大きな棚を上から下まで確認する。年季の入った本棚には、やはり年季の入った古本がずらりと並べられていて、その中から無造作とも言える手つきで何冊かを抜き取ると、すぐ側の机に放り投げていった。元々溢れんばかりに小物が積み上げられていた机だったから、そのいくつかは居場所を失い床へ転がり落ちる羽目になった。しかしリアンは全く気にも留めないし、小物が床で転がっていても全く違和感を与えぬほどに、部屋は初めから散らかっている。
「さて、と」
 リアンは椅子に腰掛け、本の一冊を手に取った。この骨董屋では比較的新入りと言える、小奇麗な音楽家辞典である。
「ケストナー、ケストナー……」
 索引を辿り、目当ての名前を探す。
「あった!」
 フーゴ=ケストナー。該当ページを開くと、ほんの数行に亘(わた)って経歴と代表作が書かれているのみだ。それによると、彼はおよそ百年前の時代を生きた音楽家のようである。百年前、――この街でケストナー家が取り潰しにあった時期と一致している。
(どういうこと?)
 リアンは彼の経歴を読み進めた。最後の一行――。
『晩年は、国王に献上した作品で盗作疑惑が持たれ、失意のうちに失脚した』
(盗作!)
 思わずリアンは唸った。そうか、ケストナー家を知る数少ない住人達の言葉の意味がやっと分かった。「芸術家として最低なことをしでかした」――つまりフーゴ=ケストナーは他人の作品を盗んだのだ。しかもそれが国王に献上した作品で、となれば、処罰も重いものになったに違いない。ケストナー家は、この事件をきっかけに一族まるごと音楽家生命を絶たれてしまったのだ。
 ホーテンダリアの街が生み出した世界的な音楽家、しかしその晩年にはもっとも不名誉な形で「有名」になってしまったフーゴ=ケストナー……。街の人々が彼とその一族を闇の中に葬り去ろうとした気持ちは分からなくもない。もしもフーゴが処罰を受けた前後、新たに有能な音楽家が現れたとしたら。人々はこぞって彼を讃え、祭り上げたことだろう。そうすることでホーテンダリアが負った「傷」を癒そうとしたに違いない。そして、運命のいたずらなのか――フーゴの「代わり」に値する音楽家は、実際に現れた。それがおそらく、マナの祖先にあたる人物……、
(名前は、ハインツ=ベーレント)
 辞典にも該当項目がある。経歴を調べると、ちょうどフーゴ=ケストナーの生きた年代と重なっている。このハインツを皮切りに、ベーレント家では三代続けて著名な音楽家を輩出することになったわけだ。
 これは、ただの偶然なのだろうか?
 失脚したケストナー、そして台頭したベーレント、呪いの楽譜、死んだ音楽家……。
(偶然なわけ、ない)
 リアンはぐっと拳を握り締めた。呪いの楽譜でベーレントが死んだ。ならば、その楽譜の出所は?――なんとしても、ケストナー家の末裔を見つけ出さなければ。
 その時、店の扉が鈍い鈴の音と共に開かれた。顔を覗かせたのは、例の楽譜を持ち込んだ張本人のマナである。
「あの……こんにちは」
 怯えたような表情は昨日のまま。それでもここへ足を運んだのは、やはり楽譜を気にしてのことだろうか。
「あら、いらっしゃい。どうぞお入りなさいな」
「失礼します」
 ぺこりと頭を下げて店の中へ足を踏み入れた。リアンに促されて来客用のソファに腰を落ち着かせる。
「どうしたの?何かあった?」
「いえ、その……リアンさんのお顔が見たくなって」
「それは嬉しいわね」
 リアンは軽く笑った。マナの言いたいことは何となく分かった。呪いの楽譜を渡したことで、リアンに災いが降りかかっていないかを確認したかったのだろう。
「私は平気。至って普通の健康体よ」
「は、はい。良かったです」
「あなたも大丈夫そうね。あれから何もないのなら、それに越したことはないわ」
「はい」
 返事とは裏腹に、どこか痛ましげな表情でマナは頷いた。――事態が落ち着いたとはいえ、失われたものは戻ってこない。マナは祖父と兄の二人を続けて亡くしてしまったのだ。手放しで喜べなくても当たり前の話だった。
「それで、話を蒸し返すようで申し訳ないんだけど……楽譜のことで少し聞いてもいいかしら?」
「私に分かることでしたら」
「あなた、ケストナーという音楽家、聞いたことある?」
「ケストナー」
 その名前を口にしながら、マナは僅かに眉をひそめた。
「知ってるのね?」
「知っているといっていいのか……。詳しいことまでは分からないのですが、少しでしたら」
「昔この街で有名だった音楽家の一族。その最盛期で盗作疑惑をかけられ、表舞台から姿を消した。……こんなところ?」
 マナは頷いたが、リアンの後を引き継いで更に続けた。
「当家とは長年良いライバル同士だったと聞いています。昔はうちなんて全くの無名、片やケストナー家は国王に曲を依頼されるほどの実力者だったわけですが、その頃から――盗作の事件があった後も、ずっと付き合いがあったようで」
「そうなの!」
 それは思わぬ新事実だ。リアンは思わず身を乗り出した。
「ケストナー家の方々は、当家が苦しい時期も色々と支えて下さったそうなんです。だから、という訳じゃないんでしょうけど、立場がその……逆転してしまった後でも、変わらず親しくさせていただいていたとか。私は祖父からこの話を聞きましたが、実際祖父もケストナー家の方とお友達だったようです。時々会ったり手紙を交換したりしていました」
 思わずリアンは息を呑んだ。こんなに近いところに事実を紐解く鍵が転がっていただなんて。灯台下暗しとは、まさにこのことか。つい最近までケストナーの末裔とベーレントの音楽家が交流していたとは、全く思いもよらなかった。しかしこうなると、リアンの中に芽吹いた疑惑の種は一気に大きく膨れ上がっていく。それはマナにとっても同じらしかった。
「リアンさん、どういうことなのでしょう?あの楽譜とケストナー家の方に、何か関係があるというのですか?それってつまり……」
「まだ何も分かっていないの。だからケストナー家の末裔と話がしたいと思っているのよ」
 リアンは自戒の意味も込めて、マナを制した。リアンにとって、直感と思い込みとは別のものだ。何の根拠もなく「流れ」が見えてくることもある。でもそれはいつでも「思い込み」と紙一重だ。そこをしっかり見極めなければとんでもない落とし穴にはまってしまう。――今はまだ、なんとも結論づけられない。胸の中を漂うこの嫌なざわめきは、今はまだ「答え」には繋がっていないのだ。
「マナさん、ケストナー家の末裔がどこに住んでいるか知らない?」
「分かりません。ですが、手紙を出していた祖父ならきっと知っていたはずです。亡くなったのは突然のことでしたから、もしかしたら未投函の手紙が手元にあるかも――。よければ、すぐに確認してきますが」
「ええ、ぜひお願いするわ」

 そういうわけで、リアンとマナはそろってベーレント家の屋敷へと足を運んだ。ベーレント家は街の中心地にどっしりと門を構えた、この街では比較的新しい屋敷である。凝った造りの建物ではあるが、それほど豪奢というわけではなく落ち着いた外観は好感が持てる。広すぎず狭すぎず、歴史あるホーテンダリアの風景にもよく溶け込んでいた。
「ありました」
 一通の手紙を持ってマナが玄関先から姿を現した。ぜひ中にと勧められたのを断って、リアンは門の近くで待っていたのである。
「封までしてあったものが一通。宛て先も書かれています」
「ありがとう!」
 リアンは手紙を受け取った。宛て先を確認する。――街の外れ、浮浪者が多く治安も悪い地区が住所である。ある程度は予想していたが、やはりそうか。ここから徒歩で向かうには少々距離がある。仕方がない、馬車でもつかまえて乗っていくしかなさそうだ。貧民街まで馬車で入ると面倒だから、その手前で降りるようにしなければ。
 封筒に視線を落としながらリアンはめまぐるしく考えた。そんなリアンの様子を見て、マナが意を決したように口を開く。
「あの。私も連れて行っていただけますか」
「え?」
 驚きに顔を上げると、真剣な表情のマナが真っ直ぐリアンを見つめていた。
「どうも『たまたま』例の楽譜が我が家にあったわけではなさそうです。私も事実をこの目で確認したい。それに前々からケストナーさんとお会いしてみたいと思っていましたし」
「でも……、駄目よ。危険だわ」
 場所が場所だ。それに現在の状況を考えると、ベーレント家の令嬢がケストナーの元を訪れるなど、飛んで火に入るなんとやらになりかねない。
「危険なのは承知しています」
「もうこの楽譜のことは忘れた方がいい。それがあなたのためにもなると思う」
「そうかもしれませんが」
 揺るがない瞳。意外に頑固な一面を見て、リアンは内心で肩をすくめた。人は見かけに寄らぬものだ。
「それなら、ケストナーの家で分かったことをきちんとあなたに報告する。それでどう?」
「でもそれでは、リアンさんばかり危ない橋を渡ることになってしまいます。もとは私が持って行った楽譜なのに」
「大丈夫よ、これが私の――仕事なの」
 にっこりと微笑んだりアンに、今度こそマナは返す言葉がない様子だった。

 半ば強引にマナを説得したリアンは、一人貧民街に足を向けた。
 馬車に揺られ、移り変わる外の風景を眺めている。改めて思うのは、ここがとても不思議な街だということ。これまでの長い時間の積み重ねが「歴史」となってこの街に重厚な落ち着きを与えている。なのに、言葉では上手く説明できない「浮ついた感じ」が街の根底に流れていた。それは軽薄なものというのではなくて――捉えようとしても捉えられない、直視しようとしても輪郭がぼやけていく、そんな落ち着きのない曖昧なものだ。きっとその感覚には「この世ならざるもの」の存在が大いに影響を与えているのであろうが、それだけではない、この街のもっと根本的な部分に理由があるようにも感じられた。
(街全体が、いつも『不思議』を握ってる。私がいくら『この世ならざるもの』の正体を暴き、片をつけたところで――この街にとってはなんでもないことなのかもしれない。この街の意思とはまるで関係のないところで、私一人が滑稽に踊りまわっているだけなのかもしれないわ)
 「街」を一個の対象として考えるのはあまり良くないと、リアンは思う。街はたくさんの人間、そしてたくさんの物の集合によって成り立つ、形なきものだ。それをあたかも意志を持つ個人のように考えるだなんて。
(私も少し、疲れているのかもしれない)
 ここのところ色々ありすぎた。「この世ならざるもの」が人の命を奪う事件が続いている。以前はそんなことなどなかったのに。時折姿を現しては消えてゆく風のような存在、それが「もの」たちだったのだ。
(何故、こうなってしまったのだろう)
 最近はずっとそのことを考えている。しかしはっきりとした答えを授けてくれるものは誰もいない。出口のない迷路に迷い込んでしまったようで、だからといって入口に引き返すなどもはやできない。
(それに、出口のない迷路なんて存在しないわ)
 もしも答えを見つけることができたら――自分は一体どうするだろう?
 その答えも未だ見つからない。やがて馬車は目的の地に辿り着いた。