03.

 ラミエルが死んだ。
 朝、いつもの時間に侍女がラミエルを起こしに行った時、すでに彼女は冷たくなっていた。前の晩突然高熱を出した彼女が、よもや翌朝には冷たくなっていようとは、さすがに誰も思い至らなかっただろう。ラミエルが息をしていないことに気づくまで随分と時間がかかったのは、瞳を閉じるその表情がまさに眠るように穏やかだったというのも理由の一つかもしれない。きっと彼女は苦しまずに亡くなった。
 しかしそれが周囲の慰めになったかといえば、そうではなかった。なぜ理不尽に愛娘を二人も奪われなくてはならなかったのか――両親は気が触れたように泣き、喚き、取り乱した。彼女の死を知った街の住人たちもますます「もの」の力に恐れおののいた。一体いつまでこんなことが続くのだろう? 平穏な時はもう戻ってこないのか? だが、その答えを持つ者は誰もいなかった。

 リアンは夜が明け、街が活動を始める時間を待って、再び出かける準備に取り掛かっていた。
 もう一度「もの」が棲家とするあのあばら家に出向かねばならない。どんな文献を洗っても姿を見せなかった「もの」を暴くには、もはやあの家に手がかりを見出すしかない。夜の間は「もの」の力に阻まれて屋内へ立ち入ることすらできなかった。だがこの朝日の下では、その力も及ばぬはずだ。
 上着を羽織り、襟に巻き込まれた後ろ髪をすくったところで、扉が鈍い音を立てて開かれた。骨董屋に入ってきたのは、リアンと同じく一睡もしていないであろうセシルである。
「……どうしたの?」
「これから動くんだろう。俺も同行させてくれ」
 淡々とした調子のセシルだが、その胸には並々ならぬ思いが渦巻いているはずだ。
「……怒らないのね」
「誰を?」
「私を、よ。結局あの娘を助けるために何もしなかったわ」
「……できなかった、だろう。お前が悪いわけじゃないことは、俺にも分かっている。第一、何もできなかったのは俺も同じだ」
 リアンは歪んだ笑みを浮かべ、口を閉ざした。
「それでまずはどこへ行くんだ?」
「昨日の、あの家へ。昼間は何もない空き家なのか、それとも誰か人が住んでいるのか。住んでいるのならばどんな人物なのか。なんでもいいの、とにかくもっと情報が欲しい」
 セシルは神妙な面持ちで頷いた。
「あの人形も連れて行くのか」
「ゾメニのこと? あいつは昼間は喋れないから、連れて行っても荷物になるだけだし。悪いけど留守番しててもらうわ」
 骨董品の合間に座らされている可愛らしい少女の人形。ちら、と二人が視線を向けると、今にも騒ぎ出しそうな様子で人形は小さく微笑んでいるのだった。

 日のある時間にやって来ると、同じ景色でも全てががらりと変わって見える。
 この川沿いの家々もそれは同じだった。昨晩やって来たときにはいかにも不潔な空気の漂う近寄りがたい一角であったのに、朝日と共に来てみれば意外にのどかで穏やかだ。
 駆け回る子供たちの間を縫って階段を降りると、見覚えのあるあばら家が目に入った。昨晩はぴったりと閉じられていた窓がわずかに開いている。空き家ではなかったのだろうか。
 注意深く家の周りを一周してみる。物音一つしないことを考えても、誰かが中にいるとは思えなかった。カーテンの無い窓から中を覗いても人影はどこにも見えない。昨日の晩と同じように、白地のキャンバスの山やら、壁に立てかけられたイーゼルやらが散乱しているだけだった。――そして、わずかに変わるところがあるとすれば、それは美しいラミエル嬢の肖像画が完成していることだけだった――。
「中に入ってみましょう」
 リアンはセシルの返事を待たずにドアノブに手をかけた。引けば、何の抵抗もなく扉が開く。鈍く軋む音が続く廊下に小さく響いた。
 室内は埃っぽいかと思われたが、意外に中の空気は軽かった。ゆっくりと足を踏み出すと、悲鳴のように床が鳴る。
「……本当に昼間は普通の家なんだな」
 辺りを見回しながらセシルがリアンの後ろに続いた。警戒心を滲ませた声には、わずかに拍子抜けした様子もあった。
 短い廊下の両脇に、二つの扉。どちらも無視して真っ直ぐにリビングへと向かう。リビング――いや、この場合、アトリエと言った方がいいだろうか。
 先ほどまでは外から見ていた景色が、今は目の前に広がった。
 誰もいない、ぽっかりと穴が開いたような空間。散乱した絵画道具たちはもう長い間手をつけられていないようだ。それらがどこか所在なげに見えるのは、真ん中に座する少女の絵画が圧倒的な存在感を放っているからであろう。
「……すごいな」
 ラミエルの肖像画を見つめ、セシルはぽつりと呟いた。
 窓越しに眺めるのとは訳が違う。こうして絵を真正面に据え改めて対峙すると、ますます絵の持つ力が増してリアン達に迫ってくる。向き合う者をしっかり捕えて離さない、強い強い力だ。
「さあ、セシル。ぼうっと突っ立ってないで始めるわよ」
「始めるって、何を」
「何でもいいの、『もの』にまつわる何かを探して。この絵を描いた『もの』の手がかりを掴めるとしたら、きっとこの家の中だわ」
 言いながら、リアンは早速手元の筆入れをひっくり返している。そこに何ら得るものはないと分かると、今度は壁に立てかけてあったスケッチブックをめくり始めた。まるで遠慮する様子はない。セシルもそれにつられるように、戸棚の引き出しを開けてみた。からからに乾いた絵の具がぎっしり詰め込まれているだけだ。
 そうして二人はしばらく無言で部屋を漁っていたが、出てくるものはもはや化石のような古い絵の道具やら紙の切れ端ばかりだ。
「おい、埒が明かないぞ」
 観念したようにセシルはリアンを振り返った。リアンは膝をついて床に積み上げられたラフの山を一枚ずつ確認している。
「諦めないで。この部屋にかつて住んでいた人間と絵描きの『この世ならざるもの』はおそらく同一人物よ。もとの住人の素性が分かりさえすれば道は開けるわ」
「……部屋の主が、そのまま『もの』になった、か」
 セシルは気味悪そうに部屋を見渡した。
「一体何があったんだろうな、その男に」
「だから、今それを探しているんじゃない」
 リアンは呆れたようにため息をついて、手を止めた。
「……でも、確かにこのリビングには何の手がかりも無いみたいね。他の部屋をあたってみましょうか」
 気を取り直したようにリアンは立ち上がった。スカートについた埃を両手で払い、顔を上げる。
 ――そして。
 出口に向かって一歩を踏み出した足がそのまま固まった。セシルもつられて振り返り、ぎくりと身体を強張らせる。
 部屋の入り口に、やつれた女が一人、立っていたのだ。
「なに……」
 女が低く呟く。
「なんなの、あんた達……」
 その青ざめた唇がわななくのを、リアン達ははっきりと見て取った。
「こんな昼間にまで現れて。あの人の差し金なのね! あんた達もあの人の仲間んでしょう! もう、もういい加減にして……!」
 女は顔に刻まれた皺を更に深いものにして、手元にあった空っぽの花瓶を投げつけた。とっさにリアンをかばったセシルの肩に命中し、花瓶は床に転がった。女はリアン達を睨みつけ、なお手探りで凶器となる道具を探している。
「やめろっ」
 セシルが痩せこけた女の両腕に掴みかかった。
「離せっ! あの人は私の父親なんかじゃない。私は関係ないのよ、だからもうこれ以上私を悩ませないで!」
「落ち着くんだ」
 セシルの声などまるで聞こえていない様子で、女は髪を振り乱し抵抗した。
「いやだ、もう嫌だ!」
「大丈夫、私達は『あの人』の仲間じゃないわ。私達はあなたの味方です。『あの人』を静めるために、私達は来たの!」
 リアンがはっきりとした声でそう告げると、一瞬女は動きを止めた。しかしゆるゆると頭(かぶり)を振ると、再びセシルから逃れようと身をよじる。
「し、信じないわ。そんなこと言って、私を破滅させに来たんでしょう。このアトリエだけでは飽き足らなくなって、私を家から追い出そうっていうんでしょう!」
「そうじゃないわ」
 リアンは根気強く言葉を続けた。
「私はリアン。『この世ならざるもの』の行き過ぎた行いを諌めるのが仕事です。ここには強い力を持った『もの』が住み着いていますね? あなたはそれに苦しめられているんでしょう。その苦しみから、きっと解放してみせます。……だから、落ち着いて。そして話を聞かせて」
「……」
 女はぎょろりとした目をリアンに向けた。値踏みするように、無言でリアンとセシルを交互に見やる。それから二人の背に差す明るい日差しに目を細め、やっと身体の力を抜いた。彼女の口から深いため息が漏れる。
「そうね……、そう、昼間にまで『もの』が現れることなんて、あるはずないわ。あなた達はあの人の仲間じゃ、ない……」
「ええ。仲間じゃない。あなたの、味方よ」
 リアンはもう一度、ゆっくりと告げた。
 セシルが手を離すと、女の両腕がだらりと落ちた。
 女の年の頃は四十半ばだろうか。しかし、深く縁取られたクマと削げ落ちた頬のせいで正確な年齢は分からなかった。もしかしたら三十なのかもしれないし、はたまた五十を過ぎているのかもしれない。
「あなたはこの家に住んでいるんですね? ずっと前からですか?」
「……ええ。生まれた時からここにいるわ」
 リアンの瞳が鋭く光った。――全ての鍵を握るのは、この女性。もう彼女しかいない。
「詳しく話を聞かせていただけますか」
 女は疲れたように頷いた。
「ただ、とにかくここから離れたいわ。狭いけど、玄関の側の部屋に移ってもいいかしら」
 リアンとセシルは一瞬顔を見合わせたが、すぐにリアンは了承した。この部屋に長く留まっていたくないという思いは全員同じだ。女が小さな背中を見せ歩き出すと、リアン達もその後に続いて部屋を出た。ラミエルの美しい肖像は、変わらず優美な笑みを湛えたままだった。

「私はマルゴ。この家に一人で暮らしているわ」
 マルゴと名乗った女は、固そうなベッドの上に腰を下ろした。部屋に二脚ある椅子は両方ともリアンとセシルに明け渡しているためだった。
「生まれた時からここにいる、と仰いましたね。以前はご家族で?」
 リアンの質問にマルゴはますます顔色を無くした。
「母は私を産んでしばらくして死んだらしいわ。だからずっと、父と、二人で……」
「お父様と」
 もちろんリアンは忘れていない。先ほど半狂乱になったマルゴが叫んだ言葉を。――あの人は私の父親なんかじゃない。
「そのお父様は、今もご健在で?」
 いいえ、とマルゴは首を振った。
「分かっているんでしょう。父はとうの昔に死んだ。……でも今、『この世ならざるもの』として……、あのアトリエに」
「いつから?」
 リアンは鋭く切り込んだ。
「もう二十年近く昔からよ。父が死んですぐのこと。毎晩現れて、あのリビングで絵を描いていた。だから私はあそこを父が生前使っていたままの状態にしておくしかなくて……」
「二十年も前から、お父様は姿を現していたのですね。ずっと、ただ絵を描くだけでした?」
「ええ。ひたすら若い娘の絵を描き続けていたわ。ただ、いつ覗いてもちっとも絵は進んでいなくて……、毎晩全く同じ作業を繰り返していたの。それすら私には恐ろしかったけれど」
 典型的な『もの』の習性だ。同じ場所で、同じ動きを繰り返す。――ただし、それほど古くないただの人間が亡霊のごとく蘇ったという点においてのみ、典型を大きく外れているのだが。
「誰かに相談したことは?」
「何人かには。でも、誰も深く考える人はいなかった。どこにでもいる『この世ならざるもの』となんら変わりないから大丈夫だって。たまたま私の父がそうなっただけで」
「……」
 リアンは右手を口元に当て、考え込んだ。
 ずっと以前から存在した『もの』。それがここ最近になって人を殺す力を持ち始めた。
(それはつまり、今街中にいる『もの』達の誰もが殺人鬼になり得る可能性を秘めてるってことじゃないの)
 今までの存在が例外中の例外、もはやそう楽観的に構えていられないということか。
(だめ……、駄目だわ)
 まただ。『もの』達は、どんどんリアンの手から零れ落ちていく。もはや制御できないところまで達しようとしている――。
「大丈夫なんかじゃなかったのよね」
 マルゴは絶望の滲んだ声で呟いた。
「最近、若い娘さん達が次々に死んでいるんでしょう? こんな街の外れに住んでいる私にも噂は聞こえているわ。その誰もが、父……、いえ、『この世ならざるもの』が描いていた娘さんなのよ。気づいていたけれど、私にはどうしようもなかった。恐ろしくて、夜はアトリエに足を踏み入れることすらできなかったわ」
 それも仕方のないことだろう。止めようと思って止められるものではない。それにあの『もの』は外部からの干渉を強く拒否する類いだ。止めるどころか、そのために部屋へ入ることすらできなかったであろう。
「マルゴさんに心当たりはありますか? なぜ彼がひたすら若い娘の絵を描いているのか。そして、なぜ彼女達を死に至らしめることになったのか」
 マルゴは暗い表情で黙り込んだ。なかなか口を開こうとしなかったが、それこそが肯定の返事に他ならなかった。リアン達は辛抱強く待ち続ける。彼女が真実を打ち明ける覚悟ができるまで――。
 そして、ついにマルゴは噛みしめていた唇を解いた。
「……父が若い娘の絵ばかり描き続けている理由、お話しするわ」