04.

 その男の名はカルヴェといった。
 生まれた時から自分の職業を知っていたというような、天才的な絵の才能の持ち主であった。
 幼い頃から、描いた絵描いた絵を大人達に褒めちぎられる。与えられた絵の具を全色使ってやれば、なんて色彩豊かな絵を描くのだろうと感嘆され、逆に黒っぽい色だけを使ってやれば、もうこんな大人びた絵を描けるのかと驚嘆された。何も考えず、気まぐれに筆を取り、絵の具を伸ばす。馬には見えない馬、人には見えない人、――そう、本当に何も考えていなかった。ただ思うがままに描いていた。それでも人は喜んだ。ああ君、君は本当に豊かな感性の持ち主なのだね……。
 そんなカルヴェに絵画の基礎を教えてくれる人物が現れたのは、彼にとって幸運だったか不運だったか。その後の彼の人生を他人が顧みれば、それは恐らく不運であったのかもしれない。しかしカルヴェ自身は、生涯彼を師と仰ぎ尊敬することとなった。
 その人物は有名な画家でも何でもなく、言ってみれば「その道で挫折をした」男だった。どうしても絵から離れがたく、美術館の学芸員に納まっていたような男である。彼は偏屈なことでは多少有名で、カルヴェの絵を一瞥すると、まずは馬が馬に見えるような絵を描けなければ話にならないとはっきり言い捨てた。当時まだ十歳にも満たなかったカルヴェには辛らつな一言だったが――少なくとも周りはそう考えた――カルヴェはそれ以来、自ら進んで彼について回るようになった。
 カルヴェが本当に絵画の魅力を感じるようになったのは、おそらくそれからのことだった。写実的な絵を描かせてもカルヴェはぐんぐん上達した。馬が馬であるのはもちろんのこと、その馬が体中の筋肉を駆使して力強く大草原を駆け巡る様も生き生きと描けるようになった。風景画や静物画を描かせても上手くやった。キャンバスを、立てかけた壁紙と全く同じに塗り上げ、中央に花瓶の絵を描いてみせた時などは、そこに本物の花瓶があると勘違いする者も現れるほどだった。その様を見て屈託なく笑った少年は、まだほんの十四歳だった――。
 カルヴェが一際興味を持ったのは人物画であった。人を描く時の彼の集中力は凄まじかった。プロのモデルでさえ音を上げてしまうほどに、カルヴェは休みも取らず絵を描き通してしまうのだ。カルヴェが苦心したのは、絵の技法よりもむしろ、いかにして時々の休憩を挟むかということだった。そうして描き上げた作品の数々はどれも非常に写実的で臨場感に溢れており、人々を唸らせるには十分なものだった。
 これほど早熟な絵の天才は、しかし実際画家として名声を得るまでに、もうしばらくの時間を必要とした。彼の父親が学業に重きを置く人物だったからである。学業に「も」と言葉を添えた方がより正しいだろうか。彼はカルヴェにきちんと勉学に励み、学校へ通うようにきつく言い渡していた。そして、次のような約束もさせていた。学生のうちは、人に頼まれて絵を描くことはあっても、それで報酬を受け取ることがあってはいけない。
 父としては、カルヴェの世界が、人生が、早いうちから絵一色に染まってしまうことを危ぶんでいたのだろう。もっと広い世界を知って欲しい。まだ若い身空には無限の可能性がそこら中に転がっていることを感じて欲しい。
 ――しかし、そんな父親の願いも空しく散った。
 カルヴェには、やはり絵しかないのだった。カルヴェも反抗的な子供ではなかったから、父親の言いつけどおりきちんと学校に通い、それなりの成績を修めていた。友人の頼みで絵を描くことはあっても、他人から依頼を受けて絵を描くことは決してしなかった。それでもカルヴェは、大半の時間をキャンバスに向かって過ごしていた。絵を、絵を、絵を描きたい。乾いた土が降り注ぐ雨を待ち焦がれるように、カルヴェはいつもそんな衝動を胸に抱いていたのかもしれない。
 初めてカルヴェが正式な依頼を受け描いたのは、街の富豪の愛娘の肖像だった。
 その最初の一枚が、カルヴェのその後の人生を決定づけた。彼の父が苦心して広げたたくさんの絨毯は、始めから敷かれていた一枚を残し全て取り払われてしまったのである。
 仕上がった作品に、富豪は大満足だった。絵のお披露目会で彼がどれほど上機嫌だったことだろう。あどけなく愛らしい少女の肖像。会に集まった紳士淑女達も心からその絵を褒め称えた。そして会がお開きになるなり、さっそくカルヴェに連絡を取りに走ることとなった。
 肖像画家として動き出した自分の人生に、カルヴェが疑問や不満を抱くことはなかった。むしろ願ったりの状況だったと言ってよかろう。カルヴェは人を描くことが本当に好きだった。まつげの一本にすら手を抜かず、生きた人物をそっくりそのままキャンバスの中に収めることがこの上なく好きだった。――そう、もはや、病的なほどに。
 カルヴェが自分の描く絵に納得ができなくなったのは、二十代も後半に入ったばかりの頃である。完成した作品を三枚重ね合わせたような緻密な絵を前にしても、なおカルヴェは筆を降ろそうとはしなくなった。まだだ、まだ何か足りない、何かがおかしい……。いつしかそれがカルヴェの口癖になっていた。
 周りの者には理解不能の苦しみだった。カルヴェの描く肖像画は相変わらず素晴らしいものだ。ぞくりとするほど真に迫った絵を描ける画家などそういない。だがしかし、あまりに写実的過ぎる彼の作風を敬遠する動きが出始めたのも、また確かなことだった。つまり、カルヴェはまるで「色をつけてくれない」のである。老いた老人は老いたままに、肥えた熟女は肥えたままに。まさに有りのままの姿を描き上げられて、喜ばぬ者がいるのも当然のことだった。
 カルヴェに肖像画の依頼をするのは、決まって美しい娘を持つ富豪ばかりとなっていった。カルヴェは来る日も来る日も美しい娘ばかりを描き続けた。しかし納得がいかない。何か足りない、何かがおかしい……。
 ある日モデルとなった麗しい少女は、ポーズを取った長い時間、身動き一つせず無駄口も叩かず、キャンバスに向かうカルヴェを醒めた瞳でじっと見つめ返していた。綺麗に描いてくださいね、と愛想を振りまくこともなければ、わざとらしく大きなため息をついて画家を急かすこともない。
 今日はここまでにしよう、とカルヴェが筆を置いた時、少女は初めて自ら動いた。カルヴェの方へ歩み寄り、大きなキャンバスに目をやった。そこには、とうに完成を迎えていたとしか思えぬほど描き込まれた少女自身の姿があった。今にも動き出しそうな美少女の肖像だった。
 しかし、少女は激しく顔をしかめた。そしてこう言い放ったのだ。

 ――まるで、生きた死人を見ているようだわ。気持ち悪い。

「それからの父の人生は、まさに坂道を転がり落ちるようなものだった。父はそれ以来、まともに絵を描けなくなってしまったの。……それまでも危うい状況ではあったけれど、その一件で完全に父の心は壊れてしまったのでしょうね」
 マルゴは遠くを眺めるように目を細めた。
「『生きた死人を見ているよう』、その言葉は、父が自分の絵に対して漠然と抱いていた思いそのものだったんだと思う」
 彼は、気づきそうで気づけなかった自らの思いとはっきり向かい合ってしまったのだ。
「私が物心ついた時には、すでに貧窮した毎日を過ごしていた。父はもはや絵の依頼を受けなくなっていたし、だからといって他に仕事を探すこともせず、ひたすらキャンバスに向かい続けているんだもの。母が病気で亡くなったのも、家族を支えるために無理をしすぎたからでしょうね」
「……お母様が亡くなられてからは?」
「父は変わらなかった。ずっと絵だけを描き続けた。幼すぎた私は何度も飢え死にしそうになった。――そんな生活が、それから二十年も続いたわ」
「二十年……」
 久しぶりに口を開いたセシルは、そのまま再び絶句した。
「私も父に見切りをつけてさっさと家を出てしまえば良かったんでしょうけど、結局見捨てることはできなかった。ある朝父がアトリエで冷たくなっているのを発見した時、どこかほっとする気持ちがあったのは確かよ。……でも、私一人の生活は長く続かなかったけれど」
 マルゴは皮肉の滲んだ笑みを浮かべた。
「父が『この世ならざるもの』として蘇り、また美少女の絵を描き始めた時は、さすがに私も発狂しそうになったわ。お願いだからもうやめてって、何度叫んだことか」
 しかし彼は筆を動かすことを止めない。納得のいく絵と向かい合える日まで、毎晩毎晩繰り返す。そしてその過程で生まれた「駄作」は、その絵のモデルと共に葬り去られることとなる……。

 リアンは一度しっかり瞳を閉じると、再び開いて顔を上げた。
「ありがとうございました」
 凛とした声でリアンは告げた。
「きっと、あなたとお父様の苦しみを終わらせることができると思います。ですからあと数日、待っていてください」
「ほんとう……?」
 マルゴは目を真っ赤にさせた。
「数日なんて、待つうちにも入らないわ。もうずっとずっと、何十年も待ち続けていたんだもの。本当に私達を助けてくれるって信じていいのね? それなら、何週間でも何ヶ月でもかかっていいの。数日のうちに終わらなくても構わない。――だからどうかお願いよ、あの人を止めて」
 リアンはしっかりと頷いた。全ての鍵は揃ったのだ。今ならば見える、自分が何をすべきなのか。
(ただ、あまりにも遅すぎたけれど)
 救える者と救えない者。
 それをリアンが選ぶことはできない。だが、願わくば全ての者を救いたかった。偽善者ぶっているつもりはない。そう思うのは、感傷のせいでも同情心のせいでもないからだ。「この世ならざるもの」の脅威から街を守る、それが自らに課せられた使命――そう信じてきたからこそ。
 リアンは再び肩に舞い降りた影を振り払うように席を立った。

 マルゴの家を後にして、リアンは迷いのない足取りで街の中心地へと向かっていった。半歩後ろを歩くセシルは、納得のいかない様子でリアンに視線を送っている。
「カルヴェの目を覚ましてあげましょう」
 リアンは途中で馬車を拾い、乗り込みながら呟いた。
「なに?」
 その後に続いたセシルも、扉を閉めつつ向かいのリアンに目をやった。
「本物らしさを追求しすぎたせいで、カルヴェは自分が『絵を描いている』ということを忘れてしまった。本物に瓜二つなだけなら鏡があればそれでいいの。絵には、鏡では映し出せないものを映し出す力が秘められていると思うわ。それを忘れてしまって以来、カルヴェの作品からは魂が抜け落ちて、代わりに何か恐ろしいものが残ってしまったんじゃないかしら」
「……まあ、そうだな。だがそれで、どうするつもりだ?」
「本当に美しい絵というものを、カルヴェに見せてあげましょう。私の知り合いに、とても素敵な絵を描く人がいるの。彼に頼むつもりよ。これ以上ないほど麗しい美女の肖像を描いてくれって」
 セシルは深く息をつきながら首を振った。
「大きな賭けだな」
「そうね」
「何だかんだ言っても、カルヴェの描く絵はそこらの画家には太刀打ちできないレベルだぞ。そんなカルヴェを唸らせる絵を……しかも、数日で描いてもらうつもりなんだろ? どこにそんな気前のいい大画家がいるんだ」
「まあ、会ってみてのお楽しみ」
 リアンは人差し指を上げて、久しぶりに微笑んだ。

 辿り着いたのは、街の外れの一軒家だった。
 一軒家といっても、似たような家々がすぐ側にいくつも並んでいる。窓から顔を出して世間話に花を咲かせる主婦もいれば、植木の水やりに一生懸命な幼い少女もいる。無造作に洗濯物を吊るされた出窓などもあったりして、辺りには静かに生活の匂いが漂っていた。
「ここなのか?」
 セシルは気の抜けたような声でリアンに問いかけた。
 本当にごく普通の住宅区だ。ここにカルヴェを凌ぐほどの画家が住んでいるとは到底思われない。
 しかしリアンはセシルの様子など全く意に介さず、さも当然というように頷いた。
「連絡もしないで来ちゃったけど、家にいるかしら。いてくれたらいいんだけど」
 軽く建物を見上げ、それからリアンはドアをノックした。ごめんください、とよく通る声で呼びかける。すると間もなく家の中で人の動く気配がした。ガタガタとくぐもった物音が響いて、やがて扉がゆっくり開かれる。
「はい、どちら様――おや、リアン!」
 現れたのは、背の高いセシルよりも更に一回り大きい、熊のような男だった。茶色い髭が顔の半分近くを埋め尽くし、随分な迫力がある。
「お久しぶりです、オットーさん。突然お邪魔してごめんなさい」
 リアンが控え目に頭を下げると、オットーと呼ばれた男は驚いた様子のまま首を振った。
「どうしたんだ、今日はまた。リアンの方からうちに来るなんて珍しいなあ。……と、思ったら何だ、男前な彼氏も一緒か。もしやわざわざ結婚の報告に来てくれたのかい?」
「違うんです、この人は自衛団の人ですよ」
 リアンは慌てもせず冷静に否定した。
「そうか、うちのチビが落ち込むだろうなあ。あいつリアンのことが大好きだからな。でもま、しょうがない。ちゃんと祝いの言葉は言わせるからな」
「そのディータなんですけど、今日は家にいます?」
 リアンはもはや訂正せずに話を進めた。
「おう、いるぞ。まあとにかく上がってくれよ。リアンが来たって知ったら、あいつ部屋から飛び出てくるぞ」
 豪快に笑いながらオットーはリアン達を部屋に招き入れた。リアンとセシルは遠慮がちに玄関をくぐる。やや散らかっている以外は何の変哲もない居間に通されると、オットーはディータを呼びに二階へと上がっていった。
「今のオットーという人が画家なのか?」
 セシルがここぞとばかりに問いかけた。
「そう見えた?」
「……見えない」
「そうでしょ。絵を頼みに来たのはね、オットーさんじゃないの。これからすぐ来てくれるわよ」
 と、リアンが言い終えるか終えないかというまさにその時だった。
「リアンー!」
 明るく大きな声。そしてそれに被さるように大きな足音が家中に響いた。階段を駆け下りて姿を現したのは――。
 まだあどけない、十一、二歳程度の少年であった。
「ほんとにリアンだ! 久しぶりだね!」
 にっこりとリアンに微笑みかける姿は、まさに古来より人々が頭に描いてきた天使像そのものだ。首を傾げた拍子に、白に近い金の髪がさらりと揺れた。
「……オットーさんの、息子、じゃないよな」
 セシルがぼそりと呟く。
「正真正銘血の繋がった息子さんよ」
「母親に似たのか」
「ねえリアン、この人誰ー?」
 やや憮然とした表情になって、ディータはセシルを指差した。
「仕事の仲間よ」
 リアンのその答えに納得が行かなかいらしく、ディータはじろじろとセシルを眺めている。遅れて二階から降りてきたオットーが、そんなディータの頭を後ろから小突いた。
「おいディータ、人を指差すもんじゃない」
「父さん、だってさー。リアンの仕事って骨董品屋でしょ? なのになんで仲間がいるのさ」
「あのなあ、リアンは今度この人と結婚するんだぞ」
「しませんってば。今回はお店とはまた別の仕事の話なの。この人は、自衛団員のセシル。私と彼は、ある事件を解決するために動いてるのよ」
「事件? なになに、なにそれ」
 興味を持った様子で、ディータはリアンの瞳を覗き込んだ。
「詳しく話すわ。ディータにどうしても力を貸してもらいたくって」
「うん、俺にできることだったら何でもするよ!」
 一人面食らった様子を見せるのはセシルである。どんどん話が進んでいくこの状況に、上手くついていけないらしい。
「おいリアン、まさかお前が言ってた絵描きってこの子のことか」
「ええ、そうよ」
 リアンは面白がるように笑って頷いた。一方のディータは、むっとした表情でセシルに噛み付く。
「なんだよお前、人のこと子供扱いしやがって。リアンとどういう関係なんだよ!」
「……仕事の仲間だそうだが」
「絶対怪しいよ、絶対」
「ほれほれ、いい加減話を進めよう。リアンを巡る戦いはお前の身長があと三十センチ伸びてからにするんだな、ディータ」
 人の話を聞かぬと見えたオットーが、場を取り成すように口を挟んだ。
「ちぇっ」
 ディータは不承不承ながらも口をつぐんだ。そしてリアンの向かいの席に着く。これでやっと、役者が揃ったのだった。