04.

 それから数日は、何事もなく過ぎた。
 セシルの傷は予想通り見た目ほどひどくはなく、日常生活にも大した支障はきたさなかった。ただし、縦横無尽に走ったその傷に、手当てをした看護士は「何をしたらこんな傷ができるんだ」としきりに首を捻っていたが。
 リアンとは会っていない。正確に言うと、会えなかった。
 リアンの骨董屋に足を運んでも、いつでも「閉店」の札がかかっている。部屋に閉じこもっているのか、それとも外を出歩いているのか。何の相談も受けていないので、セシルには分からない。
(だが、恐らくはあの瓶を使うことになるんだろうな)
 それしか道は残されていない気がした。あとはリアンの覚悟の問題、とゾメニパリオンは言っていたが。今頃リアンは覚悟を決めるべく時を過ごしているのだろうか。
 一方、リーザも影を潜めたままだった。あの晩の出来事が余程身にこたえたのか、あれから一切姿を現していない。どこかで目撃されたという情報も入っていない。おそらく街を歩いていても普通の人間にはあれが『もの』だと分かるまいが、犠牲者らしきものが出ていないのでまだ大丈夫だろう。しかしそれもいつまで持つか。いつ再びリーザが牙を剥いてもおかしくない状況だ。
 セシルはこの数日間、自ら遅番を希望し街の見廻りを行っていた。もしリーザが行動を起こすとすれば、それは夜だ。それを見張って彼女を牽制したいという気持ちがあった。セシルにリーザを止められるのかという問題があったが、あまりにも人に近すぎる彼女と対峙するならば、何度か話したことのある自分が“まだマシ”だという程度の自負がある。
 それに、セシルは今のうちに夜のホーテンダリアを目に焼き付けておきたかった。
 リアンがあの瓶を使えば、「この世ならざるもの」は全て消えてしまうという。望んでのことでないとはいえ、生まれた時から共にいた「もの」達だ。それがいなくなってしまうのは、やはりいささか淋しいものだった。
「さーあ、陽気ーにー、うーたーえー」
 突然頭上から、明るい男の歌声が響いた。見上げると、飲み屋の二階から身を乗り出して酒を飲む髭面の男がいる。乾杯、とジョッキを高く持ち上げた。セシルも手だけで応えてやると、男は嬉しそうな顔で一息に杯を空ける。――そして、消えた。
 またしばらく歩いていくと、今度は後ろから小さな足音が二つ、ついてきた。ちらと振り返るが誰もいない。気にせずそのまま歩みを再会すると、やはり同じ速度で足音が続いた。くすくす、という忍び笑いも同時に響く。いたずらをする子供のように無邪気な笑い声だった。それでも歩き続け、やがて辿り着いた十字路を曲がると、それきり音はしなくなった。
 その後もセシルは様々な「もの」達に会いに行った。どれもセシルを見て「久しぶり」と声をかけてくることこそなかったが、いつもと変わらぬ姿で彼を迎えてくれた。
(不思議なものだ、それにほっとしてしまうなんて)
 ゾメニパリオンはセシルに尋ねた。「この世ならざるもの」をどう思う、と。――やはり、人を殺す「もの」さえ現れた今でも、ただ恐ろしいとは思えない。どこか懐かしく、出会えば心が落ち着くような――遠い昔の友人にも似た存在、それがセシルにとっての「もの」だった。
「お兄ちゃん」
 突然呼び止められ、セシルはぴくりと肩を揺らした。見れば、建物の影からこちらを窺うように一人の少女が佇んでいる。
「……リーザか」
 リーザは怯えているように見えた。それが演技かどうかは分からない。セシルは距離を取ったまま慎重に足を止めた。
「お兄ちゃん、今日は一人?」
「だったらどうする」
「……少し、話がしたいの」
 リーザは周りに視線を飛ばし、セシルが一人きりであることを確認した。人通りのまるでない裏通りなので、他人でさえも姿は見えない。リーザと初めて会った時と同じ状況だ。セシルは動揺で跳ねる心を押さえつけようと拳を強く握った。
「この間はごめんなさい、お兄ちゃんのこと傷つけて。でも私、すごく焦ってたから、自分でも何が何だかわからなかったの」
 リーザは恐る恐るセシルに近づいてきた。
「もうあんなことはしない。それに、他の人のことも傷つけないよ。だから、聞いて欲しいお願いがあるの」
「お願い、だって?」
 「この世ならざるもの」のお願いほど胡散臭いものはない。だが、そのお願いとやらをはねつけて、それで突破口が開けるわけでもなかった。リーザが何を望んで現れたのか。それを知るだけでも価値があるかもしれない。
「あのリアンっていう人が持ってる小瓶があるでしょ。あれを手に入れて、捨ててしまってほしい」
 セシルは眉をひそめた。
「あの瓶が何か、俺が知らないとでも思っているのか」
「もちろん、知ってるんでしょう。『この世ならざるもの』全てを消し去ることのできる、ムンディの薬が入ってる」
「それを捨てようなんて思うほど、俺だって馬鹿じゃない」
「それじゃあ、あれが使われるのを黙って見過ごすっていうこと?」
「リーザは最近目覚めたばかりだから知らないだろうが、『もの』はこれまでも人をたくさん殺しているんだ。人にとって『もの』は、……もはや脅威だ。それを消し去ることのできる薬があると知れば、黙っているどころか、今すぐ使えとたきつける人間がほとんどだろう」
 でも、とリーザは食い下がる。
「お兄ちゃんは?」
 セシルは押し黙った。内心では大きく戸惑ったために、咄嗟に言葉が出なかったのだ。
「お兄ちゃんも、全部消えてしまえばいいと思ってるの?」
 そう思っているはずがない、リーザの瞳は確信で満ちていた。
「だって、お兄ちゃんにとってあのリアンって人、大切な人なんでしょう。あの人まで消えちゃって、それでも本当にいいの?」

「――え?」
 
 リアンが……、何だって?

 一瞬にして、セシルの頭の中は真っ白になった。眩しい白の塗料を派手にぶちまけられたかのように。それを拭き取ろうにも、体がまるで動かない。
「今、何て言った……」
「だから、ムンディの薬を使えば」
「セシルを懐柔しようとしたって無駄よ」
 リーザの言葉は途中で遮られた。いやに冷静な声が、夜風に乗せられセシル達の元まで届けられたのだ。
 リアンだった。
 亜麻色のふわりとした髪を風になびかせ、ゆっくりこちらに歩み寄ってくる。
「セシルもそこまで馬鹿じゃない。それに、仮にセシルが小瓶を奪おうとしたって絶対に渡さないわ。――もう、決心はついたもの」
 リアンが鋭い目で見据えると、リーザは喉を引きつらせて後ずさった。
「どうしてよ、どうしてよ……」
 泣きそうな声でリーザは呟く。しかし以前のように楯突くことはせず、諦めたようにそのまま彼女の姿は消えた。力では叶わないと悟ったのか。
 その場に残されたのは、セシルとリアンの二人きりになった。
「……リアン」
 まだ混乱から抜け切らぬまま、セシルはリアンの名を呼んだ。リアンはわずかに小首を傾げ、それをそのまま返事に代える。だがセシルは後の言葉をどう続ければいいか分からなかった。ほんの少しずつ、リーザの台詞の意味が自分の中に落ちてくる。リアンは――、リアンは。
「どういうことだ」
 はっきりとした答えが自分の中で形作られる前に、セシルはそう問いかけていた。恐ろしかったのだ、真実を皆まで理解してしまうのが。しかし無情にも、リアンはあっさり言葉を返した。
「そういうこと、よ」
「リーザが言っていたのは、本当のことなのか? つまりお前は」
 リアンはゆっくり頷いた。
「……嘘だろ? だってお前、どう見たって普通の人間そのものじゃないか」
 リアンが「この世ならざるもの」だなんて――。あまりにも笑えない冗談だ。
「お前、『宵迎えの鐘』が鳴る前から、そう、昼間から普通に生活していただろう。『もの』にそんなことはできない。ゾメニパリオンやリーザも人間に近かったが、お前はその比じゃないはずだ」
「私はちょっと、特殊だからね」
 そう言ってリアンは歪んだ笑みを浮かべた。
「もともと私は、イニシアム=ムンディに魔術書の番人として意識的に創られた『もの』なのよ。ムンディの手から魔術書が離れた後で、本が何かに悪用されたり問題が起こったりしないよう、監視するために生み出されたの。その役目を担って、私はこの百年間――ホーテンダリアの街を見守り続けてきたわ」
「百年……」
 リアンの前に、本の担い手は誰もいなかった。この長い時の中で、リアンはずっと一人でここにいたのだ。
「年月は順調に過ぎていった。『もの』はそれぞれの領分を越えてまで存在を主張することはなかったし、たまに住人達に迷惑をかけてしまうようなことがあっても、私がいれば大抵の問題は簡単に解決した。だからこれから先もずっとそんなふうに時が続いていくと思っていたけど。……変わらないものなんてないのね。いつしか私が動かねばならない事件が増えていったわ」
 じわりじわりと、ムンディの魔力の暴走が始まっていったのだ。
「そしてついに、『白の花嫁』のように人の命を奪う『もの』が現れた」
「……」
 リアンはスカートのポケットから小瓶を取り出した。親指でそっと表面を撫で、瞳を細める。
「本当は、『もの』が人を殺め始めた最初の時点でこれを使うべきだったんでしょうね。でも私、できなかった。ムンディの魔術がこの世から完全に消えてしまうのに堪えられなくて」
 それにね、とリアンは呟く。
「なにより私、自分自身が消えてなくなってしまうのが怖かったの。もっとこの街で色んなものを見て、色んな人と触れ合って、普通の人間みたいに過ごしたかった」
 セシルは動けなかった。目の前にいるのが、自分の知っているリアンではないような気さえした。もしくはこれは、夢なのか。
 リアンの瞳がゆっくりと辺りを見渡す。
 ちらほらと星の瞬く蒼い夜だ。背の高い街灯が点々と路地を照らし、模様のようにどこまでも続いていく。風が吹くたび空の蒼が街に溶け込んで、静寂が深まっていく。一直線に連なる家々は、二人を見下ろし息を潜めているかのようだった。
「この街はいい街ね。離れたくないと思ってしまう。きっと、ムンディの魔を優しく受け入れてくれてたからだわ。でも――もうそろそろ、街に全てを返してあげましょう」
 セシルはじっとリアンを見つめた。リアンから目が離せなかった。
「骨董屋の鍵、郵便受けに入ってる。悪いんだけど、私がいなくなったら好きなように処分してくれない? 土地と建物の権利書も一緒に入れてあるから」
「リアン」
「でも、そうね。ゾメニの宿った人形は、せめて捨てずに取っておいてあげて」
「リアン」
「私が突然姿を消したことを不思議に思う人がいたら、遠くで暮らす祖母の世話をするために田舎へ戻ったとでも言ってくれればいいわ」
「リアン……、本気なのか」
 リアンは笑いながら再び頷いた。
「本気よ。私も覚悟が、できたから。これからリーザを捕まえて、少し話をして――」
 そして。
「ホーテンダリアを、眠らせてあげる」
 あまりにも静かなリアンの声に、セシルの心も自然と落ち着きを取り戻していった。
 リアンがムンディの薬を使えば、「この世ならざるもの」は全て消えてなくなる。少し淋しいと思いながらも、それも仕方のないことと思っている自分がいたのに。その中にはゾメニパリオンも、そしてリアンまでも含まれていると知って、途端に納得できなくなってしまうなんて。
 その思いのまま、リアンを止め、薬を奪い、街の外へ投げ捨ててしまうことができれば。しかし気持ちとは裏腹に、セシルはやけに冷静にリアンと向き合っていた。
「ここ数日姿が見えなかったのは、気持ちの整理をつけるためか?」
「そう。この街を隅々まで見ておこうと思って。……セシルと同じ」
 淋しそうに街を眺めるあんたを見かけたわよ、とリアンは笑った。
「ゾメニパリオンも一切反対しなかったのか」
「そもそも相談自体してなかったから。でも、あいつは全部分かってた。ムンディのことも、私のことも、本のことも薬のことも。それでこれまで何も言わなかったんだから、ゾメニの方が私よりずっと覚悟ができてたんだと思う。最後には、あんたを使って力づくの説得までされちゃったしね」
 ちらり、と視線をセシルの右腕に送って。
「……腕の調子、どう?」
「問題ない。もともと大した傷じゃなかったんだ、気にしないでくれ」
 右腕を持ち上げ、拳を作ったり開いたりしてみせる。
「それより今ゾメニパリオンはどうしてる?」
「ここ数日、まるで口を聞いてくれなかったの。いくら話しかけても、本当の人形みたいに黙り込んだまま。さっき家を出るときに、これで終わりにしてくるって言ったら、久しぶりに応えくれて、そうか、って」
 止められないのだな、とセシルは悟った。リアンの声が、姿が、今という時間が、どんどん手から零れ落ちていく。――止められないのだ。
「セシル、何だかんだであなたにはお世話になったわね。感謝してるし、楽しかった。どうもありがとう」
 リアンが右手を差し出した。セシルはその手をぼんやり見つめる。が、やがて息を一つついて自らの手を差し出し、リアンと固く握手を交わした。
(冷たい)
 その手の冷たさがセシルの心に染み渡った。
「リーザの手は私みたいに冷たくなかったんでしょ? 同じ『もの』なのに、ちょっと悔しいわ」
 リアンは苦笑を浮かべた。
「セシルの手、温かいわね」
 触れていた手が離れていく。
「――おやすみなさい」