05.
それ以降、「この世ならざるもの」がホーテンダリアの街に現れることはなくなった。
街は途端に静かになった。
「宵迎えの鐘」が鳴り響いた後も、誰もいない街角から女の歌声が響くことはない。無邪気に走り抜けて忽然と消えてしまう子供の背中も見えない。空き家の窓が独りでに開いて閉まることもない。ただ静かに夜が更け、そして朝日が昇るのを待つばかりである。
まるでホーテンダリアが眠っているようだ、と誰かが言った。
住人達も初めこそ「もの」の沈黙を不思議がり、顔を合わせれば世間話代わりにあれこれと語り合った。有志で調査団が結成され、原因の究明が期待されもした。しかし明らかになるものは何もない。ただ一つ確かなことは、「もの」は最早この街のどこにもいないらしいということだけである。
まあ良かったじゃないか、と言う者もいた。
「もの」は最近人を手にかけるようになったんだ、いなくなった方が安心だろう。それを聞いて、住人達は曖昧に頷くのだ。確かにそうだ、だがしかし……。
住人達のそうした複雑な思いも、時が過ぎるごとに薄らいでいった。
毎日必ず話題に上がっていた「もの」達は、やがて数日に一度だけ語られるようになり。そのうち一週間に一度だけ単語が聞かれるようになり。そしてとうとう、誰の口にも上らなくなった。
「この世ならざるもの」は、遠い思い出の一つになった。流れ星のように、思いがけず誰かの頭をよぎるだけの存在になったのだ。
セシルの日常は、大きく変わったとも言えるし、大して変わらなかったとも言えた。
「もの」が消えた衝撃に包まれた街の中で、自衛団員としてせわしなく過ごす毎日。ひたすら街中を駆け回る日々は、「もの」が消える以前とそれ以後とでそれほど違うわけではない。だが、ふとした拍子にリアンのことが頭に浮かぶと、彼女はもういないのだという事実に愕然としてしまう。頭で分かっていても、それを本当に理解するまで思った以上に時間がかかった。
リアンが姿を消したことは、住人達の間ではそれほど大きな話題にはならなかった。
「もの」がいなくなった当初、人々はまずリアンの名を上げて、彼女に聞けば何か分かるだろうと言った。だが、リアンが長らく不在らしいと聞くと、それ以上詮索する者はほとんどいなかった。――リアンが「もの」を引き連れていったんじゃないか、そんなふうに軽口を叩く者は何人もいたのだが。
骨董屋についてはそのままにしておいた。
街の中心に程近い角地ともなれば、それなりに価値のある土地ではある。しかしセシルにとってはどうにも手に余る存在であった。それに、生活の匂いを強く残すその骨董屋を処分する気にはどうしてもなれなかった。ゾメニパリオンが宿っていた少女の人形もそのまま棚の上に飾ってある。
骨董屋の隣家に住まうジーナが、セシルに尋ねたことがある。リアンは一体どうしたのかと。
その時セシルは、あの晩リアンに言われたとおりに答えておいた。遠くに住んでいる祖母の世話をすることになり、田舎に帰っているそうだ。
――ただし、こうも付け加えておいた。
きっとそのうち帰ってこれると言っていた、と。
セシルがその間の留守を預かっていると聞くと、ジーナは俄然張り切りだした。若い男が住人不在の家の管理をするのは大変だろうから、ここは私に任せなさい。そしてジーナは、定期的に室内の掃除や空気の入れ替えをしてくれている。
たまにセシルも顔を出してそれを手伝っている。掃除の合間、かつてリアンが腰かけていたソファに身を沈め近くの本を手にとると、何とも言えぬ感傷が湧き起こってくるのだった。
・
・
・
――そうして、三年の月日が過ぎた。
ホーテンダリアの街は相変わらずだ。
富んだ者もいれば、貧しい者もいる。笑う者、泣く者、怒る者。悪人、善人。ホーテンダリアは全てを分け隔てなく包み込む。
セシルはその日、後輩の自衛団員を連れて街を大きく一周していた。
他所の街から最近引っ越してきた、エルクという若者である。青年というよりはまだ少年と言うべき初々しさと無鉄砲さを持ち合わせている。
間もなく日の沈むホーテンダリアの見廻りという名目ながら、実際は彼に街案内をしているようなものだった。
「なんかこの街、いいですよね」
エルクはセシルの隣を歩きながら、楽しげに辺りを見回した。
「そうか? 別に普通の街だと思うが」
「なんていうか、活気があります」
まあ確かに、とセシルは内心頷いた。明け方近くまで店を開けている飲み屋なども、他の街にはなかなかないだろう。それに――。
セシルはエルクの頭を軽く小突いた。
「いてっ」
「顔を引き締めろよ」
エルクの視線の先には、目に眩しい鮮やかなドレスを身にまとった少女の二人組がいる。すれ違いざま、少女達はクスクスと笑った。
「すいません。でも、他にも面白いなと思うところがあるんです」
「面白い?」
「セシルさん、信じてくれますかね。こないだの夜、飲んだ帰りに一人で歩いてたら、古の女戦士みたいな格好の美女が現れて、俺に弓向けてきたんです。で、矢を射られて。俺にぶつかる、と思ったところで美女も矢も消えちゃって」
エルクは話しながらその時のことを思い出したのか、興奮で頬を赤くした。
「飲みすぎたんだろ」
「違いますって! 他にもあるんですよ。やっぱり飲んだ帰り、どっかの飲み屋の二階の窓にオヤジが腰かけてて。で、ジョッキ片手に歌ってるんです」
「よくあることだ」
「待ってください、続きがありますから! そのオヤジ、俺に気づいて乾杯って杯上げてきたんで、あんまり酔って落ちるなよって声かけて通り過ぎようとしたんです。そしたら、興ざめだって顔してジョッキの中身俺にぶちまけてきたんですよ!」
今度は思い出して怒りが沸いてきたのか、エルクは口をへの字に曲げた。
「……でも、実際酒はかからなかった。途中で消えちゃったんですよね。オヤジもろとも」
セシルは話を聞いて、苦笑にも似た笑みを浮かべた。それと同時に「宵迎えの鐘」が鳴り響く。
エルクはセシル相手にどんどん話し続けた。きっと他にもそういう面白いスポットあると思うんです、今度またじっくり街を探検します、なにか新しいネタ見つけたら報告します……。
セシルは話半分に聞きながら、歩く自分達の背後に気を配っていた。
先ほどから微妙な気配を感じている。誰かが息をひそめて自分達の後をつけているような。
しばらくはそのまま歩き続けたが、頃合を見計らってついに振り返った。すると「わぁっ」と子供のはしゃぎ声が小さく沸き起こり、バタバタと走り去る足音が通り過ぎていった。
「えっ、なんですか、今の」
エルクはきょろきょろと辺りを見回す。
「なんでもないよ」
うろたえるエルクを置いて、セシルは再び歩き出した。
あれから三年。長いようで短い月日。
街には再び、少しずつ「不思議」が起き始めている。
セシルは思う。
何故今になって、消滅したはずの「もの」達が活動を再開し始めているのか。ムンディの書が力を取り戻しつつあるのだろうか?
そもそも、本はどこへ行ったのだろう。あれから骨董屋をひっくり返す勢いで本の行方を探したのだが、ついに見つかることはなかった。おそらくは「もの」達の消滅と共に本も消え去ったのだ。
それならば――。
今度はムンディの意思ではなく、この“ホーテンダリア自身の意思で”、街に不思議が息づき始めているのではないか。
今はまだ微かな違和感。不思議の存在に気づいていない者も多い。だがきっと、不思議はこれからじわりじわりと広がっていく。やがては以前のようにホーテンダリアの街が活気づくことになるだろう。
そうなれば、いつかリアンが再び姿を現し、あの澄ました笑顔を見せてくれる日がやって来るかもしれない。
それはけして夢物語ではないはずだ。
なぜなら、ホーテンダリアは今再び目覚めたからだ。
この街は、太陽が沈んでもまだ眠らない。いや、宵を迎えてからが本当の目覚めの時――。
――そう、ホーテンダリアは、眠らない。