20.

 軟禁十四日目、テーブルの上にあったレース編みセットは姿を消し、代わりに装飾の立派なクラヴィディアが部屋の一角に据えられた。
 この二週間、一度もレース編みのセットに触れることがなかったからだろう。本もそれ程読み込んでいる形跡がない、というわけで、使用人たちの苦肉の策がこのクラヴィディアということだったのかもしれない。シェリアが隣室のバスルームでゆっくりとくつろいでいるうちに、つつがなく設置は終えられていたのであった。とにかくシェリアを退屈させてはまずい、と、そう考えているのだろうか。おそらく「申し訳ない」のではなく様々な意味で「まずい」のだろうな……とシェリアは乾いた笑みを浮かべ、それから空しくなって息をついた。
 しかし、このような立派な楽器を使用人たちの独断で用意できるとは思えない。もしかしたらこれもアシュートの気遣いなのだろうかと思いあたって、シェリアはそっとクラヴィディアに近寄ってみた。
(……きれい)
 貴族たちの観賞用という役割も担うこの鍵盤楽器は、確かに見ているだけで溜息が漏れるほどに美しい。試しにそっと鍵盤を押してみると、硬質だが繊細な音色が部屋の中に優しく響いた。続けて、二音、三音。不器用なハーモニーだが、それでもシェリアは楽しかった。たとえ弾くことができなかったとしても、クラヴィディアならばシェリアを楽しませるだろう、アシュートはそう考えたのかもしれない。
(やっぱりこれも、仕事の一環だと言うんだろうけど)
 そう考えてから、シェリアは一人苦笑した。仕事もなにも、アシュート本人は、クラヴィディアを見繕ったのが自分であるとすら言ってはいないではないか。一人であれこれ考えて、アシュートの冷たい印象を膨らませているのは他ならぬ自分自身だ。
(仲良くなりたいな)
 ――アシュートと。しかしそれは無理な願いだろうか?自分たちの間に横たわる深い溝を埋めることは、どうしてもできないのだろうか。
(仲良くなりたい、か……)
 どうして自分はそんな風に考えるのか。町娘だった頃の自分なら、アシュートのような地位も教養もある見目麗しい若者とお友達に、などとは、あまりに恐れ多くて夢にも願うことはなかっただろう。ましてや、それ以上の関係に、などとは望むべくもない。それに、もし万が一本当に仮定の話として、アシュートと仲良くなることができたとしても、その先に待っているのは逃れようのない別離のみだ。なのに何故、自分は……。
(やっぱり、シェリアスティーナの目線に近づきすぎているのかもしれない)
 以前ライナスが言っていた。あまり自分とシェリアスティーナを同一視するな、と。確かにその通りだとシェリアも思う。しかし、のめり込まねばとてもやっていけそうにないのだ。自分はそんなに強くない。この身を他人のものと意識していては、最期の時が来るまでに壊れてしまいそうで恐ろしい。そうはならないように、無意識のうちにシェリアスティーナそのものとして感情が動いてしまうのであろう。
 ふう、ともう一度息をついて、シェリアはクラヴィディアの前にきちんと座った。
 いけない。また、色々と考えてしまう。
 この軟禁生活、わけもわからずただ波に流されていたような日々とは違い、まさに平穏そのものをシェリアに与えてくれた。しかし同時に、精神的な負担と戦わねばならぬ生活でもあった。ふとした瞬間に自分自身のことについて深く考えてしまって、どうにもいけない。考える程にこの身が恐ろしくなるというのに――。
 気分を紛らわせるため、シェリアは鍵盤に両手を添えた。ただの庶民には、このような贅沢な楽器をたしなむ習慣などない。どう頑張っても上流階級の家庭でなければ手の出せぬ楽器である。しかしシェリアは、ただ一つだけ、クラヴィディアのための曲を覚えていた。――実家近くの教会にあったクラヴィディアが大好きで、幼い頃からいつも足を運んでいたのである。そこで聴いた曲をいたく気に入り、頼み込んで弾き方を教えてもらったのだ。基礎すら知らぬ幼い娘が弾くにはあまりに難しい一曲ではあったが、長い長い時間をかけて熱心に練習を重ねた結果、この曲だけは体の芯が覚え込む程上手になった。
 シェリアは目を瞑り、そっと指を滑らせ始める。
 まるで天から光が降り注ぐような、希望に溢れた美しい曲。

 ――そうして一通り演奏を終えた頃、シェリアはゆっくりとまぶたを開いた。
 いつもこの曲は自分にとっての清涼剤のようなもの。弾き終えた頃には、胸の中に支えていた苦しみが消えていくような気がする。シェリアはしばらく鍵盤に指を置いたまま曲の余韻を味わっていた。
「――美しい曲ですね」
 と、突然背後から声をかけられ、シェリアは文字通り飛び上がった。心底驚いて振り向くと、いつの間に入ってきたのかアシュートが落ち着いた表情でシェリアのすぐ後ろに立っている。
「びびびびっくりした……」
「私に気付いておられませんでしたか?一応、ノックをしてお声をおかけしてから入ったのですが」
 しれっとした様子でアシュートは答えた。「ただ無視されているのかと思いました」
「気付いてたら返事くらいするよ!――それで、ど、どうしたの?何かあったの?」
「いえ、お一人で不自由しておられないかと思いまして。何か足りないもの等ありませんか?」
 そういえば、アシュートは二日に一度ほどの割合で様子を見に来てくれている。今回も様子見というわけなのか。
「平気だよ。ありがとう」
 ちょっとは不自由しなきゃ意味がないんだってば、とシェリアは心の中で反論してから、ふと目の前のクラヴィディアのことを思い出した。
「あ、そうだ、このクラヴィディア……わざわざ用意してくれてありがとう」
 高かったでしょう、と口走りそうになって、シェリアは慌てて唇を結ぶ。
「お気に召していただけたなら幸いです。――記憶は無くされても、クラヴィディアの指使いは憶えておられたのですね」
「え、と。まあ……」
「以前のあなたも、よくクラヴィディアを弾いていたと聞いております」
「そうなんだ」
「しかし今の曲は、全く聴いたことがありません。有名な曲ではないのですか」
「うーん、なんていうタイトルだったかな……。ちょっと分からないや、ごめん。でも私、この曲すごく好きなの。一番好き。聴いてると、心が洗われるっていう感じがして」
 そこまで朗々と語って、ハッとシェリアは固まった。――アシュートは、自分がこの曲を好きかどうかなどに興味ないに決まっている。それに、とんでもない悪女が「心を洗う」って、なんだそれと思われたに違いない。愚かなことを口走ってしまったものだ。
 しかしそこでまた、シェリアは考えを改める。――そういえば、先ほどアシュートもこの曲を「美しい」と言っていたではないか。互いに美しいと思うものについて語り合って何が悪い?そう、自分はアシュートともっと仲良くなろうと決めたのではなかったか。いつまでも逃げ腰ではそれも叶うはずが無い――。同じものを同じように美しいと感じられる。それは、とても尊いことではないか。
「ねえ、アシュート」
「はい」
「私たち――結婚するんだよね?」
「――は?」
 突然の話題転換に、アシュートは呆気に取られたように目を見開いた。かくいうシェリアも、そんなことを言い出した自分自身に密かに驚いている。
(でも、ちゃんと話し合わなきゃいけない問題。目を逸らしていては駄目だ。二人で、真正面から向かい合わなきゃ)
「突然ごめんなさい。でも、全然そういう話してないなぁ、と思って」
「……今更確認されるまでもないことでしょう。互いに、生まれたときからそうと決まっていることなのですから」
 しばらくは言葉が出てこない様子だったが、気を取り直したのか、アシュートは静かに答えを返してくれた。どこか諦観の入り混じったような、静かな声である。
「――う、うん」
 なんだか微妙に切ない返事だ。決まっていなければ、誰がお前となど結婚するものかと暗に言われているような気がしてしまう。無論、実際その通りなのであろうが。
「あなたの二十歳の誕生日が、結婚式の日取りとなる予定です」
 そういえばあの歴史本にもそういう記述があったような。――とすると、現在シェリアスティーナは何歳なのだろう?基本的なことだが、それ故に誰も教えてくれなかったので、未だにシェリアは我が身の年齢すら分かっていない。
「……ちなみに、あと十ヶ月ほどで誕生日を迎えられますよ」
 シェリアの苦悩の表情を読み取ったのか、アシュートが静かに付け加えた。
「――え!!十ヶ月!?うそっ!」
「……嘘ではありません」
 あと十ヶ月でアシュートと結婚。それは全く思いもよらなかった事実だ。確か、天使アンジェリカは半年から一年くらいシェリアスティーナとして過ごすことになるだろうと言っていた。――ならば、十ヵ月後というのも十分範疇に入り得るではないか!
「何か不都合でも?」
「いや、不都合って……そりゃ不都合といえば不都合なような……」
 思わず呟いてしまってから、余計なことを言ったと気付く。シェリアがそっと顔を上げると、不機嫌そうなアシュートと目が合った。
「あ、いや、えーと」
 どうも今日は余計なことばかり口にしてしまうようだ。
「あの、ほら。――だ、だって、このままじゃ結婚なんてできないなぁって、アシュートも思わない?」
「どういう意味ですか」
「私たち、こんなにいがみ合ってる。これじゃ結婚なんてしても、お互い幸せになれないよ」
「幸せに?――あなたの言う幸せとは、なんですか」
 うっ、と言葉に詰まる。それは、どういう意味の質問だろう。一般的な幸せなの概念を問うているのか、それとも「お前の幸せといえば人を殺してその血で体を洗うとかそんなことだろう」といった皮肉を表しているのか。――後者だとしたら流石にどうにも切り返せないので、シェリアは前者の意味に取ることにした。
「色々あるだろうけど、そもそも結婚って、愛する人同士がするものでしょ?」
「全ての結婚がそうとは限りません。特に、上流階級では政略結婚など日常茶飯事です」
「それは、分かってるよ。だからその、愛し合うのは無理だとしても、一緒にいて落ち着くなーとか、せめて辛くないような関係が……」
「あなたはあまりにも市井に慣れ過ぎましたね」
「え、」
 あまりに突然話題を変えられて、シェリアは瞠目した。
「もっと早くに発見されて、王宮に迎えられるべきでした。十四まで町で暮らしていたために、下々の民たちの感覚が抜け切らぬのでしょう。記憶を無くされてから、今まで以上に平民のような振る舞いをされているように見受けられます」
 つまり田舎臭いということだろうか。もはや本性バレバレではないか。
「別に、王族だって幸せな結婚したっていいじゃない」
「それはいいでしょうね。そうできれば何よりでしょう。しかし、できずとも結婚せねばならないものはならないのです」
「もう諦めてるってこと?私たちの結婚を。でも、まだ十ヶ月もあるんだよね?それだけ時間があるんだったら、努力しようよ」
「努力?一体、これ以上何の努力をしろというのです。私はあなたとの結婚を拒まないという努力を、ずっと続けてきましたよ。その上にまだ、あなたを許す努力をしろと?そのようなこと……」
「私も、努力するよ!アシュートに許してもらえるように……努力するから」
「結構です。そのような努力は、しても無駄だと思いますよ。どうせならば、私には深く係わらぬよう努力していただきたい」
「そんな――だって、私たち、結婚するのに」
「形だけのことです。あなたの十五歳の誕生日、私たちは婚約の儀を交わした。そして二十歳になれば、結婚の儀を行う。そうすればこの国は長く安泰――それだけのことです」
「そ、そんな考え方、嫌だよ!」
「あなたには理解できないかもしれませんね。生まれた時から、国のためにあれと言われて育った者の考え方など」
「そんな……」
「しかし私にもまた、あなたの考えが解りかねます。――あれだけの仕打ちをしておきながら、なぜ今更私と打ち解けようなどと思うのか」
 その言葉には、シェリアも反論できなかった。彼の様子を見ていれば、とても許されないようなことをしでかしたのだろうということは嫌でもわかる。しかし一体どんな仕打ちをしたというのか。思わず問いかけたくなるが、それだけは絶対に許さないというアシュートの強い拒絶を感じ、シェリアは言葉を飲み込むしかなかった。
「……申し訳ありません、あなたのご様子を伺うだけのつもりでしたが」
 居心地が悪そうに、アシュートはふっと視線をそらす。その動作を見てシェリアは唇を噛みしめた。――仲良くするつもりなどない。それどころか、話し合いをするつもりもない。瞳を合わせるつもりもない。完全な拒絶――。
 でも、諦めたくない。
 今ここで諦めてしまったら、一緒に何か大切なものまで零れ落ちて行きそうで。
 諦めない。
 シェリアは低く、己に言い聞かせるように囁いた。