23.

 清めの間から程近い訓練場は、穴場とも言える場所だった。
 それ程広くもなく、特別な施設があるわけでもないが、やってくる人の数が非常に少ない。聖女が頻繁に足を運ぶ回廊を通らねばならないため、身分ある騎士たちでも自主的に立ち入りを控えているのだ。実際のところ、この訓練場を使用しているのはアシュートや騎士団長、それに副長のジークレストくらいのものだった。
 今もアシュートは一人、無人の回廊を訓練場へ向かって歩いている。
 しかし剣の訓練を行うためではない。とある人物と秘密裏に手合わせを行うためだ。

 簡素な訓練場の扉を開けると、中には既に先客がいた。イーニアスである。
 彼はひどく緊張した面持ちで直立し、微動だにしていなかった。アシュートの姿を認めて素早く一礼すると、また元の形に戻る。
「君がイーニアス=ノア=ディルレイだな」
 アシュートも鋭い声で相手の名を確認した。今日は一個人としてこの場へ来ているのではない。王国の第一神聖騎士としてここにいるのだ。それを相手に暗に知らしめようとする意図があった。
 対するイーニアスもそれは十分心得ている様子である。一分の緩みも無い引き締まった表情で、短く肯定を返す。
 ――もう何もかも理解している顔だな。頭のいい男らしい。
 アシュートは初めて面と向かい合ったこの青年を、そう評価した。何も知らされていないはずである。しかし怯(ひる)む様子も混乱する様子も無く、静かに自分の目を見返してくる。並の度量ならばこうは行くまい。
「忙しい中、突然呼び出してすまなかった。手早く用件を済ませよう」
 それだけ告げると、アシュートはスラリと長剣を鞘から抜き去った。
「君の実力を知りたい。私の相手になってもらう」
 はっとして、イーニアスも己の剣に手をかける。それを見届けてから、アシュートは有無を言わせず相手の懐に飛び込んだ。
 十分に反応できる時間を与えてやった。大きなモーションで剣を振り上げ、緩慢に振り下ろす。イーニアスは剣を抜きざまそれをしっかり受け止めた。しかし胴ががら空きだ。このまま剣を引きざま横に薙いでやれば、確実に相手を二つに斬り裂くことができるだろう。アシュートは一瞬のうちにそう判断したが、あえて一歩後退した。なにも相手を殺すことが目的ではないのだ。
 間合いを取った状態で、イーニアスは苦しげに顔を歪ませた。「なぜ引いた」とその表情が訴えている。イーニアス自身も、今しがたの自分の隙ですでに決着がつくはずだったと理解しているのだろう。
(あの一瞬を正しく判断できているなら、剣を使えぬ男ではない)
 今度は先程のような手加減は無しに、一気に踏み込み下から斬り上げた。が、上手いタイミングでこれも受け止められる。そのままイーニアスは素早く後ろに飛びのいて、距離を保とうとした。
 しかしアシュートは待たない。更に踏み込み、自分の間合いで鋭く剣を繰り出す。体勢の整っていないイーニアスは、左足を浮かせたまま不自然な状態で身体を傾け――
(避けられまい)
 そう、思った。己の剣がどのようにイーニアスを貫くか、すでに瞼の裏には見えている。
 だが。
 ――アシュートの剣は完全に空を切った。
 その刹那。
 アシュートは頭の中に一閃を感じ、振り向きざまに感覚のまま剣を動かした。
 ギインッ、刃と刃のぶつかる鋭い音。
 イーニアスの一撃だ。あの体勢から攻撃を避けただけではなく、一瞬でアシュートの死角に回りこんで反撃をしてみせたのである。
(こいつ……)
 イーニアスはなお振り下ろした手を緩めようとしない。アシュートが片手で剣を構えているのを隙と見て、この鍔迫り合いを力任せに押し切ろうというのだろう。だがアシュートは、この体勢で張り合うつもりなど毛頭なかった。剣を持つ手をわざと引いて、しかし身体は既にイーニアスの横に回っている。イーニアスはすぐさま目でアシュートを追った。が、身体の方が追いつかない。
(遅い)
 心の中で一喝してやる。それ程の余裕がある。
 そしてアシュートは手元を正確に狙った。ガッ、と鈍い音がして、イーニアスの剣が飛ぶ。
「――!」
 イーニアスは手元を離れた剣の行方に一瞥をくれた。が、すぐさまアシュートに視線を戻す。揺るぎない瞳。遠くでガランと剣の転がる音がしたが、そちらにはもうちらとも視線を寄こさなかった。
(動揺が少ないな)
 両手ががら空きになった状態で、なお集中力は途切れていない。これが手合わせであるからには、もう決着は着いたとイーニアスは分かっている。しかしこれが殺し合いであるならば、まだ彼は決して諦めやしなかっただろう。
(だが)
 それでも、これは飽くまで手合わせに過ぎないのだ。
(殺し合いなら、私とて剣を飛ばすだけでは済まさなかったさ)
 アシュートは剣を鞘に収めた。瞬間、張りつめていた空気がいくらか和らいだ。

「完敗です」
 悔しげにイーニアスは呟いた。おそらく彼とて、初めからアシュートに勝てるとは思っていなかったであろう。しかし同時に、ここまであっけなく決着がつくはずではなかったという思いがある。完全に己の力量不足と分かっていて、それでも悔しいものは悔しいらしい。ジークレストが言っていた通り、一本気な男のようだとアシュートは思った。
「まだまだだな」
「……はい」
 イーニアスはぐっと拳を握り締めた。自分の不甲斐なさに我慢がならないのか。それとも、これからアシュートが告げる言葉を受け止める覚悟をしようとしているのか。恐らくはその両方かもしれない。
「……なぜ、私が君を呼び出し、突然剣を向けたか分かっているか」
「分かっているつもりです」
「そうか。なら、今私が言わんとしていることも分かっているだろう」
「――はい」
 イーニアスは伏せていた顔を上げて、真っ直ぐアシュートを見据えた。
「この程度の剣の腕でシェリアスティーナ様の護衛を務めたいなどと自ら申し上げること、身の程知らずもいいところだと自覚しております」
 アシュートは頷いた。そう、この言葉をイーニアスに言わせたかったのだ。こちらから積極的に護衛の件を白紙に戻すことができないのであれば、イーニアスの方から辞退させるしかないと踏んだ。今のシェリアスティーナならば、あるいは、咎めなど無しにイーニアスの辞退を承諾するかもしれない。
 しかしアシュートは、思い描いていた通りの言葉を耳にしても「満足」とは程遠いところに自分の気持ちが漂っていることを感じていた。
 自ら剣を交えたのが良くなかったか。僅かな時間ではあったが、剣を通してイーニアスの真剣な気持ちが流れ込んできてしまったのである。このような形でイーニアスの気持ちをへし折ってしまってもいいのだろうか?家のためにはなっても、彼自身のためにはならないのではないか?今更そんな思いが頭をもたげてしまう。
「ですが、アシュート様」
 イーニアスは尚も口を開いた。声をかけられるままに顔をあげて瞳を見れば、その輝きは失われていない。――ああ、この男はまだ諦めてなどいないのだな。それが分かって、アシュートは多少安堵してしまった。
「私は、己の剣に自信があるからと、このような申し出をしたのではございません。シェリアスティーナ様をこの手でお護りしたいと、ただそれだけの思いなのです」
「何故そう思う?」
「……」
「おかしいだろう。筋が通らない。一体、聖女が君に何をもたらしてくれたというんだ?与えられたのは、絶望と憎しみの心だけだろう」
 純粋に、ただ不思議でならなかった。剣を手にして、それでシェリアスティーナを護りたい?その剣を向ける相手こそシェリアスティーナではないのか。少なくとも今の自分は、恐ろしくて彼女の前で剣を握ることなどできない――犯してはならぬ過ちを犯してしまいそうで。
 そんな彼を見返すイーニアスの瞳には少しの曇りも見られなかった。馬鹿な男ではないのだ。見れば分かる。剣を交えれば分かる。しかし分からないのは、何故このような男が聖女を心から信頼しているかということだ。信頼……もはやそのような言葉では生ぬるいかもしれないほどに。
「……自分でもよく分からないのです」
 イーニアスは戸惑いがちに口を開いた。
「しかしホリジェイルの中、あの極限状態に共に身を置いて、偽りのないシェリアスティーナ様の深い部分に触れることができました。特別、あの場で何があったというわけでは無いんです。自分でも本当に分からない。ただ……あの時、私はあの方にひどく心を打たれました。それまでの恨みや憎しみも全てかき消されてしまうほどに」
 かき消されたりするものか。柄にも無く、アシュートは声を荒げて反論したい衝動に駆られた。憎しみというものはそう簡単に浄化することなどできやしない。心の暗い暗い部分に巣食って、人を蝕んでいくものだ。だから苦しいのではないか。こんなにも。
「アシュート様、どうかお願いいたします。シェリアスティーナ様の護衛につくことを、お許しください。毎日剣に励み、相応しい力を身につけるため精進いたします」
「しかし」
「このことで今後何があっても、絶対に後悔はいたしません」
「――待て。シェリアスティーナは危険だ。今は確かに穏やかに見えるかもしれない。だが、それが彼女の本性だと考えてはいけない。いつかまた、裏切られる日が来るぞ」
 いいえ、とイーニアスは言い切った。
「私は、かつてのシェリアスティーナ様も今のシェリアスティーナ様も、全て包んでお慕いしています。本性がどうなどと考えるつもりはありません。今後何があっても、受け止められると確信しているのです。私はこの身ある限り、シェリアスティーナ様にお仕えしていくつもりです」
 ――この男の気持ちは、覆せない。
 アシュートは悟った。
 しかし別のところで、強烈な違和感を感じて戸惑ってしまう。
 かつても今も――全て包んで?
 シェリアスティーナの憎むべき部分と愛すべき部分を区別しろと――違う、そうではない。そんなことが言いたいのではない。彼女は元から別々なのだ。否応無く、別でしかありえない。一つにまとめてしまう事など、元より不可能だ。
 別々――、別の、人間。
 不意にそうした結論に達して、アシュートは愕然とした。――別の人間?いや、自分は何を考えているんだ。
 頭の中を掠めた影を急いで追い払う。ざわり、と胸の中を嫌な風が吹き抜けて行ったが、それも忘れてしまうのが良いだろう。
「……アシュート様?」
「ああ……、なんでもない」
 目を閉じよう。聖女と向かい合ってはいけない。聖女の言葉を深く考えてはいけない。でなければ、いつか足元をすくわれてしまう。今度倒れてしまったら、再び立ち上がることができないかもしれない――あの時のようには。
 いつの間にか口の中がからからに渇いていることに気がついて、アシュートはごくりと唾を飲み込んだ。
 その音が、やけに耳に響いて聞こえた。