53.

 翌日、イーニアスの提案で、シェリアはセルミナ畑へ足を運ぶことにした。
 昨日はあれから食事もまともに摂れないほど混乱してしまった。夕食中に落としたフォーク、計四本。料理人には申し訳ないが、なにを口にしたのかもまるで思い出せない。
 そんなシェリアの様子を見かねたのは、恐らくナシャやカーリンだ。ちょうど花畑の話題が出ていたことを思い出し、イーニアスにシェリアを誘ってはどうかと提案したのだろう。
「具合が優れないのですか」
 花畑までの道すがら、イーニアスがシェリアの顔を心配そうに覗き込んだ。
「ううん、そんなことない。大丈夫」
「……昨日、アシュート様とお話をされたからですね」
 ぎくり、とシェリアは大きく肩を揺らした。
「どんなお話だったのかは分かりませんが、シェリアスティーナ様にはお辛い話題だったのではないですか」
「違うよ。それは違う」
 アシュートの名誉のためにもしっかり断っておかなければならない。アシュートはシェリアのために剣まで捧げてくれたのだから。
 だがイーニアスは、単にシェリアがアシュートをかばっているものと受け取ったらしい。
「なんの力にもなれず申し訳ありません」
「待って、イーニアス。本当に違うんだってば。アシュートもイーニアスと同じように、私のことをちゃんと考えてくれてる。私が悩んでるように見えるなら、それはもっと別の話なの。私自身についての問題というか。だから誰のせいでもないんだよ。イーニアスも気に病んだりしないで」
「……アシュート様は、本当にシェリアスティーナ様のことを考えて下さっているのでしょうか」
「きっとね」
「シェリアスティーナ様はお優しいから、そうお考えになるのではないですか」
「そんなことない」
「なにかに悩んでいらっしゃるなら、どうぞ話してください。あまり力にはなれないかもしれませんが、話すだけで気分も軽くなるかもしれませんから」
「うん、ありがとう。でも大丈夫だから」
 突然イーニアスは困ったような、憤ったような表情でシェリアに顔を向けた。前を向いて歩いていたシェリアだったが、その強い視線に否応なく引きつけられる。
「シェリアスティーナ様は、全くご自身のことを話されませんね」
「え……、そうかな」
「俺はもっとシェリアスティーナ様のことが知りたいんです。なのにシェリアスティーナ様が話されるのは、いつも誰か他の人のことばかり。ご自身のことは、俺には話していただけませんか。他の者になら話せるのでしょうか? 例えば、ネイサンとか。大切なときにシェリアスティーナ様のお側にいるのは、いつも俺ではなくネイサンのような気がするんです」
 熱を含んだ眼差しで、イーニアスはシェリアをじっと見つめた。その熱とは裏腹に、状況は冷静に見極めているようだった。今も、そうだ。きっとイーニアスは、こうして心情を吐露したところでシェリアを困らせるだけだと分かっている。それでも押さえられない、口にせずにはいられない気持ち。
 その気持ちがなんと呼ばれるものか――今のシェリアにはおぼろげに分かる気がした。
「アシュート様ならばどうですか。色々とご相談されているのですか」
「それは……」
「俺にはアシュート様のお考えが分からないんです。あの方はずっとシェリアスティーナ様に辛く当たってこられた。それなのに、結局いつもあなたの側にいらっしゃる。俺には、それがお二人のためになるとは思えないんです。いがみ合うために側にいるのなら、お互い辛いだけではないのでしょうか」
「私は」
 口を開きかけて、シェリアは止めた。続ける言葉を見つけられなかったのだ。
 確かに傍から見れば、シェリアとアシュートはいがみ合っているようにしか思えないだろう。お互い極力顔を合わせないよう気を使い、たまに話すことがあれば決まって事務的なことばかり。どう転んでも仲のいい婚約者同士とは評価できまい。
 しかし、そんな状況がただ続いているわけではない。太陽が動くよりもなお遅い速度で、ほんの少しずつ、二人の関係は変化を遂げているのだ。そう、今では、初めの頃よりずっとアシュートという人を近くに感じている。
(だからこそ、そんな自分の気持ちが怖い)
 まもなく見慣れた花畑に辿り着いた。相変わらず健気に美しく咲き誇る花々は、いつ来てもシェリアの心を和ませてくれる。どんなドレスや宝石よりも鮮やかな七色の海。赤い花も青い花も、黄色い花も紫の花も、自らの存在だけを主張せずに、仲良く集まり咲き誇っている。
 しかし今回はそれだけではない。花畑の向こうに、初めて見る風景が広がっていた。
 雪が降り積もったかのような、真っ白な花の絨毯。天使の羽が地に舞い落ちたかのよう、と表現してもいい。穢れを知らぬセルミナの白が、シェリアの瞳いっぱいに飛び込んできた。
「見て、イーニアス。すごく綺麗」
 シェリアはセルミナ畑を指差し、感嘆の声を上げた。イーニアスは苦笑しながらも頷いて、それ以上アシュートの話を持ち出すことはなかった。故意に話を打ち切ろうとしたわけではないが、結果的には変わらない。セルミナ畑に助けられたとシェリアは思った。
 以前来た時はなにもない平地だったその同じ場所に、今は地面も見えないほどに白い花が咲き乱れている。この短期間でこれほどたくさんの花が咲くことなど、普通ではあり得ないだろう。やはり聖女シェリアスティーナの能力が影響を与えているのかもしれない。
「こんなに咲いたんだ」
 向こうに、人影が見える。おそらくロノだ。その小さな影を目にしただけで、シェリアは胸にこみ上げてくるものがあった。
「イーニアス、ちょっとあの人と話してきていい?」
「あの人は?」
「王宮の庭師だよ。前から何度か、ここで会ったことがあるんだ。多分、セルミナ畑を復活させてくれたのもあの人」
 イーニアスはわずかに目を細め、人影を注視した。
「俺もご一緒します」
「イーニアスはここで待ってて。大丈夫、あの人は私に危害を加えるような人じゃないから」
 勝手な言い分だと思いながらも、シェリアはなんとかイーニアスを説得した。ロノには色々と相談したいことがある。もちろん一介の庭師にアシュートの妹云々とストレートに打ち明けることはできないが、それでも少しでも話を聞いてもらいたかった。その場にイーニアスがいれば、きっと多くを悟ってしまうだろう。そうでなくとも、後々詳しい説明を求められるかもしれない。
「ごめんね、なるだけ早く戻るから!」
 まだなにか言いたげなイーニアスの視線を背中に受けながら、シェリアはロノの側へ駆け寄った。

「ロノさん、こんにちは」
 慌てたように駆けてきたシェリアを見上げ、ロノは別段驚いた様子もなく腰を上げた。
「ああ、どうもこんにちは」
「花、すごいですね。いつの間にかこんなにたくさん咲いていて、びっくりしました」
 シェリアの言葉を受けて、ロノはゆっくりと花畑を見渡す。
「一つ咲き始めたらあっという間ですよ。ここまでの勢いとは、ちょっと思いませんでしたけど」
「でも、よかったです。またこうして花が咲いてくれて」
「あなたが喜んでくださるのなら、花もますます自信を持って咲くでしょうね」
 シェリアは素直に頷いた。もう二度と、焼き払うようなことはしたくない。――して欲しくない、いつか戻ってくるシェリアスティーナにも。
「少し疲れているようですが、どうしました?」
「……分かります?」
「分かります」
 ロノはなにもかもお見通しだ。
「その、うまくは説明できないんですけど。色々考えてしまうことがあって」
「考えすぎはよくありませんよ」
「そうですよね。でも、私、なにもできないから。動くことができないので、考えることくらいしか」
 ふうむ、とロノは軍手をはめた手で顎ひげを撫で、考える様子を見せる。
「例えば、反聖女派の動きについて考えているとか」
「そ、そこまで分かるんですか?」
「この間衝突があったばかりですからね。その後にあなたがなにか悩んでいるというのなら、無関係ではなさそうだと思ったのです」
 そう言われればそうか。ロノがすごいというだけではなく、自分が分かりやすすぎるのだろうか。
「あなたが追放したミリファーレ様の件も、絡んでいるでしょう」
「……」
 いや、やはりロノが鋭すぎるのだとシェリアは自らの考えを否定した。
「実はね、ミリファーレ様が反聖女派に匿われているのではないかという噂は、私ども下々の方まで流れてきているんですよ」
「噂になってるんですか」
「この王宮では、大抵のことは噂になります。しかも、どんな話題についても、必ず数通りの噂ができあがっているもの。ミリファーレ様に関しても、無事に暮らしているとか娼館で働いているとか色々言われていますよ。ただ、今のあなたの様子を見ていると、今回の反聖女派の動きと絡んでいるのではないかなと思えたわけです」
「ロノさん、占い師も向いてそうですよ」
 シェリアは力なく笑った。
「私のせいでこんなことになったんです。でも今更、止める方法も、償う方法も分からない。なにかしたいと思っても、できることはないからと言われてしまって」
「それは、そう言った者が正しいでしょうね。本当にそこまでの事態に発展しているのなら、あなた一人でどうにかしようとすると、余計に事態を混乱させかねない」
「はい……」
「自分が原因だと思うなら、待つだけというのは辛いでしょう。ですがここは、耐えるところだ。もう少し事態が進展すれば、あなたにもできることが見つかるかもしれない」
「た、例えば?」
 縋りつくように迫るシェリアに、ロノは苦笑した。
「そこまでは分かりませんよ。私は予言者ではありませんから」
「そ、そうですよね、ごめんなさい」
「今できることがあるとすれば、アシュート様と話し合うことではないですかな。ミリファーレ様が反聖女派に回ったことで一番傷ついているのは、きっと肉親である彼だ。彼がこの件に関してあなたをどう思っているのか、話をして、それがどんなものであれ、受け止めることが必要なのでは」
 シェリアは心臓が跳ね上がる思いがした。アシュートとは、この件について昨日話し合ったばかりである。アシュートの方から足を運んでくれて、ミリファーレの件を怨んではいないと言ってくれた。その件に関してだけではない。アシュートはもう、自分のことを憎まない、と。
(アシュートに言わせてしまった)
 気まずさのあまり、シェリアはアシュートを避ける気持ちでいた。そこをアシュートは追ってきてくれたのだ。本当ならば、ロノの言うとおり、自らアシュートのところへ向かい話をするべきだった。激しい憤りと拒絶の言葉を投げつけられたとしても、それを甘んじて受け入れる覚悟が必要だったのだ。それなのに、逃げてしまった。
(償う方法が分からないだなんて。ちゃんとあったじゃない、私にもできる最低限のことが)
 それすらしなかった自分に、アシュートは穏やかな言葉をかけてくれた。そして自分は――それを拒絶するような答えしか返すことができなかった。
(私って、本当に最低だ)
 しかし、手放しで喜んで受け入れてしまえるほど簡単な話でもないのも事実だ。自分が本当のシェリアスティーナでない以上、アシュートと近づきすぎるのはあまりに危険だと今なら分かる。それなのにアシュートは、シェリアを許すと言ってくれた。その上、これからはシェリアを護ると、はっきりそう言って。
 髪を撫で、頬に触れた。
(うわああぁ)
 思い出すと頭から湯気が出てきそうだ。これから互いに取るべき距離感について考えようとしても、そのことを思い出すと一気に思考が吹き飛んでしまう。どうしても、あの時のアシュートの指の感触が蘇ってしまうのだ。少しためらいがちに、優しくシェリアに触れた、くすぐったい感覚。
 きっと深い意味なんてない、ないに決まってる。そう自らに言い聞かせようとするが、どうしても気持ちが暴れてしまうのだ。
「お若いというのは、いいですねえ」
 黙りこんだシェリアを観察していたらしいロノが、面白そうにそう言った。
「えっ?」
「アシュート様のことを考えていたのでしょう。やはり、うら若い娘さんが悩むといえば、恋の話が一番いい」
「こっ、恋!?」
 とんでもない単語を耳にして、シェリアは思い切り動転した。心臓が跳ね上がるどころか、口から飛び出るのではないかと思うほどだ。
「年頃の娘さんが顔を赤くしたり青くしたりして悩んでいるとなれば、恋話に決まっています」
「こ、恋……ですか」
 激しく動揺したのも束の間、気持ちは急速に落ち着いていった。きっと、分かっていたから。こうしてロノに言い当てられる前から、自分の中に潜んでいたこの気持ちに、本当は気がついていたのだ。
 そうか、とシェリアは妙な気持ちで納得した。しかし――、できることならばこの言葉には最後まで気がつかずにいたかった。気づくことは身を裂くことと同じ。叶わぬ想いなら、そのまま胸の奥で眠っていて欲しかった。
「どうしてそう浮かない顔になってしまうのです? お二人は、将来を誓い合った仲でしょう」
 ロノが不思議そうにシェリアの顔を覗き込んだ。さすがの彼も知りはしない。“この”シェリアとアシュートが、決して結ばれることがないという事実を。
「ミリファーレ様のことなら、例え今はそのことで距離ができてしまったとしても、時間をかければきっと分かり合えるはずです。あなたとアシュート様ならば。あの方も、長く苦労をして来られたようですから。早く幸せな家庭を築くことができればいい」
 ロノは、なかなか身を固めようとしない息子を心配する父親のような口調になっている。
「アシュート様は早いうちに両親や親族を亡くしたことで、後ろ盾をなくした丸裸の状態になってしまった。そのため、第一神聖騎士である資格を問われ、一時は真剣に降格が検討されたそうなんです」
 そんな過去があることを、シェリアは知らなかった。本当にアシュートは、シェリアには想像もつかない色々な過去を背負っている。
「だが、ご存知のように、彼は騎士としてとてもできた人物ですから。なにより国王の強い希望があったとかで、結局はそのまま何事もなく終わったのです。だが、未だに彼に対する反発もくすぶっている。だからこそ、早くあなたが二十歳を迎え、無事結婚してくれればいいと思ってしまうのです」
 ロノは無邪気な顔で笑った。シェリアも笑顔を返したつもりだが、きちんと笑えていたかは分からない。
「少し話しすぎました。老人の戯言につき合わせてしまいましたね」
 ロノはシェリアに優しく微笑んでから、その後方へ顔を向けた。
「一緒に来た方がじれったそうにしていますよ。もう戻った方がいいでしょう。また今度、ぜひ話し相手になってください」
 シェリアが振り返ると、イーニアスがこちらに近寄ろうとしてためらっているのが見えた。自らと葛藤しているのがありありと窺える。
「ロノさん、本当にまたお話聞きに来てもいいですか?」
「もちろん。私はいつでも、ここにいますよ」
 ロノの深い笑顔に、シェリアはほっと安心する。いつでもここにいるという彼の言葉が、じわりとシェリアの心に染み入った。