69.

 翌朝、シェリアは窓から射す日の光の眩しさに目を覚ました。
 ああ、朝だなとぼんやり思うが、どうにも身体を起こす気になれない。手も足も重くて、このままずっとベッドに沈んでいたい気分だ。
(寝過ごしたかな……)
 気づけば、朝というにはかなり日差しが強い気がする。恐らくもう昼近いのではないだろうか。いつもならば侍女が起こしに来てくれるが、今朝は自分を気遣って寝かせたままにしたのかもしれない。
(早く起きなくちゃ)
 そう思いながらもシェリアはベッドから動けなかった。昨日の疲れがまだ尾を引いているのだ。肉体的な疲れなのか――それとも。
(あー、アシュートに会いたくないな)
 昨晩アシュートと喧嘩別れをしたことを思い出し、シェリアは憂鬱な気分になった。厳密に言えば「喧嘩」をしたわけではないし、あの後きちんと部屋まで送ってもらったから、そのまま「別れ」たわけでもない。しかしシェリアには喧嘩別れという言葉が一番しっくりくる気がした。
 やはりアシュートには全てを包み隠さず話すべきなのだろうか。
 このまま誤魔化し続ければ、きっとますますアシュートを傷つけることになるだろう。全てを告白したところで未来が変わるわけではないが、それでもアシュートを欺いたまま別れを迎えるよりはましかもしれない。
 それとも、そんな考え自体が自分に都合のいい思い込みに過ぎないのだろうか?
(……起きよう)
 シェリアは身体を引きずるようにしてベッドから起き上がった。
 枕もとのチェストに用意された水で喉をうるおし、一つ深いため息をつく。水差しの隣の呼び鈴を鳴らせばすぐに侍女が着替えを持って姿を現した。着替えを手伝ってもらいながら、今日一日の予定を頭の中で辿ってみる。
「ね、そういえば今朝は礼拝の儀があったよね?」
 聖女、神聖第一騎士揃って礼拝の間で祈りを捧げる儀式だ。身分ある官僚たちも多く参加するので、そう簡単に休むわけにはいかない。
 しかし、問われた侍女は笑みを浮かべ首を振った。
「お気になさらないでください。本日全てのご予定は取りやめと伺っております。一日ゆっくりお休みくださいませ」
 そう言われると良心が少し痛んだ。昨日のことは、表向きは国の安泰を願ってひたすら祈りを捧げたことになっているが、実際はシェリアスティーナの過去を知りたいと勝手に王宮を飛び出しただけなのだ。ねぎらうような侍女の眼差しをまっすぐ受け止められず、シェリアは曖昧に微笑んで目を伏せた。
 とはいえ、今日の儀式に参加しなくていいというのは正直ありがたかった。昨日の今日で、アシュートに合わせる顔がどこにもないのだ。問題を先延ばしにしても仕方がないが、少し彼とは距離を置こうとシェリアは思った。
 これ以上近づきすぎると、本当に後戻りできなくなってしまいそうだった。

 それからしばらくは部屋でおとなしく本を読んだりして時間をつぶしていたシェリアだったが、昼も過ぎた頃になって少し部屋を出てみることにした。
 そういえばジークレストにはまだ戻ってから挨拶もしていない。背中を押して送り出してくれたのだから、きちんと会って報告をしたかった。その旨をネイサンに告げると、一つ頷いた彼は、すぐにジークレストと約束を取りつけて来てくれた。
 部下たちの訓練をつけた後なら空いている、ということだったが、果たして彼はそれ以外になにも仕事がないのだろうか? そんなことを問えば間違いなく雷を落とされそうなので、決して口にはするまいが。
 ネイサンに連れられて廊下を歩いていると、大きな窓から少し冷たい風が吹き込みシェリアの肌をくすぐった。風に誘われるまま窓の外に目をやると、夕焼けを映したような橙色の花が群生しているのに気づかされる。
(ああ)
 シェリアは不意に胸を打たれて足を止めた。
(いつの間にかサルトーの花が咲いてる……。そっか、この季節ももう終わるんだ)
 かつてユーナだった頃から、あの花を見るとしんみりとした気持ちになった。一年を通して、色鮮やかなたくさんの花が咲いては散り、また咲いていく。そんな中、冬の季節を迎える前、一時(いっとき)姿を消してしまう花々の最後の使者があの橙色の花――サルトーなのだ。
 ユーナの実家が薬草屋というのもあって、サルトーの花が咲くのを見ると、まもなくやって来るであろう、色彩を失う寂しい季節に想いを馳せずにはいられない。それは聖女となった今でも変わらない。――変わらないのだな、とユーナはかすかに微笑んだ。
「どうかされましたか?」
「あ、ううん、大したことじゃないんだけど。花が綺麗だなって思って」
 隣を歩いていたネイサンが、シェリアの視線を追って窓の外に顔を向ける。
「あの花ですか。……あれが枯れるといよいよ冬になりますね」
「そうだね、早いねえ」
 答えながら、シェリアは孤児院に咲くティカスラのことを思い出していた。シェリアスティーナ、いや、シェーラが懸命に育てていた、あのティカスラの花。これまで一度も枯れたことがないとカズロが言っていたっけ。
(それって、ものすごく心強いことだよね、シェーラ)
 真冬の寒さの中でも力強く咲き誇るティカスラの花は、人々にとってどれほど大きな希望になることだろう。
「シェリアスティーナ様、あちらにジークレスト様が」
「ん?」
 ネイサンが窓の外を見たままそう言うので、シェリアもサルトーの花から視線を離して顔を上げた。言われたとおり、向かい側の廊下の窓に腰かけたジークレストが、ひらひらとこちらに向かって手を振っている。
 シェリアがそれに手を振り返すと、ジークレストは窓から外に飛び降りて、そのまま真っ直ぐ庭を横切りこちら側までやって来た。物事に頓着しない、いかにもジークレストらしい行動である。
「よおシェリア、昨日はお疲れさん」
 窓越しに豪快な笑みを見せる。
「ジークさんも、昨日はどうもありがとうございました。おかげで無事に行ってこれました」
「ああ、話はアシュートの奴から聞いてるぜ」
 そこでなぜかジークレストはニヤリと笑った。「色々とな」
 その「色々」の部分が気になるシェリアだが、自ら突っ込みを入れる勇気が湧いてこない。一体どこまで話を聞いているというのだろう。もしかしたら昨晩のいざこざについても?
「こんなところで立ち話もなんだから、どっか座れるとこに行こうぜ。つっても俺ら二人でどこ行くって話だけどよ」
「庭先のベンチはどうですか?」
「んー……。それでもいいけどよお、俺、なんか喉乾いたんだわ」
 言いながら、ぽん、とジークレストは手を叩く。
「そうだ、いい場所思いついたぜ」

 そして向かったのは、かつてのホリジェイル被害者専用医療室――現在の一般医療室だった。いくつかある王宮の医療室の一つとして、今では主に身分のあまり高くない使用人たちに開放されているらしい。
「あらあら、シェリアスティーナ様、それにジークレスト様。これはまた、ずいぶんとお久しぶりじゃありませんか」
 突然の来訪者を迎え入れてくれたのは、以前と変わらぬ様子のミズレーだった。心身ともに大きな傷を負ったホリジェイル被害者たちを献身的に世話してくれた女性である。ホリジェイル被害者たちだけではなく、シェリア自身も彼女にずいぶん救われた。
「よおミズレー、元気そうだな」
「ええ、私は相変わらずですよ。お二人もお元気そうでなによりです」
 なんの約束もなく現れた二人にも、気負ったところのない笑顔を見せてくれる。
「久しぶりにミズレーの入れた茶が飲みたいって話になってよ。それでちょっと顔見せに来たんだ。なっ、シェリア」
 だから「なっ、シェリア」じゃないってば、と心の中で抗議をしつつ、その提案がシェリア自身にとって魅力的なのも事実だった。
「ミズレーさん、ごめんなさい。具合の悪い人のための医療室なのに……」
「いやだ、全然構いませんよ。むしろお顔を見せに来てくださって嬉しいです。今は誰も病人や怪我人がいませんから、実は時間を持て余していたくらい」
 さあどうぞ、と通された医療室は、記憶にあるとおり日差しの眩しい、明るい空間だった。ベッドの数は以前よりも減って、代わりに五、六人は席に着ける大きなテーブルが新しく設置されている。そこに活けられた花は先ほど見た橙色のサルトーだったが、今は感傷めいた感情は湧き起こってこなかった。むしろ橙の温かさがぽっと胸に灯をつけてくれるようだ。
「診察医も今はいないんですよ。すぐにお茶お入れしますね、お掛けになってくださいな」
 ミズレーに促されて、ジークレストと二人席に着く。
「意外に人いねえもんだな。いつもこんな感じなのか?」
「ええ、最近はそうですね。ほら、ちょっと前に、兵士の皆さんの使用が禁止されたじゃないですか。使用権限が一般の使用人だけになって」
「そうだっけ? 憶えてないな。でもあれだろ、やっぱ兵士たちがここに入り浸って出てこなくなったんだろ」
「ふふ、そちらの団長さんからちょっと怒られてしまいましたよ。手当ての済んだ者は早急に追い出してもらわなければ困る、って」
「そりゃあ災難だったな」
 軽く笑うジークレストを眺めながら、シェリアは思いついた質問を口にしてみた。
「……神聖騎士団の団長さんって、怖い方なんですか?」
 すると、途端に渋面に切り替わったジークレストが小さく首を横に振る。
「怖いっつーか、堅苦しい奴なんだよな。いかにもアシュートと気が合いそうな。俺なんかしょっちゅう、『アシュート君の爪の垢を煎じてお前に呑ませてやりたい』って言われてるぞ」
 なんだかその場面を想像できる気がする。
「失礼な話だよな。逆にアシュートに俺の爪の垢を呑ませてやりたいくらいだぜ。国の規律が服着て歩いてるような、堅っ苦しいあいつによ。まあ、最近やーっと年相応のワカモノらしくなって来たって気もするけどさ」
 そこでジークレストは再びにやりと笑って見せた。
「それもお前のおかげだな、シェリア」
「えっ」
 一体なんの話を始めようというのか。シェリアには嫌な予感しかしない。
「昨日の晩、あいつスゲー怒ってたぜ、お前のこと」
「……」
「お前らが王宮に戻った後、あいつ俺んとこ来てさ。孤児院でなにがあったか報告でもしてくれんのかと思ったら、無言で俺のとっておきの酒開けて飲み干しやがって。でもよ、あいつがヤケ酒だぜ? 信じらんねえよなあ、いっつも俺に付き合わされて嫌々飲んでたような奴が!」
 ジークレストは面白くてしょうがないというように肩を揺らして笑っている。
「アシュートが個人的なことで怒るのって珍しいんだよな。まあ俺なんかはしょっちゅう怒らせてたけどさ、そういうのとはまた違うというか」
 そこでジークレストは不意に言葉を切った。
「……なあシェリア、お前、アシュートのこと嫌いなの?」
 まだ笑みを湛えたまま、それでもジークレストの瞳は真っ直ぐシェリアを捉えていた。ちょうどお茶を入れて戻ってきたミズレーも、静かにカップをテーブルに置き、口を挟むことなくシェリアの答えを促している。
「そんな……、き、嫌いなはずないじゃないですか」
 シェリアはなんとかそれだけ口にした。
「んじゃ好き?」
「っ」
 まるで遠慮というものの見えない明け透けな質問に、今度こそシェリアは言葉を詰まらせる。顔に熱が集まってくるのを感じて、シェリアは思わずうつむいた。