71.

 今、イーニアスはなんと言ったのだろう。
 シェリアは真っ白になった頭の中、耳が捉えた言葉を理解しようと、必死に思考の糸を手繰り寄せた。
 ロンバルノ国王――「国王」。もちろんその単語が意味するところを知らぬわけではない。だが、とっさには状況を理解できない。
 これまで何度も二人で話をし、時には友人のように、時には父親のように慕ってきたロノ。服が汚れるのも気にせず、土を掘り起こしては苗を植え、とても楽しそうに笑っていた彼が――
「この国の、王様?」
 愕然と呟いたその言葉を受けて、ロノはゆっくりと頷いた。
「これまで黙っていて申し訳ありませんでした。あなたを欺こうとしたわけではないが」
「……」
 あまりのことに二の句が継げず、シェリアはただただ目を見開く。
「ロンバルノ国王、これは一体」
 イーニアスも動揺をにじませ問いかける。一方のロノは落ち着いた様子のままイーニアスに視線を向けた。
「以前から個人的な趣味で、庭いじりをしていてね。供を大勢引き連れてやるようなことでもないから、一人気ままに苗を植えたりしていたんだ。そこへいつだったか、シェリアスティーナ様がやってきて、二人で少し話をしたのが始まりだった」
「お一人でとは! 今がどれほど危険な情勢か、貴方様が一番よくご存じのはずでは」
「ああ、よくよく分かっているとも。なにせ庭へ出歩くたびに臣下から小言を貰っているのだからね。だからイーニアス、あなたからのお説教は勘弁してもらえるかな?」
「――は、はい、申し訳ございません。たかが一兵士の分際で、過ぎた言葉でした」
 我に返ったようにイーニアスはその場に片膝をつき、頭(こうべ)を垂れた。その様子を見てシェリアはようやく焦りを覚え始める。どうやらこれは冗談でもなんでもなく、ロノは本当に国王らしい。
 しかし、そうと分かればこれまでのことにも納得がいく気がした。いや、納得がいくというよりも、気づかなかった様々な「穴」に気づかされたと言うべきか。
 なぜロノは、要人でもなかなか立ち入ることのできない王宮奥のあの花畑に入り込むことができたのか。なぜロノは、シェリアスティーナの処罰を恐れず花畑に手を入れることができたのか。ロノと対面したネイサンが訝しげな顔を見せたのはなぜ? ロノがアシュートのことを息子のように心配していたのは?
 そしてなにより、シェリアの悩みを見透かしているかのように微笑んで、話を聞くことができたのは……。
(そうか、そういうことだったんだ)
「イーニアス、立ちなさい。この庭では私もただの暇を持て余した老人だ。国王扱いをされたいときは、宝石のちりばめられた派手な玉座にふんぞり返って座っているから」
 そう言うと、ロノは少しかがんでイーニアスの肩をぽんと叩いた。
「ねえ、シェリアスティーナ様。そういうことですから、あなたもそれほど気負わずに」
 呆然と成り行きを見守っていたシェリアは、突然話を振られて思わず背筋を伸ばす。
「さてイーニアス、申し訳ないが、少しシェリアスティーナ様と二人きりにしてもらえるかな。あなたには、この周りに怪しい輩が入ってこないか警戒をしていてもらいたい。あんまり長く立ち話をするつもりはなから」
「……はい、かしこまりました」
 イーニアスはほんの一瞬シェリアに目を向けたが、すぐさま姿勢を正し一礼をした。思うところがあれど、国王相手では物申すこともできないのだろう。話の聞こえないところまで遠ざかって行くイーニアスの背中を見つめながら、シェリアは今更ロノに対して緊張を覚えている自分をなんだかおかしく感じた。そう、おかしいはずなのに、動悸がやまない。
 シェリアと同じくイーニアスを眺めていたロノは、改めてシェリアに顔を向けた。
「そう怖がらないで。取って食べようというのではありませんよ」
 にっこりと笑うロノが、それでも威厳をまとっているように思えるのは、国王だという事実を知ってしまったからだろうか。
「イーニアスに先に言い当てられてしまいましたね。私の名前はロンバルノ、この国の王だ。臣下には、王の自覚をどこかに忘れてきた王だと陰でからかわれているようですが」
「あの、も、申し訳ありません。その、これまでずっと、ご無礼を……」
「シェリアスティーナ様。そいういうのは本当にいいですから。ね、先ほども言ったように、ここでは対等な人間同士として話をしましょう。そもそも身分を持ち出すのなら、聖女であるあなたは必ずしも私に臣下の礼を取る必要はない」
「でも」
「でも、だって、しかし、そういうのはなしですよ。私が身分を隠していたことを責める権利ならば、もちろんあなたにありますが」
「そんな、責めるだなんて」
「私とあなたが時々庭で話をしていることは、私の側近にすらほとんど知らせていなくてね。あなたと二人で会っているとばれてしまうと面倒なことになるのは分かり切っていました。それで、あなたにも身分は明かさぬ方がいいだろうと思ったのです」
「そ、そうだったんですか」
「その方があなたも気兼ねなく話をしてくれるだろうと考えたのも、まあ確かなのですが。いやはや、私はずるい人間ですね」
「いえ……」
 シェリアは慌てて首を振った。ロノは対等な態度でと言ってくれるが、そうそう気楽に接することなどできやしない。なにせシェリアにとっては、国王など雲の上にも見つけられないような存在だったのだ。今や自分自身が国王にも匹敵する身分である「聖女」だというのとは、また別の問題だ。
「私とあなたは、身分の問題で言えばとても微妙な関係にあります。政治の立場から国の頂点に立つ私と、宗教の立場から国の頂点に立つあなた。それでは政治宗教の区別なく、どちらがより偉いのかという問題になると、実は今もまだ答えが出ていないのですよ」
 だから私たちはこうして面と向き合う機会をなかなか持てないのだ、とロノは言う。
「でも、私はずっと、国王様の方が偉いんだと思っていましたけど……」
 思わずシェリアは、平民として――ユーナとしての感想を口にしていた。一般の民は皆、国の一番は王様だと考えている、と。しかし今の自分こそが問題の当事者なのだと気づいて、シェリアは他人事めいた自分の物言いに慌てて口を閉ざした。
「一般にはそういうことになっています。ですが、どこかに明文化されているわけでもない。近頃は神官たちの力も大きくなってきて、ますます『聖女』を押し上げる気運が高まってきてるのが実情でね」
 焦るシェリアをよそに、ロノは気にした風もなく会話を続ける。
 そういえば、とシェリアはふと思いついた。ロノが国王だということは、シェリアの事情についてもかなりのことを知っているのではないか。今目の前にいるのが本物のシェリアスティーナではないということや、身代わりの自分が元々どんな人間だったのかなど――果たしてどこまで報告を受けたかは分からないが。
 シェリアは探るようにそっとロノを見つめた。ロノはすぐにその視線に気づいて、再びにっこりとシェリアに笑いかける。
「この問題に答えを出せる者はなかなかいない。皆、いざこざを表面化させまいと、私たちを遠ざけることに力を尽くすばかりだ。……だから私は、“歴史”という代弁者を用意しようと思ったのです」
「代弁、者」
 なにやら話が突然深刻な方面に向かっていると気づいたシェリアだったが、遮ることができる雰囲気ではない。
「『聖女』が一体なんなのか。なんのために存在するのか。本当に国の柱として崇め奉るべき存在なのか。……シェリアスティーナ様という聖女が現れたことそれ自体が、長くくすぶっていたこの問題を表舞台へ引っぱりだす契機となるのではないかと考えました。私はあえて彼女を好きなようにさせ続けた。そして紡がれる小さな“歴史”が、皆へ語りかけるのを待ったのです」
 なぜロノが今になってこんな話をする気になったのかは分からなかった。シェリアが受け止め得るには大きすぎる話なのではないか。しかし今は、ただ黙って話の続きに耳を傾けようと心に決めた。
「王様というのは、非常に分かりやすい職業だと思いませんか。力ある者が国の頂(いただき)に立ち、その力を以って国を治める。国王として力不足と見なされれば、別の力ある者にその座から引きずり降ろされて……ひたすらそれの繰り返しです。しかし聖女は違う。聖女は“神”によりその身分を認められた、あまりに曖昧な存在だ。私が国王という立場だからでしょうか、隣に並び立ちながらも全く異質のその存在について、いつも私は考えを巡らせてきました」
 聖女とは一体なんなのか、なんのために存在するのか。シェリアは視線を落として己の手をじっと見つめた。
「私が天の邪鬼だからなのかもしれませんが、実は、聖女という存在が皆から崇拝されてきたこの歴史があまり好きではないんです。確かに毎日を生きる人々にとって、心の拠り所となる存在は大切なものだと分かります。けれど、聖女といえど普通の人間と変わらないはず。彼女たちには彼女たちの生きる道が別にあった――かも、しれないではないですか」
 知っていますか、とロノはなおも畳み掛ける。
「歴代の聖女たちは、ほとんどが王宮での生活の中で精神を病んでいきました。豪華な部屋を与えられ、豪華な衣服をまとい、豪華な食事を取る。そして、規律の範囲内ならばなんでも好きなことができる。なのになぜ彼女たちは幸せではなかったのでしょう? ……そんなことは、説明せずとも分かりますよね」
 シェリアは黙って頷いた。シェリア自身、己の身と照らし合わせて過去の聖女たちに思いを馳せたことがある。
「聖女は国の奴隷だと私は思います。この長い歴史の中で、決して解放されることのなかった、ね」
 ロノはどこまでも穏やかな調子を崩さなかった。だから彼が怒っているのか嘆いているのか、はたまた別の感情にとらわれているのかは分からない。
「ロノさんは、聖女を国から解放したいんですか?」
 シェリアは胸に湧き起こった疑問を抑えきれず、口に出した。ロノは数回瞬きをしたのち、どうでしょう、と頼りのない返事を寄こす。
「私にもまだ分かりません。ただ、塔に閉じ込められた哀れな姫を救い出す王子のつもり、だなんてことはありませんよ。シェリアスティーナ様という存在を、私は政治的にも利用している。昨今目立ち始めた神官たちの勢いを削ぐのにも彼女は十分役立ってくれました」
「そんなの……」
「嫌な考え方ですよね。それでも私は確かに彼女を利用していました。――ただ」
 そこでロノは言葉を切り、改めてシェリアにまっすぐ向き直った。
「そういった私の思惑など全て乗り越えて、今まさに新しい道が開かれつつあると、私は感じていますよ。それはきっと、あなたのおかげだ」
「私、ですか?」
「そう。私が勝手に描いていたシェリアスティーナ様の未来は、破滅しかあり得なかった。けれどあなたという存在が、決定していたはずの未来を塗り替えつつあるのです。そう気づいてからは、私もこれまでとは違った気持ちでシェリアスティーナ様を……あなたを、見守り続けてきました。先ほどのあなたの問い、『聖女を国から解放したいのか』。本心から、私にもまだ分からないのです。全てを流れのままに委ねようと決めたのですから」
「私は……」
 シェリアはなにかを言おうとして、出てくる言葉を見つけられずに口を閉じた。そんなシェリアを見つめていたロノは、不意に顔を上げて、降り注ぐ陽射しに目を細める。シェリアも視線を追いかけると、青空に伸びた白い雲が彼方に向って悠々と流れていた。
「これはただの予感ですが、なにかが再び大きく動き出そうとしているように思います。けれど今のあなたには迷いがある。迷いを押し隠したまま進もうとしていませんか? それでいいんでしょうか。後悔することにはなりませんか?」
「……それは……」
 ふとアシュートの面影がシェリアの頭をよぎる。そんなシェリアの肩に、ロノの温かい手のひらが優しく置かれた。
「これまであなたは本当によく頑張ってきました。あなたには本来の居場所が別にあったとライナスから聞いています。どれほどそこへ帰りたいと願ったことでしょうね。きっとずっと心細い思いをしてきたのでは?」
 シェリアはじんわりと目の奥が熱くなるのを感じた。どうしようもなく、胸が痛い。
「孤独や理不尽と戦いながら歩んできたこの道は、あなただけのものですよ。“シェリアスティーナ”という存在に繋がる道だとしても、その道中はあなた自身のものなんです。だから、全てをシェリアスティーナ様に捧げる必要などないはずだ。あなたはあなたの想いのために行動してもいい。あなたの想いのままに進む道を、私も信じます。ねえ、それでいいでしょう?」
 シェリアはゆっくりと頷いた。ロノの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと。
 その拍子に、地に落ちた涙が花を揺らした。