01.

 嫌な夢を見た。

 天にも届きそうなほど背の高い回廊。いくつも伸びる柱の間をすり抜けるようにして、一人の少女が駆け回っている。
 少女は時折後ろを振り返る。必死になって自分を追いかけてくる男の姿が目に入る。親子ほども歳の離れた男だったが、男はどこか少女に遠慮があるようだ。
 お待ちください、と男の情けない声が少女の背に縋りついた。
 少女の足は止まらない。はしゃぎ声を上げながら、すいすいと男を引き離していく。

 やがて、人気(ひとけ)の少ない薄暗い回廊を抜けた先、少女は外に繋がる扉へ手をかけた。
 この鉄の扉は、滅多なことでは使われない。既に錆びつきかけていて、いかにも重く鈍そうに見える。
 しかし少女にとっては綿でできた扉も同然だった。口の中で軽やかに呪文を唱えてトンと指先で突いてやれば、扉の方から少女に道を譲り渡した。

 少女は、抜けるような青空を見上げ、一つ大きく伸びをした。

 自分を追いかけてくる男は、長い回廊の中で「迷子」になってしまったようだ。
 視界を遮るのはただの柱ばかりなのに、今の男には魑魅魍魎の森の中を彷徨うがごとく感じられていることであろう。
 かわいそうに、などとは思わない。むしろ、その深緑の長衣(ながきぬ)をまとう資格を持つ者ならば、これしきの目くらましにまんまと嵌ってしまう方が情けない。やんちゃな小娘のお守を押し付けられた国家魔術師など、所詮はその程度と割り切るべきかもしれないが。

 少女は胸元に隠し持っておいた白い包みを取り出すと、中の粉を指につまんで自らに振りかけた。
 呪文と共に、絹がごときの薄いプラチナブロンドの髪は、目立つところのない地味な黒髪へと変化(へんげ)する。丁寧な刺繍の施された仕立てのいいワンピースは、所々につぎはぎのある着古されたそれに。城内では皆が振り返るような愛らしい顔立ちも、誰の記憶にも残らないような平凡な娘のものに変わっている。

 よし、と少女は満足げに頷き、それから城下町へと駆け出して行ったのだった。


 少女は、城があまり好きではない。

 贅をつくした大きな「空箱」のようだと感じるからだ。

 たくさんの人々が箱の中で蠢いているが、少女にとっては目障りな虫の群れとさして変わらない。
 その上、その虫の群れはいつも少女の周りを飛び回っている。腫物に触るように接する者、あからさまに媚びを売ってくる者、狡猾に利用せんとする者。色々だが、共通しているのは、いずれも少女に対し無関心ではないということだ。

 誰もかれもが、煩わしい。

 ――国家魔術師長である、自分の父親を除いては。

 だからこうして、少女はしょっちゅう城からの脱走を試みる。
 それはたいていうまくいく。監視の目をかいくぐるのは、少女にとってはとても簡単なことだった。父親譲りの魔術の才で、大概の相手ならば出し抜けてしまうから。

 脱走した先で、何をするわけでもない。ただ城下町を走り回れば、それで少女は十分だった。
 広い町の中で、人々は誰も少女のことを知らない。気にも留めない。軒を連ねる商店街で店を一軒一軒覗き込んでみても、どこかの娘が遣いを頼まれただけだろうと、気にする者はいないのだ。

 これぞ自由だ、と少女はつくづく感じていた。

 城の中でも、別に幽閉されて過ごしているわけではない。
 少女の魔術の才能を早くに見出した偉大なる父親が、娘のためにと最高の学び場を用意してくれているだけのこと。こうして自由に脱走できることが何よりの証拠だ。本気で父が疎んじれば、年端もいかぬ娘ごときが勝手に城下町の土を踏むなど二度と叶わぬことであろう。それに、城の人間全員が悪意や下心を孕んでいるわけではないことも分かっている。

 それでも。
 ざわついた町の雑踏の中に身を置くことで、ようやく深呼吸ができる気がする。

 国家魔術師である父を、誇りに思っている。
 けれど、自分はそれに向いていないのだろう。幼い少女は、その時既にそう悟っていたのであった。


 ――そして、その日が巡ってきた。

 少女はいつものように町中へと繰り出していた。
 その頃には、町に自分と同じ年頃の友人ができ、少女にとっては一番楽しい頃であった。

 もちろん、自らの身分は明かしていない。
 国家魔術師長の娘となれば、そこいらの下級貴族よりよほど高位のお嬢様である。友人自身が理解できずとも、その親にまで話が広まれば厄介なことになる。あくまで少女は、ただの少女として友人と接していた。それで特段困ることもない。子供の他愛のない付き合いに、身分などは関係がない。

 ――ねえ、秘密の場所があるの。

 その友人は、こっそり少女に耳打ちをした。
 別に耳打ちなどせずとも、にぎやかな町の雑踏の中、周りの大人たちは娘二人の動向など気にも留めていない。しかしこうして囁くことで、秘密はもっと秘密らしくなる。

 ――今日はそこに、連れて行ってあげる。

 なんとも魅惑的な言葉。少女は頬を紅潮させて頷いた。
 国の頂きに立つ魔術師たちが長年研究を重ねる魔術の深淵を覗くよりも、胸にしまっていた秘密を友から打ち明けられることの方が、よほど少女の胸を躍らせた。

 こっち、と手を取られ、少女は友人とその場を駆け出す。
 町はずれの裏山に、近所の子供たちで秘密基地を作ったのだという。山の斜面に立派な深い穴を掘り、木箱を机に見立て、明かりを灯す蝋燭まで。お互い顔を知っている者も、そうでない者も、この一帯に住まう子供たち皆で、力を合わせて地道に基地を改良していく。利用するのに許可はいらない。ただ、その仲間に認められた者であるのなら。

 嬉しい。

 この町で、確かな自分の居場所を見つけた気がした。
 城内で王宮魔術師になるだけが自分の未来ではないのかもしれない。
 もちろん、父のことは尊敬している。

 ――でも、お父様と私は違うのかも。

 沸き起こる興奮とともに、少女はそんなことを考えた。
 友人が強く握り締める手の暖かさが心地よい。

 だからとても、油断していた。
 行き交う人の激しい往来、しかし、行き交うのはただ人だけではないということに――頭が回らなかった。

 大通りを飛び出した少女たちに最初に気づいたのは誰だったのか。
 分からないが、突如つんざくような絶叫が通りに響いた。
 少女とその友人は、何よりもその叫び声に驚いて顔を上げる。目前に迫ったのは、大きな黒い塊。それが馬車であると気づいた時には、もう遅かった。少女たちに出来たことは、あっと丸い口を開けて、ただただ馬車を見上げることだけだった。

 その次の瞬間を、少女ははっきり覚えていない。

 気づけば少女は往来の真ん中でひっくり返っていた。
 しっかり握りあっていたはずの、友人の暖かい手の感触は消えている。

 ちかちかと目の前が光る。瞬きをする。そしてようやく突き抜けた青い空が目に入った。自分が仰向けに倒れこんでいるのだと、その時少女は初めて気が付いた。

 のそりと状態を起こす。体中が軋んだが、動けないことはない。恐る恐る辺りを見回して――少女は絶句した。

 少女から遠く離れたところに、友人の薄桃色のワンピースが風になびいているのが見えた。そのすぐそばには、ワンピースの色が霞むほどの鮮やかな赤がじわりと地面を侵食している。それが何か分からないほど、少女も愚かではなかった。
 友人の華奢な太ももは、武骨な馬車に挟まれている。その馬車も同じようにひっくり返り、一頭の黒馬が混乱したように足をもがいて短く鳴き声を上げていた。

「――アン!」

 少女は叫ぶように友人の名前を呼んだ。
 多少体が痛むことなどに構ってはいられない。少女は勢いよく飛び起きると、這うようにして友人に駆け寄り、その肩を揺すった。

「アン、大丈夫!? しっかりして!」

 友人は青白い顔で目を閉じていた。少女が無意識のうちに彼女の体を持ち上げようとしたが、ぐにゃりと力の抜けたその体が、何か恐ろしいもののように感じられて泣きそうになった。
 少女のすぐ近くでは、通りがかりの住人たちが、何とか馬車を持ち上げようと苦心している。またある者は、医者か何かを呼びに行ってくれたようだ。それ以外は、なす術もなく遠巻きに少女たちを見守っているばかりだった。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう)

 少女は友人の上半身を抱きしめたまま、動けなかった。

 このままでは、友人は助からない。
 混乱する頭で、それだけははっきりと理解できた。

(誰か、助けて。アンを助けて)

 誰か。誰かって、誰?
 今から医者を呼んで、すぐに飛んで来てくれたとして、それで友人は助かるの?
 無理だ、間に合わない。ただの医者じゃあ、とても。

 その時、少女の頭の中に浮かんだのは、深い緑の衣をまとった大きな背中だった。
 普段、なかなかこちらを振り返ることのない、寡黙で厳しいその背中の持ち主は。

(お父様――)

 ああ、どうしてすぐに思い浮かばなかったのか。
 国一番の魔術師である父ならば、その強力な術をもって、友人を救うことだってできるに違いない。以前、落馬し大怪我を負った王族を助けたことがあると人づてに聞いたこともある。
 そうか。そうだ。父ならば大丈夫。きっとこの窮地から友人を救ってくれる。

「アン、待っていて。すぐに助けを呼んでくるから!」

 少女は友人の体をそっと地面に横たえると、そのままその場から駆け出した。
 周りの大人たちが驚いたように少女を引き留めようとするが、詳しく説明している余裕はない。

 少女はただただ、必死に城へと駆けていった。
 いつも抜け出すことばかり考えていたその場所へ、今だけは、一刻の猶予もなく戻らねばならなかった。
 ああ、もどかしい。自分に父と同じくらいの力があれば、あの場ですぐに友人を手当てすることだってできたのに。

 ようやく城内へ戻った少女は、一目散に父のいる魔術省へ駈け込んでいった。
 深緑色の長衣をまとった老若男女が、何事かと少女を振り返る。しかし少女はそれにも構っていられない。いくつもの扉を開け、走り、やけに広い城の最奥まで鼠のように入り込み、そうしてようやく目当ての人影を捉えた。

「お父様!」

 父は、ちょうど数名の部下に何やら指示を出しているところだった。
 どう見ても仕事中だ。こういう時に話しかけることを、父はひどく厭う。しかし少女も時を選んでいる余裕などもちろんない。

「お父様、大変なの。町で友達が、大けがをしてしまって」
 少女は父に飛びついた。長衣の裾をぎゅうと握り、背の高い父の顔を懸命に覗き込む。
「お願いお父様、アンを助けて。このままじゃ、アンが死んでしまう!」

「――リシュー」

 父の声は、いつもと変わらず落ち着いていて、とても低く厳格に響いた。

「また町へ抜け出していたのか。そろそろ大人しくするようにと言ったはずだ」
「ごめんなさい、それは謝るわ。でも今は本当に大変なの。お願いします、どうか助けてあげて。お父様ならアンを助けられる」
「落ち着きなさい、リシュー」

 父は膝を折り、まっすぐ少女と向き合った。

「残念だが、それはできない」

 それは予想もしない応えだった。

「……なんですって?」
「国家魔術師は、王命なく上位魔術を使うことは許されないからだ。お前もよく知っているはずだ」
「で、でも! 今は人の命がかかっているのよ! 友達が馬車にはねられて、それなのに……」
「例外は一切許されない。魔術師としてではなく、お前の父としてならば、すぐに医者の手配などはしよう。その友人は今どこに?」
「それじゃあアンは助からないのよ!」

 少女はおろおろと周囲を見渡した。
 父の部下たちが、痛ましいものを見かねるかのように瞼を伏せる。しかし、誰一人として、自分が力になろうと申し出てはくれなかった。

 それが、答え。父の――国家魔術師たちの。

 ガツン、と頭を殴られたような衝撃だった。

 こんな結果が返ってくるとは思わなかった。
 父は普段から、少女のわがままに厳しい人だった。でも今回は違うのに。単なるわがままなどではない。とても、とても大切なことなのだ。人の命は取り返しがつかない。取り返しがつかないものを魔術で守ろうとすることの何が悪い。そんな当たり前のことに――彼らは、応えてはくれないのか。

 ならば、何のための国家魔術師だ。
 助けを求める子供の声を無視して、何が、国の護り人だ。

 少女は大声で喚き散らしたいところをぐっと堪えた。ここでいくら騒ごうが、父は決して翻意しないだろう。
 今すべきことは、無慈悲な魔術師たちを無駄になじることではない。

(これ以上、ここにいたって意味はない)

 少女は涙を飲み込んだ。
 そして目の前の国家魔術師長を、冷たく睨んだ。


 絶望的な気持ちで城を飛び出した少女は、事故の起こった場所へと、震える足をどうにか運んだ。

 現場には未だ人だかりができたままだ。
 むしろ、事故の直後よりも人の数は増えているかもしれない。
 あの輪の真ん中に、今も友人は横たわっているのだろう。

 まだ搬送されていないのはどうしてなのか。
 もう、手遅れだとはっきり分かっているから?

 目まぐるしく考えを巡らせながら、少女が人垣をすり抜けようとした時だった。

 ――様子がおかしい。

 ようやくそのことに気が付いた。
 人の輪の真ん中、そこに見知らぬ人影がある。
 一見、何か黒い塊がうごめいているように見えた。それは、黒い服を身にまとった老婆のようだ。老婆は、先ほどまで少女がその場でしていたように、意識のない友人の上半身を抱き込むように持ち上げて、何やら処置を施していた。

(あれは――魔術だわ!)

 老婆の右手から不思議な光があふれ出ている。その手は友人の胸元に添えられ、彼女の体に光を送り込んでいる。友人は血だまりの中にいたが、既に新しい血は流れていないように見えた。

 友人の顔はまだ青い。しかし、光に包まれていく中で、どこか穏やかな表情をしているようにも感じられた。
 老婆はそのままじっと動かない。
 少女も同じく、動けなかった。

 そうしてどのくらいの時が流れただろう。
 老婆が大きくため息をついた。
 それと同時に、光は止んだ。

「医者はいるかい」

 初めて老婆が声を発した。
 足を固められたようにその場で状況を見守り続けていたやじ馬たちの中から、手が上がった。事故の直後に呼ばれて駆けつけてきた医者らしい。老婆が何やら術を行使していたために、出るに出られず様子を窺い続けていたようだ。

「この娘を診(み)てやりな。とりあえず命は繋いだが、まだ危ういよ」
「わ、分かりました。病院へ運ぶ馬車も用意できています。誰か、この子を馬車に乗せるのを手伝ってくれ」
 恐る恐るというように、医者は老婆から娘を引き受けた。彼女の容態に気が引けているというよりも、目の前の老婆に気後れしているのだろう。

 すぐに数人の男たちが友人を抱え上げ、馬車へ乗せるべく動き始めた。
 老婆はそれ以上は何も言わず、重そうな腰を上げると、ふらりとその場を立ち去ってしまう。人垣を作っていたやじ馬たちは、そんな老婆を気にしながらもわざわざ引き留めることはできないようで、困ったように老婆の背中とぐったりとした娘の様子を交互に見やっていた。

 少女は、老婆を追いかけた。

 友人はきっと、もう大丈夫だ。
 魔女の施した術が完璧なものであることは、まだ力の足りない少女にもよく分かった。

 そして、もう二度と友人と笑い合うことはできないだろうという確信もあった。
 自分では何もせずに、父親の力をあてにして友人をその場に置き去りにしてしまったこと。結局はその父親に拒絶され、おめおめと戻るしかできなかったこと。少女は自分が許せなかった。

 それに――この出来事が、自分の人生を変えるという確信もあったから。


 人の通りが薄い裏路地に入り込んだところで、老婆は不意に足を止める。

「お嬢ちゃん、一体何の用だい?」

 老婆がちらりと振り返った。少女は臆することなく、皺だらけの瞼の奥に光る瞳を真っ直ぐに見返す。

「お願いがあるの。私を――あなたの、弟子にして」