01.
最近、私には平穏な時間というものがない。
心の休まる時がない――と言ったほうがいいかもしれない。
とにかく、“あの男”のせいで、私は四六時中イライラしっぱなしの生活を送っているのだ。“あの男”――私の母の婚約者、キースレイ=セルダン伯爵その人。その甘い容姿と穏やかな立ち居振る舞いとは裏腹に、悪魔の顔を持つ男、それが彼。
私は、中流貴族の家庭に育った、ごくごく平凡な娘だった。優しい父と、美しい母がいて。使用人も、それ程多くはないけれど、気の置けない人たちばかり。何もかもが普通だったけれど、それが私の幸せだった。
――ただ、“美しい”母だけが問題だったけれど。
娘が言うのもなんだけれど、うちの母は社交界にデビューした頃から評判の美人で、何十人という男達から求婚された経歴の持ち主なのだ。そして、それだけならまだしも、本人が生来の男好きだったものだから色んな男をとっかえひっかえして遊びまくっていたらしい。
それは父と結婚して、私という娘を授かってからも変わらなかった。常に、愛人みたいな男が数人いる始末。しかもかなり堂々と浮気していた。父は、母一人だけを愛しぬいたっていうのにね。
……でもそれはある意味、許せたんだ。私も父も、母の男好きには諦めてたところがあったから。あの人は色んな男をいっぺんに好きになったけど、結局一番は父で。最後には、父のところに戻ってきた。
――なのに。……なのに!!
父が亡くなってから、母の男遊びはますます激しくなった。多分、悲しみをまぎらわしたかったんだろう。だからこれもある意味許してもいい。
けれどついに、母は一人の男を本気で好きになってしまったのだ。
それが、キースレイ=セルダン伯爵というわけ。
十六の娘がいるとはいえ、まだ三十四の彼女の美しさは健在も健在。勢いの衰えることもなく、ばっしばっしと色んな男どもを引っ掛けてきたっていうのに。ついに引っ掛けられる側へ回ってしまうなんて。
しかも、そのメロメロのヘロヘロに魂を抜いてしまったセルダン伯爵っていうのが、母より十も年下の若造で!早々と婚約までしようとしているとなれば……許せるわけがない!
母にとっての一番は、父じゃなきゃだめなの。なにより、“お父様”の地位を他の誰かに譲るなんて、絶対にだめ!
……ああ、この問題を考えると、いつも胸の辺りがムカムカする。でも、私にはどうすることもできない。それでもこのいじらしい子供心を分かってもらいたくて、私は社交パーティーにも行かず、こうして自分の部屋に引きこもる毎日を送っている。母は、今日も男を求めてパーティーにくり出してしまったけどね。愛しのセルダン伯爵はどうしたんだか。
(セルダン伯爵……かぁ)
彼自身にも大きな問題が、ある。
名家の長男で、スラッとした長身の美青年。博識で、誰にも優しく紳士的で、その甘いマスクだけでどんな女でも腰砕けにしてしまう。
――表向きは、完璧な青年だ。
まったく懐こうとしない未来の義理娘と打ち解けようと、毎日のように未来の婚約者の家を訪れる。こんな逸話を聞けば、彼の肩書きに“誠実”の二文字も追加されることだろう。
でも事実はそう美しいモンじゃない。
要は、ただの暇つぶし。もしくは三十路を過ぎたオバサンを相手にするのに飽きての気分転換。もしくは仕事に疲れたときの逃げ場。……私を訪れる本当の理由は、そういったところだろう。
―――つまり、セルダン伯爵は誠実でも何でもない、極悪人なのだ。
もちろんセルダン伯爵は母のことを本気で愛してなどいない。他にもたくさん女がいるようだし。それに私の部屋でくつろぐ彼の姿といったら。母にぜひ見せてやりたいほどだ。いつもの誠実そうな素振りなんてどこかに吹っ飛んでしまって――貴族(しかもかなり位の高い)ということを疑いたくなるような、下賎な様子。母の前で見せる、あのとろけるような笑顔はいったいどこから引っ張り出してくるのか本気で考えてしまう。だって、私と二人でいるとき見せる笑顔といえば、口の端を少し吊り上げるような……すごくニヒルな笑顔ばかりなのだから。
まあはっきり言ってしまえば、彼は母以上の遊び人で狡猾な奴だということだ。
もちろん、彼に関する浮いたウワサもいくつかある。でもそういったものをうまーく丸め込んでしまえるほど、彼は頭も要領も外面(そとづら)もいい。
ただ、私だけは絶対に騙されないけれど。
――コンコン
その時、控えめなノックの音がして、そのあとに「お茶のご用意ができました」という召使の声が続いた。
引きこもりの私に(なんだか嫌な表現だ)、そうたくさんの娯楽があるはずもない。ティータイムは、そんな私にはとっても大切な、ちょっと心の安らぐ時間だった。
けれど、お茶を用意した召使が部屋を出るのと入れ違いに、新たな召使が顔を出した。一瞬で私は事態を把握する。なんせ、ここのところの日課のようなものだったから。
「お嬢様、セルダン伯爵がいらしております」
「今日こそ追い返し」
即座に返事をした。……しようとした。でも私のセリフは途中で止まってしまう。もうすでにセルダン伯爵が控えていたからだ。
「『追い返して』と言おうとしたね、フィーリア?……それはひどいよ」
甘〜い苦笑を浮かべて、そのくせズカズカと部屋に入ってくるセルダン伯爵。彼はいつも、私がお茶を楽しむ時間にやってくるのだ。
「こんにちは、フィーリア。ご機嫌はいかがです?」
「あなたがいらっしゃらなければ悪くはなかったのですけど、セルダン伯爵」
私はつんとそっぽを向いたまま、言ってやった。けれどセルダン侯爵のほうはくすりと笑っただけで、全くこたえた様子はない。
「どうかもうそろそろ“お父様”と呼んで欲しいね、フィーリア。そんなに私が迷惑かい?確かに、こうも毎日訪れられては、迷惑にもなるだろうけど……。私はフィーリアと仲良くなりたいから。ただ、それだけなんだよ」
ぞぞぞぞぞ。
背中を悪寒がつっ走る。
まだ召使が部屋にいるから、セルダン伯爵は外面モードで私に語りかけてくるのだ。本当にやめてほしい。体に悪い。
私が青い顔で黙っているのを見て、セルダン伯爵はかすかにほくそえんだ。……確信犯だ。
「まったく、あなたも意思の強い人だ。こうと決めたらてこでも動いてくれないんだから」
それって頑固って言いたいわけっ?
むっとするけれど、それを面(おもて)に出すのはなんだか負けたみたいで嫌だから、すました顔は崩さないように注意する。この頃になって案内役の召使は下がってしまった。……全くもう、年頃の娘を年頃の男と二人っきりにするなんて、なにかあったらどうするつもりなのだろう。なんといっても、結婚を考えている私の母親よりも、私との方が年が近いのだから、この男は。でもこの家の人間は、表向きのセルダン伯爵にすっかりほだされてしまっているから、そんなことは夢にも思わないらしい。――まあ実際、今まで一度もなんっにもなかったけれど。
「それで、何のご用です?」
「今更それはないだろう?ほぼ毎日のように逢瀬を重ねているっていうのにね?」
「おっしゃる意味が良くわかりませんわ」
ふん、と鼻息も荒く紅茶カップを口に運んだ。ちょうどそのとき、いらないのに、また別の召使がセルダン伯爵のお茶を持ってきてしまう。これがあると私の向かいに座られてしまうし、長居する口実にもなってしまうから、嫌なんだけど。
やはり彼は、当然のように私の向かいに座ってカップをもてあそび始めた。
「それにしても、君はいつ来てもこの家にいるんだね。母親のようにパーティーに行ったりしないのかい?」
「外には貴方のような方が大勢いらっしゃるんだと思うと、まっったく参りたいとは思いませんわね」
にっこり笑って言ってやった。皮肉がこの男には効かないと分かってはいるけれど、言ってやらねばこちらの気が済まない。
「でもそろそろパーティーにくらい顔を出さないと、いき遅れてしまうよ」
「んなっ……!」
さらりとかわされ、しかもしっかり皮肉を言われてしまった……。――いけないいけない、こんなことでむっとしていたら相手の思うツボだ。
すんでのところで出かかった文句を何とか喉元で止めて、私はつんとそっぽを向く。くやしいけれど、私にはそれが精一杯。気の効いた皮肉(?)はそうそう浮かんできやしない、このセルダン伯爵とは違うもの。
「おやおや、ご機嫌を損ねてしまったかな」
にやにや、という表現がピッタリな嫌味〜な笑顔を浮かべるセルダン伯爵。それでも絵になっているんだから、末恐ろしい男だ。
「あなたがこの部屋にいらした瞬間から、私の機嫌は最悪です」
「まあ、そう怒らないでほしいな。せっかくのティータイムなんだし、一緒に楽しもうよ。ね?」
「一緒に?あなたと?お茶を?楽しむ?――ホホホ、面白いご冗談!すこぉぉぉしだけ、楽しい気分になりましたわ。――さあ、また私の機嫌が奥底まで落ち込んでしまわないうちに、お引取り願いましょうかっっ?」
「うん、なかなかうまい言い回しじゃないか。男を追い返す話術にはだいぶ長けてきたみたいだ。……でもそれより、男を引き込む話術を勉強した方がいいんじゃないかな?まずはね」
むか―――っっ!!
ああ言えばこう言う男!!!
誰か……、誰か、こいつの口をふさいで!永遠に!佳人薄命っていうことわざがホンモノなら、もうそろそろこの人も死んでいいんじゃなかろうか!?
でもピンピンしてお茶を飲んでいる。まだしばらくあの世へ召される気配はない。――いやいや、人生何が起こるか分かったものじゃない。まだ諦めるのは早い、きっと。
――などと、私が一人(セルダン伯爵にとっては)空恐ろしいことを考えている間に、当の本人はつまらなそうに私の部屋を一瞥(いちべつ)した。
「いつも思ってたけど殺風景な部屋だね。君の母親の部屋とはえらい違いだ」
「母と比べないでくださる」
「これは失礼」
にっこり、と巷で言われる“麗しい笑顔”を浮かべ、彼は口をつぐんだ。
「……」
ひがんでる、とか思われたのだろうか。誰もが褒め称える、美しい母と比べられて。
そして心の中で私をバカにしているのだろうか。
「……私はあのだらしない母が嫌いなんですの。母があなたを本気で好いてしまったことで、もっと嫌いになりました。だから、あの人を比較の対象にされるのが嫌ということですわ」
「そう?」
「別に、それ以外の意味はないですから」
「そう?」
「……」
なんでなにも言わないのだろう、今回に限って。なんだか、これじゃあますます私がひがんでるみたいだ。
「まぁ、お互いが唯一の肉親じゃないか。母と娘、二人しかいないのに、いがみ合うのは残念なことだよ」
私のじれったい思いが通じてしまったのか、ふと、セルダン伯爵は口を開いた。
「……まるで他人事ですわね。あなたも将来その一員となるのに。肉親ではないけれど、家族の一人になる……はずではないんですの?」
「でも君が反対するから、そう簡単にもいかない」
「私が賛成しても、結婚なんかしないくせに」
「……へえ?」
すっ、とセルダン伯爵の目つきが変わった。……きた!今までの彼はまだまだ序の口。――これが、セルダン伯爵の本性――。絶対に、負けられない。
「心外だな。どうしてそう考える?」
「どうしてもこうしてもないわ。だって、そうでしょ?」
「君が私を心から新しい父として迎えてくれるときを、待っているんだよ、私はね」
くっ、と自分の三文ゼリフを楽しむかのように、彼は笑った。
「もう、目的は達成したんでしょう。だったらさっさと次のターゲットを探したら?」
「目的?」
「それほど面白いゲームでもなかったんじゃない?絶世の美女と謳われて、いろんな男たちを虜にしては掃き捨ててきた母を、逆に虜にする――なんて。意外に、アッサリだったでしょう?ゲームの終着点の“婚約”まで。あっという間だったでしょう?つまらない女よ、母なんて」
私が一人毒をはき続けているうちに、セルダン伯爵の瞳はどんどん冷えたものになっていった。口元に浮かんだ笑みはそのままだったけれど、私は不安になってくる。絶対に負けるポーカーをしているような……そんな気分。そもそも彼は、尊い爵位を持つ貴族というより、裏社会きってのイカサマ賭博師って言ったほうがずっとしっくりくるような人間なのだから。
「言うね、フィーリア」
ふっ、と彼の雰囲気が和らいだものに戻って、彼はどっかりとイスに腰かけなおし、その長い足を大きく組んだ。
「でも私には分からないの。どうしてあなたが未だに“誠実な婚約者”を演じているのか。もう、興味がないはずよ、母には」
「君はずいぶんと聡い子だね。でも――そこまで分かっているなら、その先がどうしてわからないかな」
「どういう意味?」
人を、見下すようなセルダン伯爵の笑み。……これが本当に癇(かん)に障る。
「気が変わったんだ」
「なんですって?」
「確かに、君の言うとおり。君の母親を落とす、軽いゲームだよ、これは。婚約までこぎつけたら、もう彼女にも君にも用はない。……つもりだった」
「つもりだった?」
「まだ、君が残ってるじゃないか、フィーリア」
――は?何を言い出すのだ、この男は。ますます意味わからない。
「君は母親のオマケだったから、適当に手懐けておけばいいかな、と思ってた。でもどんなに愛想よくしても、全然懐こうとしなかったからな。それどころかどんどん警戒を強めていって、私を睨みつけるようになっていった。今まで一度もない反応だったよ。そんな君をからかいに来るのが、面白かったんだけど」
「……」
「やっぱり気が変わった。君を手懐けてみせようと思ってね。まだもうしばらく時間がかかりそうだけど。君の母親なんかよりよっぽど強敵だからな、意外に」
セルダンはわざとらしく肩をすくめてみせやがった。
「――でも面白いよ、おかげでね」
「ふっふざっ―――――」
一貴族の娘として、どうにか言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「――私があなたな・ん・か・に懐くと思ってるの?そんなねじ曲がった本性をさらしてしまった、今さら!ずっと紳士ヅラでもしていれば、今頃父として慕っていたかもしれないのに」
不適な笑みをたたえたまま、セルダン伯爵は席を立った。――どうするつもりなのかしら、帰るにしてはまだ早い……
「君に対してそんなやり方じゃ生ぬるいだろう。――ま、それに、今さら父として慕ってもらいたくもないしね」
「はぁ?じゃどういうつもり……」
「女心ってのは随分と複雑なようだから、嫌い嫌いと思ってもすっかり当てられてることもあるらしい。実際、そういうのを体験してみるのも面白そうだ」
セルダン伯爵は片手を挙げて、ドアのところでにっこりと、例のとろけるような“作り笑い”をしてみせた。
「まあ覚悟してるんだね。今度はフィーリア、君を落としてみせる。――“女”を落とすのに宣戦布告したのはこれが初めてかな。それじゃ、また明日」
あっけにとられて何も言えないでいるうちに、セルダン伯爵は部屋を出て行ってしまった。
……
…………
ちょっと、それってどういう意味?……まさか、ねぇ。いくらあの母と張るほど女好きのセルダン伯爵といえど、女の趣味くらいはあるだろう。……と、思いたい。
――意外すぎる展開に、しばし呆然(ぼうぜん)として、その場に突っ立ってしまった。
……でも。これは、私が頑張れば、あいつをヘコませるチャンスかも、しれない。きっとどんな女でも手中に落としてきたであろうセルダン伯爵に最後までなびかなければ、彼はどんなにプライドを傷つけられるか。
そうだ、これは我がアーヴィング家の汚名を返上するいい機会に他ならない。遊び人の母が、遊び人のセルダン伯爵に落とされてしまったという汚名を、返上する、機会。
―――受けて立ってやる。
これからは毎日あいつのためのお茶も用意してあげる。存分にへこまして、立ち直れないくらいにしてやるから。
私はにっと挑戦的に微笑んで、もう冷めてしまった紅茶の残りを飲み干した。