19.

 その日、空は爽やかに晴れ渡っていた。冬の空はとても高くて、ずっと見上げていると吸いこまれていきそうだった。――いや、空に落ちていく、という言い回しのほうが、この感覚をより確かに捉えているだろうか。

 私は庭を散策しながら、これまでのこと、そしてこれからのことを、ずっと考えていた。
 あまりにも奇妙な形で出会った、セルダン伯爵と私。父娘としてお互いを敬愛することも、男女としてお互いを熱愛することも、できない二人だった。そしてまた、赤の他人としてやり過ごすには、あまりに近いところにいすぎる二人だった。年齢や、互いの境遇、そのほか様々な要因が混ざり合って、私たちの関係は非常に歪曲し、複雑なものになっていた。だから私たちは、そういったややこしいものを全部とっぱらって、無知な引きこもり少女と華やかな遊び人青年という単純な被りものを持ってして、ぶつかり合っていたのだ。どうして私はあんなにあからさまにセルダン伯爵を嫌悪し、またセルダン伯爵も私に対し軽蔑の色を隠さなかったのだろうと考えた時、そうした結論に思い至った。
 私は――そんな型にはまった「遊び人」の影にちらつくセルダン伯爵の本性に気付いてしまい、次第に惹かれていくことになる。本性といっても、いつも彼は飄々としていて、からかいの対象として私に接していたものだから、はっきりそれと分かったわけではないけれど。でも、セルダン伯爵は軽蔑する人間にも朗らかな笑顔で優しく接することのできる人間だ。そうした仮面を時々脱ぎ捨ててくれただけでも、私にはありがたかった。そしてそのおかげで、軽い態度の奥に潜む、セルダン伯爵の本音の部分に、今やっと目を向けることができたのだ。
 それが私に対する好意ゆえだったのかどうかは別として、セルダン伯爵は、確かに私と向き合ってくれた数少ない人物だった。可愛げもなく、世間知らずで、ただ威勢がいいだけの私を、気に入ったと言ってくれた。そして、もっと自分に自信を持てと言ってくれた。私の威勢が、大嫌いな自分を取り繕うための虚勢に過ぎないと見抜いてくれた。その虚勢を本物に変えろ、と。いつもバカなことを言いながら、それでもセルダン伯爵は私のことをしっかりと見ていてくれたのだ。
(こんなことに、今頃になって気付くなんて……)
 何かを知ろうとすればするほど、目の前のことも見えなくなって、一人もがいて。何かを考えようとすればするほど、全てがめちゃくちゃになって、一人悩んで。いつも私はそうだった。でも、ただ心を静め、ゆっくりと顔を上げて前を真っ直ぐ見つめれば――色んなことがはっきりと見えてくることに気がついた。そしてようやく、どうして私がセルダン伯爵に惹かれていたのか理解することができたんだ。
(もう、別に、理由なんてなんだっていいんだけど)
 ただ若者にありがちな軽いな気持ちでセルダン伯爵にのぼせ上がっているんだとしても。もう、別に、いいや。それが悔しいなんて、思うのはやめにしよう。
(そう、いいんだ。もともと、成就させたい恋ではなかったし。)
 私は、これから本当に変われる気がする。望んでいた変化を遂げられる。成長、と言いかえてもいいかもしれない。これからきっと、かけがえのない日々を過ごすだろう。
(その日々を、あの人と共に過ごしたい)
 叶わない望みだとしても。今、この気持ちを見捨てたりはしない。そう学んだのだ。私は、私のこの気持ちを愛している。だから――
「伝えよう、この気持ちを。そのまま、思ったとおりに」
 私らしいやり方で。

 その時ふと、腰かけていたベンチに影が差した。振り向くと、ベックフォード侯爵が微笑みながら立っている。「いいかな?」と仕草で問われ、私は頷いてスペースを空けた。
「今日は本当に、気持ちのいい天気だ」
「そうですわね」
「まさにデート日和だな。そう思うだろう?」
「そうですわね」
「……なんだか、つれないな」
「そうですわね」
 まだ怒っているのか、とベックフォード侯爵は頭を抱えた。
 当たり前だ。プロポーズの件は、やはりというか、ベックフォード侯爵がセルダン伯爵に耳打ちしたのだった。大して悪びれた様子もなく「私が言った」と白状されて、これが怒らずにいられるか。……とはいえ、まあ実は、もはやそれほど怒ってもいないのだが。それでも少しは反省してもらうべく、こうしてそっけない態度を通しているわけである。
 今日は、ベックフォード侯爵に誘われて、庭園にピクニックへやってきた。私とベックフォード侯爵が二人きりというのに反発したステラも一緒についてきている。どうやら彼女は、本気で私とセルダン伯爵を結び付けようと、使命感に燃えているようなのだ。この大事な時に邪魔者に入られてはたまらない、そんなわけで監視役を買って出たのだった。
 この奇妙な三人の取り合わせは、しかし意外にうまく行く。お互い身分の壁を越えて何の気兼ねもなく接することができるし、色々と共通点を持っているので話題に困ることもない。……そして密かに、こうした関係が進んで、ステラとベックフォード侯爵が結ばれたりしないかなあなどと期待しているのだが、物語はそう都合よく運んでくれないようである。二人ともお互いに必要以上の関心を抱いていないらしく、二人きりで逢ったりということはしていないようだった。
「ステラは?」
「使用人たちと少し話しているようだ。そのうち、こちらへ来るだろう」
「そうですか」
「……フィーリア、キースにプロポーズのことを勝手に告げたのは謝る。だからもうそろそろ、機嫌を直してくれないかな」
「そうですわね」
「……フィーリア、先ほどから、『そうですか』と『そうですわね』しか口にしてくれないようだが」
「そうですか?」
「フィーリア!」
 その情けない声に、私はプッと噴き出してしまった。そんな私の様子を見て、ベックフォード侯爵はほっとしたようにベンチに座りなおす。
「そのエルバートのことだが、断ったんだって?」
「……ええ、まあ。でもまだ考えてほしいと、言ってくれたんですけどね」
 そうなのだ。ほんの二日前、私はエルバートお兄様にきっちりお断りの返事をした。――やっぱり、私の中にあるお兄様への気持ちは、そういった種類の愛情ではないから。本当に本当に大切な人だけれど、今の私の心の中には、セルダン伯爵でいっぱいなのだ。そうと分かっているのに、キープするかのような形でお兄様への返事を先延ばしにするなんて、そんなことはできない。
 その旨を告げると、お兄様は心得ていたように頷いて微笑んでくれた。けれど、まだ待たせてほしい、と。いつか私が振り向くのを、待たせてほしいのだと、お兄様は言った。
「だが、そうなると、その……フィーリアは」
 珍しくベックフォード侯爵が言葉を濁す。
「別に、セルダン伯爵と結婚したいとか、そういうつもりじゃないですわよ」
 先に私がはっきり告げると、ベックフォード侯爵は多少面食らったような表情をして、なお口重たそうにうめいた。
「エルバートのプロポーズを断ったのは、……キースのことが、少なからず、あったからなのでは」
「うーん……、そうですわね。確かに、私、セルダン伯爵のことが好きですし」
 自分でも意外なほど、すんなりと認めることができた。
「――なら!」
「でもだからって、別に向こうにも私を好きになってもらいたい、というわけではないですから」
「なんだって?フィーリア、君はそれでいいのか」
「いいですよ。でも……なにも行動しないのは、嫌ですけど。思っていることは、全てセルダン伯爵に伝えようと思っています」
「ああ――、そういえば明日の舞踏会のパートナーとして、キースに誘われているとか……」
 こくり、と私は頷いた。だがそれと同時に、怪訝(けげん)な瞳をベックフォード侯爵に向けずにいられない。
「……あの、ベックフォード侯爵が、セルダン伯爵に私を誘うようそそのかしたんじゃないんですか?」
 すると当のベックフォード侯爵は、さも驚いたというように目を見開いて、首を振った。
「――なにを、人聞きの悪いことを!まさかそんなこと、するはずがないじゃないか」
「あら、私はてっきり、まだ私とセルダン伯爵をくっつけようと色々画策してらっしゃるのかと思っていました」
「あのなあ。もしそうだとしても、頼まれたからといって、あいつが自分の好まぬことをするはずがないじゃないか。何の特にもならぬのならな。君を誘ったのは、完全に、あいつの意思だよ」
 そうなのだろうか。だとしたら、一体何のために?――もしかして、明日のパーティーで、賭けの決着を、つけようと?私にあの人を好きだと言わせようとしているのかもしれない。だとしたら、セルダン伯爵の計画性にはいっそのこと感心する。――そうね、全てはセルダン伯爵の意のままに。でも……。
「とにかく、明日、あいつに気持ちを打ち明けるんだな?」
「ええ、そのつもりです」
「それでもし、あいつが君の気持ちを受け入れたら……いずれは結婚という流れに、もちろんなるだろう?」
「え、そんな、まさか受け入れるだなんてこと」
「ありえないっていうのか?」
 ありえないだろう。ここ数日でも色々と考えたが、やっぱり向こうに、そういう気は無いだろうという結論に達したのだ。ただ私は、自分のやりたいようにするだけ。
「それじゃあ、気持ちを伝えるだけ伝えて、フラれて終わりというつもりなのか、最初から」
「そうね……、その言いようはなんだか釈然としませんけど、そういうことなのかしら」
「もしキースも君のことが好きだと言ったら?」
 大真面目な顔で言うものだから、私はまた噴き出してしまった。
「そしたら、それはその時に考えますよ」
 私の答えがお気に召すものではなかったのか、ベックフォード侯爵は脱力して空を仰いだ。
「君は、本当に――。もう、そこまで鈍感で一直線ならば、いっそ愛らしいな」
 フッと笑って、ベックフォード伯爵は身体を起こした。そして素早い動作で、私の額に、軽いキスをする。
「!!??――なっ、なにを!!」
「本当に、飽きぬ娘だなぁ、君は」
「そっ、そんな言い方、失礼です!」
「褒めているんだぞ」
 なんとも言えない、奇妙にほのぼのとした雰囲気に包まれた時――遠方から響く声。
「――ちょっと、ベックフォード侯爵、フィーリアに何をなさっているんです!?」
 可憐な美少女が、息を切らしながらこちらに駆け寄ってくる姿が、私たちの目に入った。