18.
もう、本当に、最悪だ!
どうしよう!恥ずかしい!最悪!むかつく!死にたい!最悪!
……あああもう、これ以上、私の頭を混乱させないでぇぇ!
なんだったんだ、この間のティータイムは。
セルダン伯爵との最後のお茶会。そりゃあ今更、「楽しいものになれば」なんて、これっぽっちも期待していなかったけれど。でもだからって、アレはないんじゃない!?
散々罵倒され、コケにされ、なぜか勝手に拒絶され、挙句の果てには私の気持ちを見透かしたような捨てゼリフを吐かれ――ホントもう、泣きたい。
そもそも、何故セルダン伯爵が、エルバートとのことを知っていたのか。大方、エルバートから報告を受けたベックフォード侯爵が、ネタとしてセルダン伯爵に吹き込んだのだろう。ベックフォード侯爵め、今度会ったらただではおかん。
あの時は言われるがままの私だったけれど、今思い起こすと、どうしてあそこまでズタボロに言われなきゃならないんだという割り切れない気持ちになる。ふつふつと怒りが沸き起こって、私の中で渦巻いているようだ。……そうよ、私ってばどうして文句の一つも言い返さなかったのだろう。確かに私はあのとき、焦燥しきっていた。馴れない色恋ざたで頭を悩ませすぎて、思考回路がまともに働いていなかったのかもしれない。――でも!でも、だからって、あそこまで言いたい放題言われて、どうしてそのまま帰してしまったのか。少なくとも今の私なら、全身全霊をかけて“あの一か所”だけは否定しまくるのに……!
君が好きなのは、この私なんだろう――
ぐわあぁぁぁ、恥ずかしすぎて足が勝手に地団太を踏んでしまう。
その、まぁ、それは、その通りなんだけど。でもっ、認めてたまりますか!絶対絶対、認めたくない!
だってセルダン伯爵のあの勝ち誇ったような顔――。そんなわけないじゃない、バッカじゃないの、と鼻で笑ってやりたかった。だけどあの時の私は、打ちひしがれたような表情でセルダン伯爵を見送ってしまって。きっと、やっぱりコイツも安っぽい女だったって、思われてる。――くやしい。
でも、そんな考え方って、やっぱり間違っているのかなぁ。くやしい、だなんて、片思いの人に対して抱く感情じゃないよね。……この間、エルバートが言っていたのを思い出す。気持ちをそのまま伝えればいい、って。もしその通りにするのなら――あの時、何も言わずにセルダン伯爵を見送るべきじゃなかった。けど、だからといって、くやしがって「バッカじゃないの」なんて言うべきでもなかった。「そうよ、私はあなたのことが好きなの」と潤んだ瞳で訴えるべきだったのかもしれない。
(でも、それってやっぱり、――私らしくないじゃない!)
セルダン伯爵は言っていた。もっと自分に自信を持てと。もっと、自分に、自信を。そう、自分らしさ……自分らしさを、大切にしたいの。私は私なんだ。そう言ってくれたのは、他でもない、セルダン伯爵。
変化するということは、今までの全てを捨ててしまうということではない。あらゆる全ての物事は、繋がっているんだから。私自身も、そう。変わりたいと願っても、今までの自分を見捨ててはだめだ。受け入れなければ。嫌いだった自分も、受け入れて、認めて、そして前へ進むんだ。
――前へ。
私は、ごくりとつばを飲み込んだ。今、めったに足を運ぶことのない部屋の扉の前に立ち――ノックをしようと右手を掲げている。
意を決して、私はその右手を動かした。
コンコン。
「――お母様、入るわよ」
返事を待たず、扉を開く。だって「嫌」なんて言われちゃったら、進むことも引くこともできなくなってしまうじゃない。もう決めたの。絶対、前に進むって。
ふわり。
扉を開いた途端、柔らかい香りが鼻腔(びこう)をついた。――ああ、お母様の香りだ。
久方ぶりで入ったお母様の部屋は、私の記憶どおり、昔とほとんど変わるところはなかった。私の気張った決意を和らげてくれるような、優しさに満ちた空間。明るい日差しが大きな窓から差し込んでいて、そっと私を包み込んでくれる。
お母様は、その部屋の中心に座って、窓の外を眺めていた。
「……お母様」
「……いつの間にか、花が咲いていたのね」
唐突な言葉に、私は驚き、眉をひそめる。
「ほら、あそこのアリッサム。毎年、冬にあの花が咲き始めるのを楽しみにしていたのに」
つ、と細い指で窓の外を指差す。部屋の入り口からではお母様のその儚い姿しか見えないけれど、白い花が一面に咲き誇る姿は、すぐに思い浮かべることができた。お母様が昔から大好きだった花だ。それでお父様が、お母様の部屋から一番綺麗に見える場所に植えるよう庭師に言いつけたのだっけ。
「……そういえば去年はすっかり忘れていたわ。もう少しで今年も忘れたまま、一年を過ごすところだった」
「――」
「フィーリア、あなたのことも、ずっと置き去りにしていたのね」
初めてお母様はこちらを振り返り、か細く微笑んだ。
「そんなところに立っていないで、こちらへいらっしゃいな。――せっかくだから、一緒にお茶でも飲みましょうか」
手招きされるがままに、私はお母様の側へ寄った。そして目に入った窓の外一面の白い花に、言葉を失う。――お父様の面影が、あまりにも強く感じられて。
「本当に、とても綺麗な純白。あなたのお父様のように、優しくて大らかで、素朴だわ」
「……ええ」
ずっと、お父様の話をしようとしなかったお母様。でも今は、こんなにも柔らかい表情で、いとおしげにお父様のことを思い起こしている。私も不思議と優しい気持ちになって、お母様の側に腰を下ろした。お母様の合図で、召使たちが温かいお茶を用意する。
「庭師もあの花が好きだと言っていました。一つ一つは小さな花なのに、こうしてたくさん集まると、人の心を大きく動かす力を持ってるって」
「そう、庭師が、そんなことを。……彼の名前はなんといったかしら?」
「サムです。長年我が家の庭師を務めていたマーチンの息子で、一年ほど前から庭造りに携わるようになりました」
「そう……。彼とは一度も言葉を交わしたことがなかったわ。ずっとこの家のことは放っておいたから……。今もこうして昔のままのお屋敷でいられるのは、彼らや召使たちのおかげだというのに」
「お母様、気付いておられません?――アリッサム、いつもよりもずっと広い範囲に咲き誇っているんですよ。この秋、サムが喜んで、例年よりたくさんの苗を植えたんです。同じ花だけど、去年とは違う姿を見せてくれている。……サムは他にも、いろいろと新しい花を植えているようですから、今度の春はまた違った庭になっているかもしれません。少しずつ、この屋敷も変わっているんですよ。以前の美しさはそのままですけれど」
望むべきは、この姿。
「――お母様、私たちも、少しずつ変わっていかなくては。昔のままでいたいと、いつまでも願うのはもう終わりにしなければなりませんね」
「そうね……、本当に、そうだわ」
窓の外の白花を見つめ、お母様は静かに頷いた。
「もういい歳して、私は本当にだめね。娘のあなたに何ひとつしてあげられることもなくて。逆に、こうして手を引いてもらっているなんて」
「お母様……」
「セルダン伯爵のことも、ごめんなさい」
どくん、と胸の鼓動が高鳴った。お母様の口から彼の名前を聴くのは、これでたったの二度目だ。一度目は、彼との婚約を考えていると突然宣言された時だった。
「愚かだったわ、私も彼も。お互い、本当は相手のことを好きでもないのに、婚約まで考えてしまうなんてね。特に私は、あの人に夢中だと思い込もうとしていた。娘のあなたのことも、夫のことも、考えないようにして……」
「きっと、そうすることでお母様はお母様なりに、自分を守ろうとしていたんだわ」
「ええ、とても愚かよ。あなたとセルダン伯爵の間に、いつまでも割って入って。本当に愚かだったわ」
……ん?
「えっと……お母様?」
今、なにか聞き捨てならない台詞が。
「もう、私は大丈夫よ。あなたたちの邪魔をしたりしないわ。もちろん、今さら私が何を言っても許されないし、意味のないことだとは分かっているけれど……。母親として、あなたたち二人が結ばれてくれればと、心から思っているわ。それだけは信じてほしいの」
ちょっと待って。
「あの、ちょっと、話がよく見えないんですけど……。私とセルダン伯爵が、何なんですか?」
お母様は、とても鮮やかな、美しい笑みを浮かべた。
「惹かれあっているんでしょう?お互いに」
――――。
あまりに驚いて、私は言葉を失う。
「気付いていたわ。でも、気付かないふりをして、自分が主役の恋愛に没頭しようとしていた」
それももうおしまい、と、にっこり笑ったお母様は、まるで恋の話が大好きなあどけない少女のようだ。
「お、お母様。それは何かの間違い……」
「あら?そうかしら。だって二人とも、毎日のように会っていたじゃない。セルダン伯爵が我が家に足を運んでいたのだって、あなた目当てだっていうのは分かっていたわ」
そ、そうか。分かっていたのか。でででも、そこにはお母様が想像しているような甘い理由は……微塵も存在しないんですけど。
「一度、あなたがどこかのバラ園に出かけてしまって、セルダン伯爵とすれ違ってしまったことがあったじゃない。その時の彼ってば、もう本当に不機嫌で、大変だったのよ。私といてもちっとも楽しそうじゃないし。あの人、機嫌が悪くてもそれを完璧に隠し通すことができるような人でしょう?でもあのときばかりは、なんて分かりやすい人なのかしら、って呆れちゃうほど、あからさまだったの」
そういえばそんなこともあっただろうか。うーん、どんな形であれ、女に適当な扱いを受けたのが屈辱的だっただけだと思うんだけど……。
「確かに私たち、よく会ってはいましたけど、毎日ケンカばかりしていたんですよ」
「そうなの?セルダン伯爵は、あなたと会うのを楽しみにしていたみたいだったけれど」
「それはそうでしょうね!いつも私をバカにしては喜んでいたんだから。私はそれが悔しくて、いつか一泡吹かせてやろうと思っていたんです。ついに叶わなかったけれど」
「じゃあ、フィーリアの方は、別にセルダン伯爵が好きというわけではないのねぇ」
くすり、とお母様は笑った。
……いえ、実は今現在は、好きになっちゃったんですが。――まぁ、そんなことをわざわざ付け加えなくてもいいか。
「それじゃあ、あの人にとっては初めての片想いになるのかもしれないわね」
恋話が大好きな、永遠の少女の微笑は、いたずらっぽくて魅惑的だった。
「――は?」
「セルダン伯爵はね、あなたのことが好きなのよ」
さらり、と言ってのけたお母様。
いやあの、待ってください。
「あの人も恋愛経験は豊富なんでしょうけどね。同じ恋愛好きでも、私のほうが十も年上なのよ。一緒にいれば、それなりに彼の気持ちが伝わってくるわ」
ですから、待ってください。
「フィーリアも、どんな形であれ、彼とは随分一緒にいたから分かるでしょう?いつも、真っ直ぐなものを求めている人だわ。何に関しても、紛い物は大嫌いな人なの。きっと本当は、遊びの恋愛なんてくだらないと思ってるでしょうね。だけど、そういった『くだらないもの』でさえ、自分の糧にできてしまう。そうしながら、自分が本当に求めているものを探しているのよ」
あのー……。
「フィーリアは、お父様に似て、素朴なのにどこか高貴なところがあるわ。それに包容力もあって、とても真っ直ぐだし。私はセルダン伯爵と似たもの同士だからわかるの、彼はあなたに惹かれてる」
そんな……きっぱり断言してくれちゃって。当の本人である私には、そんな様子これっぽっちも感じとれなかったんですけど。だって私とセルダン伯爵じゃあ、何もかもがあまりに違いすぎて。こんなただの小娘である私のどこに、セルダン伯爵が惹かれるというのだろう。そんなの絶対、ありえない。
「だめよ、フィーリア」
私の心のうちを見透かしたように、お母様は人差し指で私のおでこを軽くついた。
「セルダン伯爵を振るんだとしても、ちゃんと彼と向き合ってあげないと。下からの目線で、彼を突き放してはだめよ」
「でも……ありえませんから、そんなこと」
「もっと自分に自信をもってもいいはずよ」
その言葉に、先日のセルダン伯爵の言葉が重なる。でも、対セルダン伯爵に関して、わけの分からない自信を持っていいという意味ではないはずだ。これじゃあ……自信を持つ、というより自惚れる、というような……うんそうだ。まさにそれだ。
神妙な面持ちで黙り込む私を見て、お母様はやれやれと息をついた。
「それじゃあフィーリアがもっと自分を信じられるように、一つ教えてあげるわね。――この間、セルダン伯爵が婚約話の取りやめについて話をしに来たでしょう。そのとき私は、最後に『きっともう会うことはないのでしょうけど、お元気で』って言ったの。そうしたら彼――『いいえ、また毎日のようにお目にかかれることを、願っています』……ってね」
なにそれ!
「信じられない!別れたその日に、ヨリを戻すつもりでいるなんて!」
「違う、違うわ、フィーリア」
ようく考えてみて、とお母様は笑った。
「その時のセルダン伯爵の中には、もう別の誰かさんのことでいっぱいだったのよ。ねえ、ようく考えてごらんなさい」