epilogue

 この世界は、奇跡に満ち溢れている。
 星降る夜。どんな稀有な宝石よりもまぶしく気高い宙(そら)の至宝が、黒いヴェールに散りばめられる。その美しい奇跡の見守る中、私を優しく包み、劇的な世界へと連れ去ったのも、やはりまた代えがたい奇跡だった――。

 あの晩のことを、きっと私は一生忘れない。
 思い出せば、今もおぼろげに目の前に浮かんでくる。美しく、幻想的で、魅惑的なあの世界。ふとした瞬間には全てが夢だったのかもしれないとさえ思われるほど儚いけれど、セルダン伯爵の力強く温かい腕の感触や耳元をくすぐる甘い囁きは間違いなく本物だった。そしてあの口づけも。
 夢と現(うつつ)がない交ぜになる、不思議な感覚。
 それは今、過去のことを思い出そうとしているがゆえに陥る感覚なのではない。あの晩そのものが、夢のような現実だったのだから。だからこそ、場の雰囲気に完全に飲み込まなれかった自分が今も不思議でならない。

「ごめんなさい」――と。

 最後の最後に、私はそう口にしていた。

 その時のセルダン伯爵の絶望的な表情は、やはり忘れることができない。
 激しい口づけのあと、観客と化した客人たちの拍手とざわめきは瞬く間に会場の色を塗りかえていった。会場の片隅で何が起こっていたのか、ほとんどの人に知れ渡ってしまったのである。にわかに色めき立った会場に辟易し、私はただ頭(かぶり)を振ってその場を逃げ出した。もちろんセルダン伯爵も追っては来たが、あの状況で私に何が言えただろう?
 人気のない長い回廊の真ん中まできて、セルダン伯爵は私の肩を強くつかんだ。厭う私に構わず、そのまま振り返らせる。もちろんセルダン伯爵は、彼の言葉なき告白を受け入れる私の一言を待ち望んでいたのだろう。けれど私は――。

 後日、事の成り行きを知ったステラは、バカだバカだと散々ののしり激怒した。お互い想いあっているのに、どうして結ばれないなんて道理があるの?そう言って、ステラは激しく脱力した。今からでも遅くないから飛んで行って謝ってこいと、背中も押されはしたけれど。私には……できなかった。
 私のセルダン伯爵への想いは本物だ。それにおそらく、今回ばかりはセルダン伯爵も本気で胸のうちを告白してくれたと思う。だからあの時、セルダン伯爵にキスされて幸せを感じた。あのまま全てを受け入れたいという気持ちも大きかった。
 でも、私は怖いんだ。
 セルダン伯爵の告白は、仕組まれたゲームの一部だったのかもしれない、とか。私はたくさんの恋人たちのうちの一人にしかなり得ないのかもしれない、とか。この期に及んでそういった不安の種はいくつもある。しかし私を最も蝕んでゆくのは、すぐに飽きられ捨てられてしまうに違いないという冷たい予感だった。あれほど情熱的な口づけを知ってしまった今、その後にもたらされる幸せよりも、更にその後に訪れる絶望の方が切実に迫ってきたのである。
 つまりはセルダン伯爵を信じることができなかったということだ。

 窓から穏やかな日差しが差し込んでいる。私は入りたてのお茶に口をつけ、ほっと息をついた。
 ……平和だ、とても。
 私はこれからどうするのだろうか。どうしたいと願っているのだろうか。私はどこへ向かおうとしているの――。

 コンコン。

 控えめなノックの音。返事をすると、入ってきたのは召使の一人だった。どこか困ったような面持ちをして、あの、と口を開きかける。――とっさにイヤな予感がした。
「お嬢様、セルダン伯爵が――」
「すぐに追い返し」
 即座に返事をした。……しようとした。でも私のセリフは途中で止まってしまう。返事をする暇さえなく、セルダン伯爵が姿を現したのだ。しばらくぶりに見る彼は、何も変わっていないように見えた。
「『追い返して』と言おうとしたね、フィーリア?……相変わらずひどいな」
 甘〜い苦笑を浮かべて、そのくせズカズカと部屋に入ってくるセルダン伯爵。……あれ?なんだか激しくデジャヴを感じるんですけど?
「久しぶりだね」
「えぇ……っと。あの、な、何のご用かしら」
 あまりにも気まずくて、声が上ずってしまう。秀麗な笑みを浮かべるセルダン伯爵も、やはり胸のうちは“何も変わらず”というわけにはいかないようで、非常に微妙な空気が部屋を包み込んだ。召使はその雰囲気に耐えられなかったらしく、慌てふためきながら早々に部屋を出て行ってしまう。裏切り者ー!
「用がなければ、逢いに来てはいけないのかな」
 はあああっ?とお腹の底からうめき声が出そうになった。あの晩あんな出来事があったばかりで、気まずいと思っているのは私だけなの?ほ、本当に理解に苦しむ。この男性(ひと)は。
「いけないというわけではないけれど、不可解なことじゃないですか」
「愛しい人と三週間も逢えなければ、苦しくもなる」
 ううううう、とまたしてもうめきそうになる。
「あのねぇ、さすがにもう、勘弁してほしいんだけど……」
「冗談でこんなことを言っているとでも?」
 本気でこんな寒々しいことを言っていると思いたくはない。
「残念ながら、本気だよ。私は」
 見透かしたように言われ、私はううっと言葉につまった。
「君はおそらく私のことを信用できないのだろう」
 ずばり、と真意をつかれ、私は激しく狼狽する。――いきなり用件を聞いた私も私だけれど、セルダン伯爵ってばあまりにもストレートに本題に入りすぎじゃない!?
「こういうのを自業自得というんだろうな。今までの私の振る舞いからすれば、この気持ちを信じてもらえなくても仕方あるまい」
「し、信じていないわけじゃ」
「今この気持ちに偽りがなくても、長続きはしないと思っているんだろう?」
「それは」
「この三週間、君が何を思い何を望んでいるのか、ずっと考えていた。私が諦め、フランシス子爵に譲った方が君のためになるかとも本気で悩んだ。――が」
 が?
「そこまで考えて、それはあまりにも馬鹿げていると気付いた」
 ば、馬鹿げてるのっ?その至極自然な流れの選択肢がっ!?
「それで君のためになっても、私のためにならねば意味がない。君も分かっているだろう?私はもともと傍若無人な人間だ。本気で手に入れたいと思ったなら、易々と諦めたりしない。いや、今回ばかりは絶対に、だ。他のどんなものをかなぐり捨ててでも、私は君を手に入れる」
 なななななな……。
「そっ、それ、あの、ちょ……」
 もはや言葉になりません。
「もちろん他の女性とは全て縁を切った。結婚を考えた女の娘にまで手を出したと世間の非難を浴びても構わない。君が侯爵家の嫁として相応しくないなどと抜かす奴がいるなら断固として戦い抜く」
 茫然自失。その時の私の心境を表すのなら、この言葉ほど適切なものはなかった。
「とにかく」
 はあ。
「今日は宣戦布告をしに来たんだ。――新たな賭けを、しようじゃないか。ただし必ず君が負ける賭けだ。フィーリア、君を必ず手に入れてみせる。覚悟を――しておくんだね。それじゃあ、また明日」

 ふわりとした笑みを浮かべ、しかし瞳だけはあまりにも真剣に、セルダン伯爵は言い切った。
 そんな彼が部屋を後にするのを、唖然としたまま見送って――。

 ――また、受けて立つことになるのかしら。
 前回とほとんど変わらない、けれど一番大切な何かが、決定的に違う賭け。

 私はふっと柔らかく微笑んで、もう冷めてしまった紅茶の残りを飲み干した。

〜end〜