03.

 わざわざ痛んだ外套に身を包んだリアンだったが、この貧民街から浮いてしまうのはどうしても避けられなかった。しばしば、一種独特の雰囲気をまとっていると言われるリアンだったが、その実、場の雰囲気に溶け込んで気配を消してしまうのは割と得意である。それでもここではいかにも「余所者」――周りの住人達の視線が痛い。マナを連れてこなくて正解だった。
 廃墟としか思えぬ建物の側に座り込んでいる子供に小銭を握らせ、目当ての場所を教えてもらう。ケストナーの名を出せばすぐに反応を見せた。若干入り組んだ先にあるらしいが、ここからそう遠くないようだ。小銭を受け取った子供はさっと身を翻して走り去ってしまった。
 言われたとおりに路地の合間を縫って歩き、ケストナーの家を目指す。この地区でも更に貧富の差があるらしく、家を持つ者もいれば完全に浮浪者として道端に寝転がっている者もいた。
(この角を曲がったあたり……)
 あのような子供でさえケストナーを知っていたのだから、この辺りでは有名な存在なのかもしれない。しかし。
(――おかしいわ)
 小汚い裏路地に足を踏み入れたリアンは不意に立ち止まった。馬車などはとても通ることのできない細い道、その両脇には薄汚れた建物が規則正しく並んでいる。人気(ひとけ)はほとんど無い。
(おかしい……、ここにケストナーはいない)
 理由はなかった。これこそがリアンの直感であった。ふり返ると、いつの間にか数人の男達がリアンのすぐ側をうろついている。そのうちの一人と目が合うと、途端に男の表情が険しいものに変わった。
(――逃げなきゃ!)
 迷わずリアンは駆け出した。思ったとおり男達もその後を追いかけてくる。――あの子供にはめられたのだ。
(最初におかしいと思うべきだった。ケストナーの名前を聞いただけで、まだ年端もいかない子供がスラスラと迷わず道案内できるはずなかったんだわ。外部の人間が誰かを訪ねてきたら、あの場所へ誘導するよう教え込まれていたのよ)
 この地区は貧しい人々の溜まり場である。同時に、ただ貧しいだけではなくやましい事情のある者たちも流れ込んでくるのだろう。そうした者達を互いにかばい合って独自の社会を築き上げているのに違いない。
 リアンは四方に伸びる路地を巧みに縫って走り続けた。地の利は向こうにある。といえど、ここもホーテンダリアの街の一部には違いない。ならば根本的な構造に違いなどあるはずなかった。ホーテンダリアのことならば、リアンとて十分に知り尽くしている。この街の路地に行き止まりはほとんど無い。どんなに入り組んでいても、その道は必ず大通りに出くわすようにできている。ならば、今現在自分がどこにいるのか分からずとも、ひたすら進み続ければいつかは人の多い通りに出ることができる。
(そこまで行けば、さすがにアイツらも私に手出しはしないでしょう)
 こことて全くの無法地帯というわけではない。自衛団の目は多少なりとも光っているのだ。あまり派手に動けば痛い目を見るのは向こうである。
 走り続けるリアンの瞳に、小さな影が飛び込んできた。――先ほどの子供である。向こうもリアンに気がつくと、顔色を変えて逃げ出した。
「あっ――待ちなさい!」
 なんとも異様な状況となった。
 男達はリアンを追い、リアンは子供を追い。子供はリアンから逃げ、リアンは男達から逃げる。
 しかしその奇妙な追いかけっこはすぐに終止符を打たれた。
「そこまで、よっ!」
 自分の家なのだろうか、子供が建物の裏口を開けて飛び込んだ。すかさずリアンが扉の隙間に自らの足を挟みこんで、無理やりにこじ開ける。そしてその身を滑り込ませると後ろ手にしっかりと鍵をかけた。これで男達を撒(ま)くこともできたはずである。
「もう逃げられないわよ」
 ふふふ、とリアンが含んだ笑みを浮かべると、子供は怒りとも戸惑いともつかない表情を浮かべ唇をぎゅっと噛んだ。
「べつにさっきのお金を返せとか、よくも騙したわねとか、そんなこと言うつもりはないわ。ただちょっと、あなたに聞きたいことがあるだけ」
「……」
 子供は警戒を滲ませながらリアンを睨(ね)めつけた。ぼさぼさの髪が肩先まで伸びていたので女の子かと思ったが、どうやら少年のようである。しょぼくれているのはその身なりだけで、眼光には鋭い色が宿っていた。
「余所者がこの辺りで何かを嗅ぎまわってるようだったら、ああして路地の奥に追い立てるっていうのが、ここでのやり方なの?」
「お前に関係ないだろ」
「関係ないワケないわ。今まさにその作戦に乗せられて恐怖を味わったばっかりなんですからね」
「うるさいっ!余所者はさっさと出て行け!」
「用が済んだら出て行くわよ」
「どうせロクでもない用事なんだろう。見え見えなんだよ、この、役所の回し者!」
「あら……それは心外ね」
 リアンはゆったりとした動作で首をかしげて見せた。この少年には、自分に牙を向いても無意味であるということを分からせなければならない。そして、自分が敵ではないということも。大人相手では難しいが、この年頃の子供ならば味方につけることも可能だろうとリアンは踏んだ。
「私、役所の回し者なんかじゃないわよ」
「うそつけ、役人じゃないなら何でこんなところにノコノコ来るんだよ。そんなの、おかしいじゃないか!どうせタイホしに来たんだっ」
 微かに笑みを浮かべて、リアンは右手を腰に当てた。軽く首を横に振る。
「もし私が役人で、誰かを逮捕しに来ようと思ったら、こんなか弱い身一つで乗り込んできたりはしないわね。お役人サマの特権で、いかにも強そうな大男を最低二人はお供に付けるわ」
 ぐっ、と少年は言葉を詰まらせた。
「そんなことどうだっていいんだ!とにかくお前みたいなヤツ、めざわりなんだよっ」
「どうしてそんなに怒られなくちゃならないの?別にまだ何もしてないでしょう」
「何かしでかしてからじゃ遅いんだ。だからさっさと出て行けって、何度も……」
「今まで、その『余所者』が何かやらかしたことがあるの?」
 少年がここまで躍起になるのには、何か理由があるように思えてならない。リアンは少し優しい声で尋ねてみた。
「別に……俺は知らないよ。でも、みんなが言ってるんだ。街の役人たちは、いつもここを取り潰そうと隙を狙ってるって。揚げ足取りみたいなことしてここのみんなを捕まえようとしてるって」
「そうなの。それは酷いわね」
「ひどいって……お前もその手先じゃないか」
「だから、ねえ、私は役人なんかじゃないってさっきから言ってるでしょ?」
 リアンは少し屈んで少年と目線を合わせた。
「私だって、今朝がたお役人サマに嫌〜な思いをさせられたばっかりなの。あんなのと一緒にされるのは心外だわ」
「それじゃお前、一体何しにここへ……」
「私はね、ちょっと困ったことがあって、助けを借りにここまで来たのよ」
 少年は訳が分からないというように眉をしかめた。
「ケストナーさんの?」
「君、本当にケストナーさんを知ってるの?」
 どう答えるべきか、少年は一瞬迷ったようだった。しかしとうとう降参したのか、溜め息を一つついてまっすぐリアンに向き直る。
「知ってるよ。俺のじいちゃんだもん。ホントのじいちゃんではないけど」
「君の、おじいさん?」
「だから余計にイヤだったんだ。ケストナーさん、本当はこの街にいちゃいけないことになってるんだろ。ついに居場所がバレて、役人がタイホしにきたんだと思った」
「安心して、そんなのじゃないから。でも……どういうこと?」
「ケストナーさんは、孤児の俺をひろって育ててくれてるんだ。俺にとっては親そのものだよ。だからケストナーさんのことはぜったい守るって、俺、決めてるんだ」
 少し誇らしげに少年は胸を張った。今までケストナーがこの街で安泰に過ごすことができたのは、この少年が一役買っていたためかもしれない。リアンは殊更感心したように微笑んで見せた。
「すごい。私ももう少しで追い返されちゃうところだったものね。今までもずっとケストナーさんのために頑張ってきたんだ?」
「そう。何人も追い返してやったよ」
「それなら私も安心だわ。そんな君なら、ケストナーさんを捕まえに来た人間とそうでない人間、分かってくれるわよね?」
「……俺はまだ子供だよ。ぜんぶ正しく判断するなんて、自信ない。だから片っぱしから追い返すんだ。そうすればケストナーさんの安全はぜったいだから」
 先ほどまでの得意げな様子を引っ込めて、少年は真面目な顔つきに戻った。おだてることで話を進めようとしていたリアンは少々肩透かしを食らった気分になる。しかしそれと同時に、この少年を本気で認める気になった。
「それは賢明な判断ね。――そうよ、人はいくつも顔を持ってる。簡単に信用しちゃダメよ。でも、本当に信頼すべき相手に出会ったら、その時の行動は間違っちゃいけない」
「……お前は信頼すべき相手だって、言いたいのかよ?」
 リアンは少し笑って、それから首を横に振った。
「私は信頼しちゃいけない人間の一人よ。こう言っちゃなんだけど、私ほど怪しい人間もそういないからね」
「……なんだよ」
 少年は脱力したように溜め息をついた。
「それじゃあ、どうしろってんだ?」
「君が一番信頼している人――ケストナーさんの判断に、任せましょう。ケストナーさんに伝えてきてくれる?『ベーレントの“呪いの楽譜”のことで話を聞きたいという人間が来た』って」
「ベーレント……のろいの、楽譜?」
 リアンは重々しく頷いた。
「それで私と会おうと言ってくれたら、改めて私を迎えに来てちょうだい。私と会いたくないと言ったら、その時は大人しく引くわ。――今は、ね」
 少年はいささか逡巡した後、側の階段を駆け上がって行った。どうやらケストナーの末裔はこの建物の中にいるらしい。おぼろげながら、「彼」はリアンに会ってくれるだろうという確信があった。今回の件にケストナーが関係していようといまいと、「ベーレント」と「呪いの楽譜」の言葉を無視することはできないはずだ。
 そして――
 その思惑は間違っていなかった。
 いくらも経たぬうちに、階上から一人の老人が姿を現した。少年に軽く支えられ、杖を突きながらゆったりとした動作で階段を降りてくる。髪もあご髭も見事に真っ白で、やや前かがみの上半身はすっかり痩せ衰えている。しかし目の前までやってきた彼の手の美しさに気がついて、リアンは思わず息を呑んだ。すらりと指が長く、何もかもを包み込んでしまいそうな大きな手。
「あなたが――ケストナーさんですね」
 問うと、老人は静かに頷いた。やつれた頬とは対照的な澄んだ穏やかな瞳がリアンを見つめる。
「私の名は、フォルク=ケストナーです。あなたがお探しの、音楽家ケストナーの末裔に間違いありません」
 どうぞついて来て下さい、と緩やかに続けて、フォルクは再び歩き出した。リアンは黙ってその後をついていく。薄汚れた廊下の脇に備えられた扉を開くと、そこは物置になっていた。フォルクはするすると荷物の合間を縫って歩き、二、三個並んだ大きな木箱を退かしにかかる。
「ソト、手伝ってくれるかい?」
 促されて、少年が頷く。老人と子供という組み合わせにしてはあっさりと木箱は退かされた。
「これはね、中は空なんですよ」
 微笑むフォルクの向こう側に、リアンの目は釘付けになった。今まで木箱で隠されていた壁に新たな扉が現れたのである。フォルクは造作なくその扉を開くと更に奥へと進んで行った。――隠し、というほどではない、狭い階段が伸びている。地下へ続く階段。少年ソトが先頭に立って、ランプに火を灯しながら階段を下っていった。
「祖父はこの街を追放された身でした。しかし程なくして、ひっそりと街に舞い戻った。はっきりとした理由は分かりませんが、この街には離れがたい何かがあったのでしょう」
 フォルクは杖の音を響かせながら階段を一段一段降りていく。リアンも黙ってその後に続く。
「何となくですが、私にも分かる気がします。ホーテンダリアにいる限り陽の目を避けて暮らさねばならないと分かっていながらも、私自身、この歳までずるずるとこの街に居座ってしまった。しかし」
 間もなく地下室へと辿り着いた。そこはほんの小さな一室、しかし見逃すことのできないのは――
「同時に音楽を捨て去ることもできなかった――私も、フーゴ=ケストナーも」
 真ん中にどっしりと据え置かれた、立派なグランドピアノ。
「これは……」
 リアンは思わず呟いていた。この部屋には、この家には、この地区にはあまりに不釣合いなピアノである。見れば随分年代物ではあるようだが、どこがおかしいというわけでもない。ピアノの周りを囲う背の高い本棚には、楽譜やら音楽に関連する書物がぎっしりと詰め込まれているようであった。
「私の祖父であるフーゴは、ほとんど一日中この部屋にこもりきりだったようです。もう誰に聴かせることもない作品造りに没頭し、ピアノからは片時も離れようとしなかった。このピアノは多くを失った彼にとって最後の灯(ともしび)だったわけです」
「でも、どうやってこんな立派なピアノを」
 フォルクはそっと鍵盤に指を置いた。ポーンと軽やかな高音が部屋に響く。
「もちろんフーゴにはピアノを用意する権力も財力もありませんでした。なにせその日を暮らすのにも苦労をする状態だったのですからね。このピアノは……彼の唯一無二の友人から贈られたものだったのですよ」
「友人?」
「ハインツ=ベーレントです」
 さらりと告げられたその名前に、リアンは聞き覚えのないはずがなかった。マナの祖先であり、失墜したフーゴ=ケストナーに代わってこの街の寵児となった音楽家――そして今回の事件の要となる人物である。リアンの顔色を見て、フォルクは微かに頷いた。
「彼についてはあなたに詳しく説明する必要はないようですね。ただ、フーゴとハインツは世間が考えるように水と油の中ではなかった。むしろ彼らは互いの環境に左右されず、純粋に友人として、そしていいライバルとして交流を深めていたのです。祖父の日記から分かったことなのですが、このピアノはわざわざハインツがここへ技師を通わせ、作らせてくれたものなのだそうです。お陰で祖父も、そして父や私も、このような生活の中で音楽を失うことはありませんでした」
「あなたとベーレント家は……、未だに繋がりがあるそうですね」
「ええ。といっても、そう大したものではないのですが。ハインツの孫にあたる男と、手紙のやりとりをしているのです。ただ……」
 ここへ来て初めてフォルクは表情を曇らせた。
「ここ最近、彼からの手紙が来なくなった。互いにもういい歳ですから気になってはいたのです。彼に何かあったのではないか、と。そんな矢先にあなたが私を訪ねてやって来た。『ベーレントの呪いの楽譜のことで』などと、なんとも意味深長な言葉ではないですか。彼に何かあったのですか?彼は今、どうしているのです?」
 問われてリアンは一瞬言葉を詰まらせたが、隠し通せる話でもなく、素直に真実を告げるほかなかった。
「彼は、亡くなりました」
「死んだ……彼が?」
 リアンは厳かに頷く。そして外套の中に抱えていた包みをそっと持ち出した。
「これが彼の死の原因となった『もの』です。そのことで、あなたにお話を聞かせていただきたいと思ってやって来ました」
 フォルクはリアンの手からその包みを受け取った。ゆっくりとした手つきで楽譜を取り出す。そしてその譜面に目を落とし、押し黙った。沈んだ色の瞳は、さらにその深さを増したのだった。