04.

「随分古い楽譜です。ご覧の通り、まだ推敲の段階とも取れる走り書きの状態。ただしその完成度は非常に高く、並の音楽家に作り出せるもとは考えられないとか。その割には全く無名の作品で、いつ誰が書いたものなのか、誰にも分からないのが現状なのです」
 リアンは事務的な口調で説明を始めた。客観的な事実をもってフォルクに事情を把握してもらう必要があったし、事によっては彼の祖父たちの友情を疑わざるを得ない事実が姿を現すかもしれないのだ。リアンが情に流されるようなことがあってはならなかった。
「この楽譜の所持人は、ベーレント家の人間……、あなたと交流のあった老音楽家でした。家族の話では、彼がこのような楽譜を所持していたことなどまるで知らなかったということです。そのため、彼がどういった経緯でこの楽譜を手に入れたのかも分かりません。ただ確かなことは、彼がこの作品を演奏した晩、急死したということです。そしてそれだけでは終わりませんでした。翌日、同じく作品の素晴らしさに惹かれて演奏をした彼の孫もピアノに向かったまま亡くなっています」
「彼の孫――ゲオルグまで」
 フォルクの体がぐらりと揺れた。少年ソトが慌ててその身体を支えてやる。
「この楽譜はただの楽譜ではない。強力な呪力を持った楽譜なのです。演奏した人を呪い殺すことのできる、『この世ならざるもの』――」
「……なんということだ」
「何故このような楽譜がこの世に産み落とされたのでしょうか?答えは一つしかありません。呪いというものは、非常に強いマイナスの意思から派生するもの。この楽譜を書いた人物が、ある対象に向けて並ならぬ憎しみや恨みの念を抱いていたということです。その思いをこの作品の中に封じ込めてしまった。そして、普通の街ならいざ知らず、ここはホーテンダリアの街――その『念』が実際に形となって力を発揮してしまったのです」
 リアンは一呼吸置いた。だが。このまま一思いに言い切ってしまわねばならない。
「フーゴ=ケストナーは、音楽家生命を絶たれた後もこの地下室で作曲を続けていたと言いましたね?そして彼は、かつての自分と立場の入れ替わったハインツ=ベーレントと手紙のやりとりをしていた。……となれば、どうしても無視できない可能性が浮かび上がってきます。はっきりとお尋ねしましょう。この楽譜を書いたのは、あなたの祖父、フーゴ=ケストナーなのではないですか?そしてそれをハインツ=ベーレントに贈った。その楽譜がベーレント家にひっそりと保管されていて――それを見つけた今度の二人が、演奏して亡くなった。そういうことなのではないでしょうか。きっとあなたになら、この楽譜の筆跡から書き手が誰だか分かるはずです。これを書いたのは――」
 その刹那、ふうっ、とフォルクが大きく溜息をついた。あまりに重々しい溜息だったために、思わずリアンは口をつぐむ。
「……申し訳ない、少し腰かけても構いませんかな」
 ゆったりと開かれた口から紡がれた言葉は、リアンにとっては拍子抜けするものだった。しかし辛抱強く言葉を押さえ込み、静かに頷く。フォルクはソトの助けを借りてピアノ演奏用の椅子に腰を落ち着かせた。
「その楽譜を書いたのは」
 再びゆっくりと口が開かれる。
「フーゴ=ケストナーではありません」
「なんですって!」
 思わずリアンは声を荒げた。この期に及んで己の祖父をかばい立てしようというのか。微かに苛立たしささえ覚えるほどだった。しかしフォルクの幾分か落ち着いた様子を見ていると、嘘をついているようにはまるで見えない。
「どういうこと……ですか?」
「そこの棚の引き出しに、祖父がここで書いた楽譜が仕舞ってあります。良かったらご覧になってください。明らかにこの作品のものとは筆跡が異なっていますから」
 言われたとおり、リアンは棚の引き出しを開けてみた。溢れんばかりの紙の山が姿を現す。どれも乱雑な音符が踊っているが――確かに「呪いの楽譜」のそれとはまるで書き方の癖が違う。
「それに、贈り物として書かれた楽譜ならばこのように走り書きのものではなく、きちんと装丁されたものを用意するのでは?立派なものは作れなかったかもしれませんが、せめて自筆でも丁寧に書いたものを贈るはずです」
「それは……」
 その通りだ。フーゴの書いたという楽譜の山を穴が開くほど見つめていたリアンだったが、やがてがくりと肩を落とした。
 これはフーゴ=ケストナーの書いた作品ではない。
「どうやら私の『思い込み』だったみたいね」
 認める他なかった。しかし、そうなると全ては振り出しに戻ってしまったことになる。リアンは藁にもすがる思いでフォルクを見やった。
「何か他に、その楽譜を見て分かることはありませんか?」
 促されて、フォルクは再び楽譜に目を落とした。静かにその目が音符を辿ってゆく。きっと彼の頭の中では、その天上の旋律が、軽やかに繊細に、一片の間違いもなく流れていることだろう。やがて彼は瞳を閉じると、感無量というように深く息を吸い、そして吐いた。
「……そうですね。まず何よりも、もともとこれは普通の曲ではありません」
「え?」
 言葉の意味がわからずリアンは眉をひそめた。
「おそらくこれは、非常に特殊な造りの連弾曲でしょう」
「連弾曲?」
「奏者二人が、一つのピアノで演奏する。そのために書かれた曲を連弾曲といいます。この楽譜は第一奏者用のものでしょうな。ほとんど消えかかっていますが、走り書きで冒頭に『T』とある。これは一ページ目、という意味なのではなく第一奏者パートということを意味するのだと思います。現にこの曲は、比較的高音部が多い。それは低音部を別の奏者が担当するからではないでしょうか?とはいっても、第一奏者だけで十分曲として成り立つほど比重は偏っていますがね。それでも、よくよく見ると曲として不自然なところがあるのです。明らかに音の足りていない部分がある。確かにこれは素晴らしい曲ではありますが、このままでは不完全と言わざるを得ない」
「不完全の、曲」
 思いもよらなかったところにぽっかりと穴が開いていた。誰も気がつかなかったし、これが連弾曲だということに深い意味はないのかもしれない。しかしどんなに些細なものでも、確かにこれは「穴」である。
「それじゃあ、第二奏者用の楽譜もあるはずだということに?」
「本来ならば、完成した楽譜はもとより見開きに二人分の楽譜があるはずです。譜面立ての狭いスペースに二組の楽譜は置けませんから、一冊にまとめられるのが普通なのです。しかしこの楽譜については、見て分かるように、まだ走り書きの草稿状態。完成した楽譜が別にあるのか、未完成のまま捨て置かれてしまったのか……。おそらくは、後者なのではないかと思いますが」
 フォルクは眉根を寄せた。その表情にリアンは引っかかるものを覚える。
「フォルクさん。まだ何か、お分かりのことがあるのですね?」
「おそらくは……、この作品を生み出した人物を」
「!」
 フォルクは椅子から立ち上がり、部屋の隅にある棚へ足を向ける。屈みこもうとして体が危なっかしく揺れた。すかさず少年ソトが引き出しの一番下を開け、はちきれんばかりの手紙の束をフォルクに手渡す。フォルクはソトの頭を軽く撫でると、そのうちの半分ほどを摘み取った。
「これらの手紙は、この街の新たな寵児となったハインツ=ベーレントから送られたものです。ただし、フーゴ=ケストナーには永遠に届けられることのなかった、手紙だ」
「ケストナーに届けられなかった……?」
 そう、とフォルクは静かに頷いた。
「彼らは長年手紙のやりとりをしていました。どんな些細なことでも報告しあうほど親しい付き合いを生涯続けた。しかし、そんな間柄でありながらどうしても告白できない秘密が、ハインツにはあったのです」
「秘密」
 フォルクは手紙の一通をリアンに手渡した。リアンは傷んだ封筒を破いてしまわないよう気をつけながら、中に収められた便箋を丁寧に取り出す。開くと、そこには踊るような文字がつらつらと流れていた。

『親愛なるフーゴ
 この間は手紙をどうもありがとう。
 君が変わらず創作意欲を持ち続けてくれているようでなによりだ。
 一晩で一曲を造り上げるとは、まだまだ君も若いものだな。
 私は逆に、このところめっきりピアノに向かわなくなってしまった。
 ピアノに向かっても、この両手が動かないのだ。
 私は一体何がしたいのか?何ができるのか?何ができると――信じていたのか?
 どうにかねじ伏せてきた悔恨の念が、ここへ来て一気に膨れ上がってしまったようなのだ。
 もう私は楽になりたい。
 許されないと分かっているが、それでも全てを告白したい。
 君という無二の親友を失うことになってしまっても。

 君はかつて、偉大な音楽家だった。
 もちろん、それは今も変わらないと私は知っている。しかし当時は国中の誰もが知っていた。
 君はその地位を失うことになってしまったね。
 芸術家として、もっとも屈辱的な罪の名の下に……。
 盗作の疑いをかけられたとき、君は何も言わなかった。
 その疑いを全く否定しようとしなかった。
 それは一体何故だったのだろう。私は今でもそのことに思いを巡らすときがある。
 君は全くの無実だったのだから。
 
 あの作品を国王に献上する前、君は私を呼んで弾いてくれた。
 得も言われぬ美しい旋律が、君の手によって紡がれていく。
 私はただただ恍惚と聴き入ってしまったよ。
 作品の出来はどうだろう、と問われ、これ以上の傑作は無いと答えた私の気持ちに、
 嘘偽りなどなかった。
 実際私は心底あの作品に惚れ込んでいた。
 そして二週間と三日の後――はっきりと憶えている――君は国王に作品を捧げ、
 その翌週には告発されることとなった。
 数多くの音楽家達の間に埋もれていたその一人、
 しがないピアノ奏者が高らかに声を上げたのだ。
 その作品は私が作り私が演奏しているものである、と。
 
 男の言うことはただの戯言ではなかった。
 実際に男は、君が作品を国王に献上する少し前にサロンで曲を披露していたのだ。
 その場にいた他の人間も、男の言葉に偽りはないと次々に証言した。
 そして君は失脚することになってしまったのだが、
 その胸の怒りたるやどれほどのものだったことだろう?
 私の慰めなど何の役にも立たなかっただろうね。
 しかし君はその怒りを外に向けて当り散らすことは一切無かった。
 それどころか、私の陳腐な励ましや浅はかな親切を有り難そうに受け取り、
 礼まで言ってくれた。
 私は君の懐の深さに敬意を抱き、また同時に戦(おのの)きもした。
 それだけではない。一生消えることの無い、「罪悪感」までも抱えることになったのだ――。

 私はずっと怖かった。
 君を親友であるなどと公言しながら、一方でいつも君の様子を伺い怯えていた。
 もしかしたら、君は何もかもを知っているのではないか。
 私の卑劣な行為を全て承知しているのではないか。
 そうして卑屈に君を観察し、真実は墓の中まで持っていこうとしている自分を
 心底罪深く感じた。
 君はいつも変わることなく私を友と呼んでくれたが、それが辛くてしかたがなかった。
 ずっとずっと苦しかった。
 君を裏切り続けている自分が許せない、それでもそんな自分を守ろうとしてしまう。
 だからますます己が憎くてたまらなくなって――狂ってしまいそうになる。
 私の全てが壊れて、本当に「真実」を語れなくなってしまう前に、どうか聞いて欲しい。
 あの時何が起こったのか。

 君が私に作品を弾いて聞かせてくれた後、私はそのメロディをどうにも失い難いと考えた。
 そこで、急ぎ作品を楽譜に書き起こしたのだ。
 もちろんそれをどうこうしようというつもりはなかった。
 ただ思い出したときにその曲を奏で、一人密かに楽しもうと簡単に考えていた。
 しかし、その後別の友人が私の元を訪れた時、ふいに私の心に魔がさしたのだ。
 あの美しい作品を、ほんのひと時だけ自分のものにすることができたら――。
 私は得意げに曲を披露し、「私の新作だ」とつい友人に語ってしまった。
 その時だけの悪戯のようなつもりで。
 友人は非常に感心し、雨あられのような賛辞を浴びせてくれたので、私は実に満足だったよ。
 しかし、いつこの曲を発表するのか、と友人に問われたときは大いに焦った。
 この曲はとある友人に捧げるために作ったもので、大きく発表するつもりはないなどと
 つまらぬ嘘を重ねてしまったのだ。
 友人は特にそれ以上詮索せずに去ったのだが……、
 家に帰りついた後、彼は私と同じ行為をしたのだね。
 おそらくはその友人も自らの手で作品を楽譜に残し、
 あろうことかサロンという公式の場で「自作」として発表したのだ。
 私がそれを知ったのは、事がすっかり大きくなった後のことだ。
 君が作品を国王に捧げ、男がそれに異議を唱え、盗作の疑いが君にかけられ――。

 私はすぐに真実を告げるべきだった。
 全てを知っていたのは、私だけだったのだから。
 しかし逆を言えば、私の言葉を支えてくれる証拠はどこにもなかった。
 私の作り話だと一蹴されればそれまでなのだ。
 どころか、私も盗人の仲間であると判断されてしまうかもしれない。
 それに私には後ろめたい事実があった。
 「盗人の仲間」――違いない、私は盗人そのものだったのだから。
 君の作品を自分のものと騙って演奏したのは彼だけではない、私も同じだった。
 そのことを、誰よりも君に知られてしまうことが耐えられなかった。
 それで私は何も知らぬ振りをしたのだ。
 ただ君を哀れみ、助けの手を差し伸べる友人の振りを――。』

 手紙はそこで終わっていた。
 途中で途切れた手紙、しかし全てを知るには十分だった。ハインツの抱えていた秘密。心の闇、深い後悔、生涯に渡る苦しみ――。そしてフーゴは無実だったという事実。
「ハインツは結局この手紙を投函することができませんでした。しかし彼の中で迷う気持ちはずっと渦巻いていたのでしょうね。彼は何度も何度もこういった手紙を綴っています。ここにある手紙の束は全て同じような内容なのですよ。書いては仕舞い、仕舞っては書き。そうして溜まっていた手紙を私に届けてくれたのは、先日亡くなったという音楽家――ハインツの孫にあたる男です。彼がこの手紙を見つけ、ハインツに代わって真実を知らせてくれたのです」
「そうだったのですね……。どう思いましたか?真実を知って」
 リアンは栓無いことと知りつつも、問うた。きっとハインツが一番知りたかったこと。
「どう思えばいいのか、と。戸惑いましたね。私はフーゴではない。しかしこの手紙たちは、あまりにも真っ直ぐ、そして深く『私』に語りかけてくるのです。逆に私もあなたと同じことを考えましたよ。フーゴがこの真実を知ったらどう思っただろう?とね。それでフーゴの手紙や日記なども漁ってみましたが、盗作疑惑に関する記述は全くありませんでした。だから結局、フーゴが事実に気づいていたのかどうかを知ることもできませんでしたが」
 形に残るものと残らぬもの。時に姿を現す真実と、永遠に失われてしまう真実。
「ただ……もし私がフーゴだったら。きっとこんな薄汚い姿のままでもハインツのもとへ駆けて行って、『もう自分を責めるのはやめてくれ。これまでもこれからも、君は私の親友だから』と伝えたと思います」
「ハインツを、許すのですね」
「そのような資格、私に無いのは分かっているのですが」
 フォルクは自嘲するような笑みを浮かべた。
「とにかく、あなたにこの手紙を見ていただいたのは――この手紙の中に、『呪いの楽譜』に関する新たな可能性が秘められているということです」
 リアンはしっかりと頷いた。ここまで道を示してくれれば、もう答えはわかっている。
「この楽譜を書いたのはフーゴではなくハインツである、ということですね」
「おそらくは……それが一つの真実なのかもしれません。これらの手紙とこの楽譜の筆跡は非常に似通っていますし、なによりハインツの最晩年の手紙で、彼がある大曲作りに取りかかっていることが書かれています。手紙を見返すまでもなくその言葉を憶えていますよ――『この曲を完成させることができたら、君に捧げたい。そうできる日が来ることを祈っている。それが私の最後の望みなのだ』」
 切ないものだ、とリアンは思った。この『呪いの楽譜』は、誰かを取り殺すために生まれたものではない。むしろ「赦し」の作品だったと言っていい。きっとハインツは、胸に巣食う後悔や懺悔の気持ち、そしてハインツへの謝罪と彼の広い心に対する尊敬の念を込めてこの曲を作ったのだろう。もしこの作品が完成していたら、全てが違った方向に向かっていたかもしれない。だが実際は、未完のまま長い長い眠りにつくことになった。
(そして作品は少しずつ歪んでいった……)
 最後まで自分を「赦す」ことのできなかったハインツの抱いた、後ろ暗い罪の意識。
『君を裏切り続けている自分が許せない、それでもそんな自分を守ろうとしてしまう。だからますます己が憎くてたまらなくなって――狂ってしまいそうになる』
(この楽譜が「呪」の力を持ったのは、ハインツの自分自身への憎しみがあまりに深かったからなのね)
 リアンはそっと楽譜を撫でた。あなたはきっと赦される――もう、赦されたのだ。
「私がお役に立てるのはここまででしょう。私の知っていることは、全てお話しました。曖昧な話ばかりで申し訳ありませんが」
 フォルクはすまなそうに謝ったが、リアンはすかさず首を振った。
「いいえ。あなたには、まだお願いしたいことがあるのです」