01.

 人の道というものは、なべて儚いものである。

 どれほどの栄華を誇った億万長者であろうとも。
 どれほどの羨望を集めた絶世の美女であろうとも。
 どれほどの信頼を寄せられた神の使いであろうとも。

 それが人である限り、死は平等に訪れる。

 だからこの日、一人の娘に起こった出来事も、決して普遍を揺るがすようなものではなかった。
 彼女もまた逃れられぬ道の果てに到達してしまったまでのこと。
 ただ人々は嘆くであろう。その身にとっては、あまりに唐突で、残酷であると。

「――でもね、アンタはちょっと普通じゃなかったみたいね。道の果てのその向こう側に、実はもうちょっと道が続いてたんだから――」

・   ・   ・

 ユーナの日常は、唐突に失われた。
 いつもと変わらぬある午後の町中で。
 やはりいつもと変わらず、薬草を仕入れに市場へ向かう途中だった。
 その身になにが起こったのか。
 思い返せば、恐ろしいほど鮮明に浮かんでくる。
 人々の悲痛な悲鳴。甲高い馬のいななき声。目の前に広がる大きな馬車。
 そして体全体が受け止めたあまりに大きな衝撃……。

 ――自分は、馬車に轢かれて死んだのだ。

 ユーナは大して感慨もなく、その結論を導き出した。
 まったく見も知らぬ真っ白な世界に放り出され、途方に暮れて呆然としていたのがつい先ほど。それからどうにか平静を取り戻し、己の身になにが起こったのかを推察したところ、そうした結論に達したのだった。
 短い人生だった、と思う。なんせまだ十八年しか生きていない。やり残したこともたくさん、というよりか、むしろやり遂げたことの方が断然少ない。別に何か崇高な目的を持って日々を過ごしていたわけでもないのだが、それでもやり切れない気持ちになるのはどうしようもない。
(もしかして、未練があったせいでこんな不思議な場所に来ちゃったのかな)
 ぐるり、ともう一度辺りを見回してみる。
 ――やはり何もない。とにかく何もない世界だ。辺り一面真っ白で、上も下も同じように真っ白。ユーナは完全に白い世界に一人取り残されているのだった。
(ああ……どうしよう)
 どこに焦点を定めればいいのかもわからず、空ろな瞳でただ前方に視線をさまよわせる。しかしそれで何か進展が得られそうな気配はなかった。
(ええと、これはどういうことなんだろう。もしかすると、ここがあの世なの? 天国っていうところ?教わってた感じと全然違うけど……。一人きりで、私、どうすればいいんだろう。そもそも、死んじゃったりしたから、こんなわけのわかんないところに来ちゃったんだ。というかそもそも、なんで私、死ななきゃならなかったの? ごくごく普通に生きてきたのに、どうして? 私はこの若い身空で生を絶たれるほどの深い業に身を染めていたのでしょうか、主よ――)
「はいはい、そこまで」
 じわじわと混乱状態に陥りつつあったユーナに、突如あっけらかんとした女の声がかけられた。全てがどうでもよくなるようなその気抜けた声に、ユーナは逆に意識を引き戻される。
「え?」
 驚いて振り返ると、天使とも見まごうばかりの美女が呆れたような顔をしてユーナを見下ろしているのが目に入った。まぶしい金色の豊かな髪、透き通るような青の瞳。ふわりとした白のワンピースを身にまとい、その背中には、大きな翼が――。ああ、まさしく天使そのものである。
「あ、あの、え、あの」
「分かったから」
 何を分かったというのか。とりあえず軽くあしらわれたようである。
「まあ、まずは、初めまして、ね」
「あう、え、うう」
「名前なんてどうだっていいんだけど、一応自己紹介しておくと、あたしはアンジェリカ。アンタら人間から見れば、そうね、天使みたいなもんかしら? 人の世界で死んだ魂を、神の御許に送り届けるのが役目なの」
「え」
「分かってると思うけど、アンタ馬車に轢かれて大変なことになったのよ」
「……う」
 第三者から現実を突きつけられ、少しずつ落ち着いてきたユーナである。
「で、ふよーっとさまよい出たアンタの魂を、私の力でここに転送したってわけ」
「……ここって」
「天国でも地獄でもない。何物でもない場所よ」
「それって、どういう」
「安心して。ここに未来永劫閉じ込めるってつもりじゃないから。ただアンタには、ちょっと力を貸してもらいたくてね、特別に白の小部屋を作ってご招待したのよ」
 力を、貸す? もはや死人である私が? ユーナは怪訝そうに眉をひそめた。
「アンタ、ただの町娘だったようだけど」
 ちら、とアンジェリカはユーナを眺め、こちらはこちらで少々不安そうな顔をする。
「聖女シェリアスティーナのことは、知ってるわよね?」
「聖女……シェリアスティーナ」
「そう。アンタの世界が奉ってる、ヴィーダ神の遣わせし神の代弁者。首筋にその印がある娘を、代々崇めているでしょう」
「それは、もちろん知ってます。今の代の聖女がシェリアスティーナ様ということも。どんな田舎町でも、それは常識としてみんな認識してるから」
「ならいいわね。それじゃあ、聖女は代々、王国の第一神聖騎士と結婚して、二人で一生国王に仕えるっていう慣わしも知ってるでしょ?」
 もちろん、とユーナは頷いた。だがそれが今の自分に何の関係があるのか。
「その聖女サマなんだけどね、……ここだけの話」
 そこでアンジェリカは声を潜め、ユーナに耳打ちしようと寄ってきた。心配しなくても、ここには二人のほか蟻の一匹もいやしないのだが。
「入水自殺、しようとしちゃったのよ」
「――ええっ!?」
 ユーナは驚きのあまり飛び上がった。人としては誰よりも神に近い存在である聖女が、自殺! あまりにも衝撃的な出来事だ。未だかつてそのような事態が起こったことなど、おそらく一度としてなかっただろう。
「そっ、それで?」
「うん、まあそれが助からない状態なのよ」
「そ、そ、そんな」
「でもね、仮にも聖女サマでしょ? そんな娘に死なれちゃうと、やっぱりこっちとしても、すんごく困っちゃうのよね。病死ならともかく、自殺じゃ次の聖女も遣わすこともできないし。だから、シェリアスティーナには死んでもらっちゃ困るの」
 口調がものすごく軽いのが気になるが、内容は深刻だ。死なれては困る、それはそうだろう。聖女が自殺など、神様も大いに参っているに違いない。
「そ、そう、ですよね」
「そうなのよ。だから例外中の例外として、シェリアスティーナを生き返らせることになったのね。幸い、彼女が自殺しようとした現場は誰にも見られてない。自殺騒ぎはなかったことにしちゃおうって」
 なかったことに。つまり揉み消しというやつか。それでいいのか、我が主ヴィーダよ――呆然としながらも、ユーナはなけなしの信仰心が揺らがぬよう堪えるのに精一杯だった。
「とはいえ、人の生死を簡単に操るのは神とて大きな負担になる。特にシェリアスティーナは、完全に魂が身体から離れてしまっているしね。ホントならとっくに手遅れなのよ。そこをどうにかしようっていうんで――アンタの出番ってわけ」
「わ、私!?」
「シェリアスティーナの魂をもう一度身体と繋ぎ合わせるには、ちょっと時間がかかるの。しばらくの間神界で彼女の魂を預かって、浄化やらなんやらしなきゃいけない。でもその間、カラッポの身体を放っておくわけにいかないでしょ? で、」
「で?」
「その間、ユーナ、アンタがシェリアスティーナの身体に入って、生活しといてちょうだい」

 ……
 …………

「――ちょっ、なっ……えええ!?」
「本来ならシェリアスティーナは死んでるの。死んだ身体をそのままにしておけば、先に身体が朽ちてしまう。それじゃイミないじゃない?」
 理屈は分かる。いや、分からないような気もするが、分かった気になっておいてもまあいいだろう。だがしかし、なぜ自分がそんな大それた役目を負わなければならないのか。それだけは全くもって納得できない。
「奇跡が起きたのよ」
 奇跡?
「シェリアスティーナが自殺しようとした瞬間と、アンタが馬車に撥ねられた瞬間が、ぴったり符号していたの。それによってある種の歪みができた。だからアンタの魂とシェリアスティーナの身体とを繋げることが可能になったの。こればかりは神の意思でもどうにもできない奇跡だったわ」
「ま、待って、待ってください! そ、そんなの絶対無理ですっ。聖女になれって言ってるのと、同じじゃないですか!」
「一時的なことよ。どれくらいになるかまだ分かんないけど、まあ半年から一年くらいでしょう」
「だって私、ただの平民なのに! 神の遣いだなんてっ」
「まあまあ。いいじゃない、聖女様なんてそれこそめったに体験できるもんじゃないわよ ?どこぞの貴族よりもよっぽど恵まれた生活できるだろうし、それにシェリアスティーナって相当の美人だから、それだけで結構楽しめると思うけど」
「せ、聖女っていう神聖な立場を何だと思ってるんですか!」
「まあーエライわね。神もあなたのような普通の町娘までもが己を敬愛してくれてるって知れば喜ぶわよ」
「ア、ア、アンジェリカ様!」
「ユーナ、お願いよ。これは私個人のお願いじゃない。偉大なる神様のお願いなのよ。神は、あなたが聖女となることを『認めている』んじゃない、『願っている』のよ。今、この時だけでもと」
「そ、そんな……」
 そんな言い方はずるいではないか。しかし、自分は断れるような立場にいないことも薄々と理解し始めていた。もともとすでに自分は死んだ身だ。その後地獄に突き落とされても、それが神の審判なら甘んじて受け入れるしかないというもの。それならば……。
「引き受けて、くれるわね?」
「……」
 それは質問ではなかった。命令だ。神の意思だ。
「――っと、まずい! そろそろ時間がないわ。じゃ、ユーナ、よろしく頼んだわよ。まあそんなに肩ひじ張らずに、しばらくの間聖女様の生活を楽しんでちょうだい!」
「えっ、ちょっと」
「それじゃあね! 時が来ればまた迎えに行くわ!」
 唐突に身体がまばゆい光に包まれた。アンジェリカのにこやかな笑顔も、その光に包まれ見えなくなっていく――。

 ああ神様、この歳であの世に召される運命ならば――せめて安らかに眠らせてほしかった。