02.

 さらさらと、心地の良い感触がある。
 少しだけ、冷たくて。けれど柔らかく身体を撫でていくその優しさは、シェリアスティーナを安心させた。

「……ん……」

 シェリアスティーナは重い瞼をゆっくりと開き、ほんの少し顔を上げた。
 まだ焦点が合わない。ぼんやりと視界に映るのは、草の葉? そういえば、瑞々しい緑の香りが鼻をくすぐっている。
 今、自分はどこにいるのだろう? 何をしているのだろう?
 少しずつ意識がはっきりしてきて、シェリアスティーナは緩慢な動作で上体を起こした。――身体がとても重い。それでもどうにか身体をよじり、辺りを見回す。どうやら自分は、川べりに座り込んでいるようだった。
 身体のほとんどは水に浸かっている。上体だけが川辺の草絨毯にもたれかかり、そのまま意識を失っていたようだ。長時間水の中にさらされていたのだろうか、手足はすっかり冷え切っていた。
 水を含んで重くなった白いワンピースをたくし上げ、シェリアスティーナは草地まで這い出した。辺りは欝蒼とした森。背の高い木々の合間からは、漆黒の夜空が広がっている。塗りつぶされた黒に遠慮するように、ちらほらと星が瞬くのみで、月の姿は見えなかった。
「どこだろう、ここ」
 呟いて、シェリアスティーナは不安になる。
 森の中の小川。それは漠然と理解したものの、自分がなぜこのような場所にいるのか、そしてここで何をしていたのか、皆目見当がつかなかった。散歩にでも来たのだったか? しかし少し遠くを見やれば急な斜面や岩肌がむき出しになっているこのような場所、散歩に来るにはあまり相応しくないだろう。か弱い少女が身一つでこのような場所に来たとすれば、きっと世を儚んでの自殺だとかそんな感じの――自殺?
 はっとしてシェリアスティーナは顔を上げた。
 唐突に思い出したのである。ものすごく重要な出来事を。
「そうだ……そうだ、私、死んだんだっ!」
 そしてその上、やはり同じように死んだはずの赤の他人の身代わりとして、つかの間の生を得た、いや、押し付けられたのではなかったか。あの白い世界での出来事が、どんどん頭の中に蘇ってくる。
「私は――ユーナじゃ、なくなった!?」
 一人叫んで、シェリアスティーナは愕然とした。自身の両手を広げてまじまじと見つめる。しかし年頃も変わらぬ同じ娘の掌であれば、さしてユーナであったころとの違いを見つけることはできなかった。この暗闇ではなおさらである。月も出ていないこんな夜では、水面に顔を映して確かめることもできやしない。
 しかしすぐに、そんなことは今問題ではない、とシェリアスティーナは思い直した。
 ユーナであった頃馬車に轢かれた記憶も残っているし、白い世界で天使に告げられた内容も憶えている。どうやら己がもはや「シェリアスティーナ」であるという事実は、確かめる必要もないことのようだった。いや、この目で確認したいとは思うけれど、それより今はこのうすら淋しい森からどう生還するかが問題だ。神の意思により、シェリアスティーナとして一時生きるよう取り計らわれたとなれば、その意思を無碍にするわけにもいかないだろう。生を与えられてまたすぐそれを絶とうとするほど、彼女も無信仰な罰当たりではなかった。……激しく納得できないとしても。

「でも、参ったなぁ」
 何もこんな辺鄙な場所で命を絶とうとしなくてもいいだろうに、とシェリアスティーナはため息をついた。つい先ほどまで他人だったはずの自分の奇行についていけない。しかしとにかく今は、どうにか人里までたどり着かなくてはならなかった。彼女が何故こんな最期を選んでしまったのか、それを知るにも何をするにも、まずは誰かと出会わねば話にならない。シェリアスティーナは鉛のように感じられる身体を無理に起こし、立ち上がった。
「どうしよう、ここ、沢か何かかな?」
 それならば、森の斜面を登っていけば遊歩道にでも出られるかもしれない。
 それにしても、生き返って早々、こんな重労働をこなすことになってしまうとは。どこぞの貴族よりも素敵な生活ができるとのたまった天使様の面影がちらと頭をよぎり、空しくなった。が、今そんなことで文句を言っていても始まらない。シェリアスティーナは斜面に寄って、土の固さを確かめた。傾きは緩やかだし、それほど土も柔らかくなく、固くもない。草や木の幹を掴みながらならば登れぬこともなさそうだ。
(よし)
 気合を入れて、取っ掛かりとなる最初の草葉に手を伸ばした――その時。
 ドカドカと、乱暴な馬の足音が耳に入ってきた。続いて、かすかに男の人の声。最初は何を言っているのか聞こえなかったが、しばらく耳を澄ましていると、どうやら聖女の名前を呼んでいるらしいことが分かってきた。――探してくれている人がいたのだ!
 だが馬の足音とその声は、近づいたり遠ざかったりを繰り返していて、なかなかこちらにまで寄ってはくれなかった。このままでは気付かず行ってしまうかもしれない。シェリアスティーナはそう判断し、とっさに大声を張り上げた。ユーナの時からひっくるめて、人生でこれまでに出したことのないほどの大声を。
「私はここにいますっっ!! 助けて!!」
 ……駄目だろうか? 声が土に吸収されてしまうのか、どうにも響いてくれないようだ。
「誰か―――っ、助けて―――!!」
 ううむ、やはり駄目か。
「あ―――――っ!!あ――――っ!!!」
 こうなったらと、一番大声が出せそうな単語に切り替えてみた。最初の更に倍くらいの絶叫が搾り出せたと思うのだが、どうだろう。
 ヤケになってしばらく奇声を上げ続けていたところ、どうやら向こうがシェリアスティーナに気付いてくれたようだ。こちらに駆け寄ってくる馬の足音が、先ほどよりも随分はっきりと耳に入ってきた。
「わ、私はここですっ! お願い、気付いて!」
「――シェリアスティーナ様!?」
 今度こそはっきりと、その声を聞き取ることができた。低くて甘い、心地良い声。切羽詰ったその声も、今のシェリアスティーナには神の慈悲に満ちた祝福とさえ感じられた。
 ひょい、と斜面の上から姿を表す騎乗の男。暗闇の中ではその影を捉えるだけで精一杯だったが、向こうもしっかりとシェリアスティーナを見つけてくれたようだった。
「そのようなところに……、少々お待ちを!」
 声の主は鋭く告げると、ひらりと馬から飛び降りてぐんぐん沢を下ってきた。その身のこなしは只者ではなく、しっかりと訓練を受けた者のそれだと知れた。
 あっという間にシェリアスティーナの側までたどり着き、強くその両肩を掴んで引き寄せる。
「ご無事で!?」
「は……、はい」
 あまりにも真剣な瞳で、彼はまっすぐシェリアスティーナを見つめてきた。漆黒の瞳。鋭く、何者にも揺るがすことのできぬような芯のある瞳だ。思わず怯んでしまうほどに。
 男は一瞬でシェリアスティーナを上から下まで眺め、対した外傷のないことを確認した。小さくほっと息をついたが、その身が全身ずぶ濡れで泥に塗れていることに気がつくと、露骨に眉をひそめる。
 シェリアスティーナはシェリアスティーナで、やはり男の様子をまじまじと見つめていた。瞳と同じく漆黒の髪は短く整えられており、すっと鼻筋の通った端整な顔だちの若者である。身なりは良く、その辺の平民とはとても思われなかった。何より彼自身が高貴な雰囲気を身にまとっている。特に身分のある人物なのだろうと思われた。
「お怪我はありませんか?」
「は、はい。大丈夫、です」
「とにかく、一刻も早く王宮に戻りましょう。私に掴まってください」
 そう言うと、男はさっとシェリアスティーナを抱え上げ、下ってきた時と同じくらい軽やかに沢を上りきってしまった。あまりに素早く上るので、シェリアスティーナは情けなくも必死で男にしがみつくほか何もできない。
 男は彼女を抱えたまま、待たせてあった馬に乗せた。続いてその後ろに同じように自分が飛び乗る。そして有無も言わせずそのまま馬を走らせた。
 こうした一連の動きを見ていて、気づいたことがある。
 どうやら彼は若干怒っているらしい。
(そ、それも当然か。行方不明になってた私を探してくれてたみたいだし。心配もすれば、怒りもするよね)
「……共もつけず、一人で森に行くと言い出したそうですね」
 やはり怒気を含んだ声で、男は呟いた。それがあまりに冷たい響きを伴っていたので、シェリアスティーナはびくりと肩を震わせる。
「そして日が落ちても戻られず。皆がどれ程心配したとお思いですか」
 そう言われればあまりにも肩身が狭い。ユーナにとっては全く身に憶えのない非難ではあるが、今自分は確かにシェリアスティーナなのだ。彼の非難も甘んじて受けるべきだろうと、そのまま黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「金輪際、このようなことのございませんように。心からお頼み申し上げます」
 ごめんなさい、とシェリアスティーナは蚊の鳴くような声でつぶやいた。しかし風を切る音でその呟きはかき消されてしまったようだった。ならばこれだけは伝えなければと、シェリアスティーナはぎこちなく身をよじって後ろで手綱を引く青年を見上げた。
「あのっ、あんなところまで探しに来てくれて、どうもありがとうございました。とても感謝しています」
 すると彼は、少し目を見開き驚いたような顔をした。それからクッと顔を歪めて皮肉に満ちた微笑を浮かべる。

「――それはいったい何の真似です。新手の嫌味か何かですか?」

 今度こそシェリアスティーナは固まって、見下すような青年の視線をただ受け止めるしかできなかった。