07.
「似たような儀式は山ほどある」と言ったライナスの台詞をさらりと聞き流してしまったシェリアは、しかし半日後にはその言葉の重みを嫌というほど思い知ることになるのだった。
まず、あの後すぐに正午の清めの儀なるものがあり、香を焚きしめた部屋に半刻ほどの間放り込まれた。それが終わると今度は詠神の儀とやらが待ち構えており、神官数人と膝を突き合わせて神を讃えあわねばならなかった。その後は少しゆっくりできたが、夕方近くには王宮のバルコニーに出て、集まってきた民衆に手を振り歓声に応える。更にその後は、神の騎獣アルコーなる空想上の動物を模した像に祝福の口づけをするという、祝伝の儀が待ち構えていた。
もはや意味が分からない。
シェリアとて他の民と同様、それなりに神を敬い大切にするヴィーダ教徒だ。熱心にとまでは言えなくとも、日常のふとした折に神へ祈りを捧げる程度の信仰心は持っていた。……持ってはいたが。なんだかそうした気持ちも吹き飛んでしまいそうな、わけの分からぬ儀式が続きすぎた。神を冒涜するつもりなど毛頭ないが、それでもこれらの儀式の重要性はまるで理解できない。
(毎日こんなことをしていたんなら、シェリアスティーナの性格が捻じ曲がっても仕方ないような気がする)
ふう、と大きく溜息をつき、シェリアは長い長い渡り廊下の上をよろめきながら一人歩いていた。
今は宵闇の清めの儀が終わったところだ。王宮の離れでただ水浴びをするという、やはり意に介せぬ儀式だった。しかしその時間だけは一人きりで過ごすことができたので、いくらかの気分転換にはなった。なんせ人々はやたらと自分に構ってくる。しかも全員、嫌々しかたなく、もしくは恐る恐るという態度である。そんな彼らに愛想良く振舞うことは神に禁じられている。だからといってわざと辛く当たることもシェリアにはできない。板ばさみの状態となって、シェリアは非常に気疲れしたのだった。バルコニーで手を振る際など、もはや疲れきって民衆がナスやかぼちゃに見えたほどだ。
しかし本当に、使用人たちのシェリアに対する視線は何とかならぬものか。どうやらシェリアがこうしてすべての儀式に大人しく参加するなど、普段はあるはずのないことらしかった。だからなのか、無愛想とはいえ一応文句の一つも言わずに民衆に手を振るシェリアを見る彼らの表情といったら、あまりに悲痛な色に染まっていて、逆にこちらが怖くなった。今こうして一人になれて、シェリアは心底ほっとしている。
(ライナスはあれから全然姿を見せてくれないし)
あの男も、また良く分からない人物だ。それでも、向こうから気兼ねなく接してくれる分、こちらも気楽に構えることができる。シェリアとしてはなるだけ側で自分を支えてもらいたいのだが、どうも向こうには必要以上にシェリアに構うつもりがないらしかった。まあ、この国の宰相補佐という彼だから、それほど暇でもないのだろう。自分の身は自分でどうにかしろということなのかもしれない。人当たりのいい人物だが、それくらいのことは考えていそうな冷たい一面も感じられた。
不意に、廊下に別の足音が響いた。カッカッと小気味良く規則正しい足音だ。呆けて薄暗い窓の外へ彷徨わせていた視線を正面に戻すと、見覚えのある黒髪の青年がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。確か、アシュートという名だったはずである。
「……どうも」
歩く速度を変えぬ彼に、ともすれば無視されてしまいそうだったので、先にシェリアの方から声をかけた。さすがに向こうも無視するつもりはなかったのか、素直に足を止めて会釈する。
「お体はもうよろしいのですか」
機械的な口調だ。シェリアの体調など本気では気にしていないのがありありと窺える。
「はい、おかげ様で」
「安心しました。あなたの身に何かあっては、後悔してもしきれぬところです」
本当に? と問いかけたいものだが、あえて口にはしない。
「アシュート様はどちらへ行かれるんですか?」
代わりに無難な質問を投げかけた。この先は儀式用の離れしかなかったと記憶していたので、そんなところにこの人物が何用なのかとふと疑問に思ったのである。
「剣の鍛錬をしようと思いまして。シェリアスティーナ様はご存じないかと思われますが、清めの間へ向かう途中に小さな訓練場があるのです」
「ああ、そうなんですか」
見れば、確かにアシュートの格好は割合簡素で動きやすそうだ。そして手には立派な長剣を携えている。
「お一人で?」
「ええ。先ほどまで、従士たちの稽古をつけておりましたが」
「そうですか」
どうも会話が弾まない。相手が自分を嫌っているのだからそれも当然だとは思うが、それでも腑に落ちない部分がある。――二人の、関係。ライナスが二人は婚約していると言っていたはずだ。しかし相手の態度はどう見ても臣下の取るそれであり、とても将来夫婦になろうという空気は感じられない。
「そういうあなたもお一人のようだ。侍女はいかがされたのです」
アシュートの瞳に、ちらりと非難の色が浮かんだ。他の者が向けるものとは明らかに違う種類の、憎悪の色。今までの人生でこれほどに忌々しげな目線を向けられたことのなかったシェリアは、途端にうろたえてしまう。しかも侍女たちは無理を言って下がらせていたので、どうにも答えようがなかった。
「あまり勝手をなさいませぬよう。ご自重ください」
答えなど端から求めていなかったらしく、あっさりアシュートは言葉を続けた。私に無関心なくせに小言ばかりは口をつくのか。シェリアは柄にもなくむっとする。
「お心遣い、感謝いたします。せいぜい他の者に迷惑をかけぬよう、大人しく自室に篭っておくことにします」
言って、シェリアはアシュートの横を通り抜けた。これ以上話していても、お互いに嫌な気分が増すばかりだ。さっさと離れてしまうに限る。
が、しかし、意外にも立ち去ろうとしたシェリアをアシュートが引き止めた。
「……シェリアスティーナ様」
何事かと、ちらりと顔だけ振り返る。
「お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「何をです」
「――昨日、何があったのか」
昨日。そう言われて思いつくことといえば、沢でのあの出来事以外にありえなかった。
「昨日は朝からどうもご様子がいつもと違うと感じてはいたのです。しかしお声もかけられぬまま、あなたは一人森へ行ってしまわれた。そこで何があったのです? 沢であなたを見つけてから、更に違和感は増している」
「そ、それは」
明らかにうろたえてしまった。アシュートは少し目を細め、そんなシェリアの様子を窺っている。「それは」の続きを待とうということらしかった。
「……あの朝、私が何を考えていたのか、憶えていないんです」
おずおずと、シェリアは口を開いた。しかしそんな答えは相手の満足するものではなかったようだ。アシュートは一瞬呆れたような顔をして、シェリアを睨みつけた。
「何をおっしゃる……」
「私、なにも憶えていないんです。自分のことも。あなたのことも。身の回りの全て。記憶を失ってしまったから」
反論される前に、全て言い切ってしまおう。そう思い、シェリアは一気にまくし立てた。
「私が憶えているのは、気がつけばあの崖下にいたっていうことだけです。今までここで何をしていたのか、自分がどういう人間なのか、そういった一切が、分からないんです。ライナスには相談しました。でも記憶喪失など歓迎されるはずもないということで、極力人には告げないようにということになったんです。……あなたには、黙っていられないでしょうから、伝えておきますけど」
「――まさか。またずいぶんと悪質ないたずらを思いつかれたものだ」
「いたずらなんかじゃありません! 私がどれだけ大変な思いで今日一日を過ごしたと思ってるんです? ただのいたずらならどれほどよかったか……」
「そんなことはどうだっていい」
ぴしゃり、とアシュートは言い切った。冷たい眼差し。射抜くように、シェリアを見下ろしている。
「忘れたというのなら、一刻も早く全てを思い出していただきたいですね。記憶喪失の一言で今までの一切に片がつくとお思いですか? ――少なくとも私には、そんなことに何の意味もない。私にいたわりの言葉や気遣いなどを期待されているのなら、あまりにも無意味ですよ」
「な……」
その随分な言い様に、シェリアはさっと血の気が引いていくのを感じた。記憶喪失だろうと関係ない? お前が嫌いだという事実は変わるはずもない? ――そんな、言葉――あんまりではないか。
「どうして、そんなひどいことが言えるんですか? 何があったのか言えってあなたが言うから、言ったまでじゃない。それでどうして貶されなきゃならないんです? 別にあなたに聞かれなければ、私だって記憶喪失のことなんて言うつもりはなかったのに」
「あなたがあまりにも無責任だからだ」
「一人で森に行って足を滑らして沢に落ちたのは私の不注意だってことですか? 確かにそうかもしれない、でも、だからって」
「違います」
興奮気味に言葉を並べるシェリアを遮って、アシュートは首を振った。
「今までのあなたの所業を、全て無に返せるはずもない。そんなこと、私は絶対許さない。――それだけです」
「――っ」
「シェリアスティーナ様、どうぞ私に敬語などお使いにならないでください。あなたは全ての民の頂点に立つ者。一臣下である私に、礼をとる必要などありません。いえ、とってはならないのです」
「……」
シェリアは泣きそうな瞳でアシュートを睨みつけた。
「……ライナスも、敬語は使うなって言ったよ。でも、私が自分に敬語なんて使うと気持ちが悪いからだって、笑ってた。あなたは――違うんだね。私のことを、神の遣わした飾り物としか見てないんでしょう。ただ生きてここにいれば、それでいいと思ってる」
「……」
「あなたは、よっぽど私のことが憎いんだね」
今更だ、と言わんばかりに、アシュートは無感動な瞳をシェリアに向けた。