08.

 胸がどうしようもなく苦しかった。
 つい今しがたの出来事を思い返すと、その度にぐっと胸の奥が詰まる感じがする。
 シェリアは自室のベッドに身を埋め、震える身体を自ら抱きしめていた。侍女が夕飯を運んできてくれたが、とても口をつける気になどなれない。暖かい湯気が運ぶ食事の匂いも今のシェリアには邪魔なものでしかなかった。
 アシュートの、強い瞳。強い声。初めて彼に出会ったとき、そのどちらにも惹かれたことを思い出す。けれど今ではそれも空しい。きっともう二度と、あの沢での時のように、真っ直ぐな瞳と声で自分を包んでくれることはないだろうから。それにあの時だって、「聖女」が生きているのか死に瀕しているのか、彼にとって重要なのはその二点だけだったはずだ。突然誰もいない森深くに置き去りにされた少女の気持ちなど――これっぽっちも酌む気などなかったに違いない。
 どうして彼は自分を憎むのだろう? シェリアの所業は絶対に許さぬ、とまで断言されて。一体、シェリアスティーナは彼にどんな仕打ちをしたのだろう。もしかしたら、彼に対してだけではない? 己の周りのあらゆる人に、とても許されないような愚行を犯してきた?
(そうなのかもしれない)
 皆の自分に対する怯えようは尋常ではなかった。多少口うるさいわがままな聖女というだけならば、あそこまで顕著に怯えを見せたりするだろうか。ああまたか、厄介な女だ、そういう呆れが面に上っても良いのではないだろうか。しかし誰の表情にも浮かぶのは、ただただ恐怖の色だけだった。
(ライナスに聞いてみる?)
 そうしたら、もっと詳しくシェリアスティーナの行ってきた仕打ちを教えてくれるだろうか。だが彼は、シェリアとアシュートの確執については教えてくれなかった。もとより、受ける印象ほど協力的な人物ではないのだ。
(どうしたらいいんだろう)
 はあ、と大きな溜息をついて、シェリアは寝返りをうった。静まり返った広い部屋に、その溜息がいやに大きく響く。

 と、にわかに部屋の外が騒がしくなった。
 どたどたと慌ただしい足音が複数。小競り合いをするような声がいくつか響き、だんだんとこちらに近づいてくる。
(……なに?)
 訝しんで、シェリアはベッドから身体を起こした。おそらくそのまま部屋を通り過ぎるであろうと思われた足音は、意外にも部屋の前で立ち止まる。わめくような声が一段と大きくなり、それでも誰かが部屋の扉をノックした。
「――誰?」
 怯えながらも返事をすると、ぴたりと外の声が止んだ。息を呑む気配が扉越しにも感じられる。だがすぐに、「失礼します」と年若い男の声が上がり、勢いよく扉が開かれた。
 入ってきたのは、自分とそう歳の変わらぬ青年だった。金髪に碧眼で、貴族的な雰囲気を醸し出してはいるが、身なりからすれば王宮警備の下級兵士というところだ。異様に切羽詰った顔をして、シェリアを見据え、跪(ひざまず)く。その後ろには同僚と思われる兵士たちと、扉付近で控えていた侍女たちが数名。こちらはどうしようもなくうろたえていて、明らかにこの事態に戸惑っているように見えた。
「夜分に突然、失礼いたします」
 脂汗を浮かべる表情とは裏腹に、凛とした声で青年は告げた。
「イーニアス=ディルレイと申します。此度は、シェリアスティーナ様にお願いがございまして、非礼を承知で参りました」
 イーニアス、と呻くような非難の声が後ろから上がる。扉の辺りで棒立ちになっている兵士たちの誰かが呟いたのだろう。どうやら彼らは、どうにかしてこの青年を止めようと追いすがってきたらしい。しかしそれもままならなかった今、どうすればよいのか分からず途方に暮ているようだった。
「私に、お願い?」
 シェリアも戸惑う。自分にこうして声をかけてくる人物は、今日一日で一人たりともいなかった。おそらくこれは異常な事態なのだろう。
「はい」
 ごくり、とイーニアスは喉を鳴らした。
「件のネイサンのことでございます」
「……ネイサン?」
「おそらくシェリアスティーナ様は憶えておられぬでしょう。以前、シェリアスティーナ様に非礼を働きホリジェイル行きになっていた兵士のことでございます」
 ホリジェイル? 全く聞き覚えのない言葉だ。何のことだろうと眉をひそめた表情が、イーニアスには不興を買ったものだと映ったらしい。ますます額に汗を浮かべ、しかしそれでも彼は目を逸らそうとはしなかった。
「聡明なシェリアスティーナ様でございますれば、すでに私の申し上げんとしておりますことはご承知のことでしょう。ですが申し上げます。――どうか、ネイサンをお赦しください。どうか、彼を地下牢から解放するご許可を」
「牢……?」
 おぼろげながら、事態を理解し始めた。それと同時に、恐ろしさで身体が震え始める。
「シェリアスティーナ様はネイサンに仰いました。三ヶ月の間、ホリジェイルで耐え抜くことができたならば、ご慈悲をくださると。ネイサンがホリジェイルに入ってもう四ヶ月になります。彼は耐え抜いたのです。憶えてはおられないかもしれませんが、どうかそのお言葉通りに。何卒、彼をお赦しくださいませ」
 そこまで告げて、イーニアスは額を地面にこすりつけた。しかしそんな姿も、シェリアには遠い世界の出来事のようにしか感じられない。
 彼の言葉は、あまりにも衝撃的だった。その言葉を咀嚼すればするほど、かつてのシェリアスティーナが行ったであろう無慈悲な仕打ちがありありと思い浮かんで――目の前が真っ白になる。
「私が、そのネイサンを、牢に繋げと命令したんだね?」
 かすれる声で、シェリアは言った。しっかりと確認せねばならなかった。
 イーニアスは再び面を上げ、かすかに頷く。
 それが四ヶ月前のこと。三ヶ月間という約束の期間が過ぎてもなお、そのまま放置していたというのか。
「ネイサンは、私に何をしたのだった? あなた、知ってる?」
「――はい、それは……」
「教えてもらえるかな」
「……四ヶ月前、私とネイサンはシェリアスティーナ様の身辺警護の命を受け、御前にご挨拶に上がりました。その際に、その、シェリアスティーナ様が、私に、……特別に、お声をおかけくださいまして」
 突然歯切れも悪く、イーニアスは言葉を濁した。それで言いたいことをなんとなく察せてしまう。
「うん、私があなたを気に入ったんだね。――それで?」
「……当時、私には家の決めた許嫁がおりました。そのために、シェリアスティーナ様の……お言葉を、お受けすることができませんでした」
 つまり、誘惑されたけれどその誘いを断ったということだ。
「うん」
「ネイサンも許嫁の件は知っておりましたので、私に代わって事情をシェリアスティーナ様に申し上げたのです」
「うん」
「……それは、準騎士などに許されぬ進言でございましたので」
 それでか。たったそれだけのことか。それだけのことで、シェリアスティーナはネイサンという人物を牢にぶち込んだのか。
「……」
 シェリアは目を瞑り、落ち着くんだと自分に何度も言い聞かせた。――分かっていたじゃないか、シェリアスティーナがそういう種類の人間だということは。ひどく、残酷で身勝手だ。吐き気がするほどに。
「イーニアス」
 再び目を開き、まっすぐイーニアスと目を合わせた。
「私を、そのホリジェイルに案内してくれないかな」
「――なんですって?」
 その言葉があまりに意外だったのか、イーニアスは目を見開いて驚いた。後ろで成り行きを見守っていた兵士たちも同様に驚きの表情を浮かべる。
「しかし、王宮の地下牢など、シェリアスティーナ様が御自ら足を運ばれるようなところでは」
「お願い」
 強く言うと、イーニアスは多少戸惑いを残したまま、それでも承知してくれた。
「今すぐね。さあ、もう立って」
 言われるままに、イーニアスはよろめきながら立ち上がる。おそらく彼は、今度こそ自分が牢屋行きを命じられる覚悟でここに来たのだろう。すぐには咎めがないと知ってか、幾分呆けた様子だ。それでも騎士風の礼をして、ベッドから立ち上がろうとしているシェリアに手を差し伸べる。
 ――先ほど彼は、同僚のネイサンが「準騎士」だったと口にした。おそらく彼も同じ地位にいたのではないか。この振る舞いからも、彼が礼を知らぬ下級兵士とは思えなかった。だとしたら、今こうして、一兵士の格好をしている彼は? ……おそらくその四ヶ月前のことがあって、シェリアスティーナが地位の剥奪を言い渡したのだろう。
「あなたたちはどうする? 何か言いたいことがあるのなら、全て聞くよ」
 まだ立ち尽くしていた他の兵士たちに、シェリアは目線を向けた。その視線を受けて、彼らははっとしたように身体をこわばらせる。戸惑い気味に互いの顔を見合わせて、やがておずおずと首を横に振った。
「それなら、今晩はもうそれぞれの持ち場に戻ってもらえる? イーニアスは、絶対に悪いようにはしない。彼の身を心配しているのなら、それだけは約束するから安心して」
 その言葉を聴いて、彼らはいくらか安堵する表情になった。しかしシェリアスティーナを完全に信用する気にはなれないのだろう。イーニアスに心配げな視線を投げかけ、まばらに一礼をし、やがて躊躇いを残したまま、誰からともなく去って行った。
 ――今までの所業を、全て無に返せるはずもない。アシュートの言葉が脳裏に蘇る。それは、その通りなのだろう。分かっている。分かっているのだ。

 二人は無言で廊下を歩いていた。
 夜も深まり人の少ない王宮内で、二人の姿はやはり目立つ。たまにすれ違う使用人たちは、その度に驚いた表情で二人の様子を窺った。一兵士と、聖女。確かに、傍から見ればなんとも不思議な取り合わせである。前を行くイーニアスが怯えた表情をしていたならば、おそらく皆彼に何らかの災難が降りかかったのだと勘ぐっただろう。しかし実際彼の表情に浮かんでいたのは、怯えというより困惑だった。時々シェリアを振り返り、歩みを確認するその顔には、「あなたは本気なのか」と問う色が浮かんでいる。シェリアは特に何も言わず、ただ黙ってイーニアスの後に続いた。
 王宮内の華やかな印象は、夜になるとがらりと変わり、えも言われぬ幻想的な雰囲気を醸し出している。稀代の芸術家たちが丹精込めて造り上げた天井の装飾の数々も、あまりに繊細な柱の彫刻たちも、この闇夜の中ではすっかり鳴りを潜めていた。代わりに、壁際と足元に惜しげもなく配された白の照明が、おぼろにこの空間を包み込んでいる。
「足元にお気をつけください」
 イーニアスに手を取られ、シェリアは螺旋状の階段をゆっくりと下りていく。
「本当によろしいのですか」
 ついに、実際に声を出してイーニアスが問うた。シェリアが頷くと、観念したように再び前を向き、もはや声をかけることはしなかった。
 と、その時突然、場の雰囲気ががらりと変わった。雰囲気が――いや、視覚的にも、全てがはっきりと変化を遂げた。優美な内装の螺旋階段が、ある一段を境に、突然ほこりにまみれた冷たい石の階段へと姿を変えたのだ。区切りも何もあったものではない。つい今しがた踏みしめていた大理石の階段は、その次の一段には姿を消し、切り出しただけの露骨な石段に取って変えられていた。――あまりにあからさまに、牢獄への道は開かれたのである。
 振り返れば美しい王宮の姿がそこにあるのに、シェリアは今確かに、絶望への入り口に足を踏み入れているのだった。突如現れた石の壁に片手をついて、やはり石の敷かれた階段を下りながら、シェリアは不安でいっぱいになった。シェリアスティーナがしでかしたことをこの目できっちり確認したい、そう思ってここまでやって来たけれど。もしかしたらそれは、この身にはあまりに恐ろしい決断だったのでは? 思わずイーニアスの手を握る力が強くなる。それを感じてイーニアスがちらと視線をこちらに向けた。だが沈黙は守られたままで、響くのは無機質な靴の音のみだった。
 階段を降りきると、目の前にのっぺりとした石の壁がそびえ立っていた。右側に細い通路が続いている。そしてその向こう側から、かすかだが「あー、あー」という不気味なうめき声が響いてきた。
 ごくり、とシェリアは息を呑む。
「……よろしいですね?」
 最後に、イーニアスは確認をした。
 今更後には引けない。見なければ。知らなければ。シェリアスティーナという人物を。そして彼女が行ってきたその所業を。シェリアは、もう一度、しっかりと頷いた。