12.

 もう戻らねばと身を翻したシェリアは、入り口に立っていた人物を見てぎょっとした。

「ラ、ライナス」

 いつからそこにいたの、と問いたくなる。それほど何の気配も無く、ただ黙って彼は立っていた。
「随分と長いお祈りだったね」
「ええと、……まあ」
 どうやらほぼ最初から見ていたらしい。悪趣味な男だ。
「儀式中は心ここにあらずという感じだったのに」
 それはどうもすみません。
「あれ? ライナスって儀式に出てたっけ」
「後ろの方に座っていたよ」
「あ、そうなんだ」
「それよりも、次に祝福の儀があること、忘れていないだろうね?」
「……うん」
 またあの祝福の言葉をかける儀式かとシェリアはうんざりした。
「なんだか本当に、聖女様って大変だよね。毎日ひたすら儀式儀式の連続で」
「ん? 今日はそうでもないよ。祝福の儀が終われば、あとは宵闇の清めの儀だけのはずだ」
「えっ、毎日昨日みたいに儀式があるんじゃないの?」
「昨日は特別に多い日だったんだ。月に二、三度だよ、丸一日儀式で潰されることなど」
「なんだあ〜」
 ほう、と一気に気が抜けた。そしてすぐに、それならば、とある考えが浮かぶ。
「じゃあ、祝福の儀が終わったらイーニアスのところへ行っていい? 話したいことがあるの」
 すると、意外にもライナスは躊躇を見せた。はてどうするか、という顔をして逡巡する。シェリアはそんなライナスの様子に若干驚いた。てっきり「どうぞお好きに」とでも言われるだろうと思っていたのに。
「彼の感情が、君にとってプラスに働くかマイナスに働くか。まだ微妙なところだね。あまり、深く付き合わないほうがいいと思うが」
 彼の感情? シェリアスティーナに対する憎しみの情ということだろうか。それならば、シェリアとて弁えている。
「どうしても彼と直接会って、言っておきたいことがあるの。分かってる、あまり長く付きまとって感情を逆なでするようなことはしないよ。用事が済めばすぐに部屋に戻るようにする」
「うーん、どうも君が考えていることとずれているようなんだけど」
「ずれてるって、何が?」
「いや、まあいいだろう。お望みならば、どうぞお好きに」
 最終的にはシェリアの予想通りの答えが返ってきた。が、途中の煮え切らなさがどうも気になる。しかしそれを訴えたところで彼は何も教えてくれないだろう。短い付き合いではあるが、なんとなくそういう人物だと分かってきている。だからシェリアはそれ以上イーニアスのことには触れず、彼の気が変わらぬうちにと話題を変えた。
「ねえ、ライナスって宰相補佐やってるんでしょう? 私にはよくわからないけど、それってかなり地位ある役職、だよね。それなのにこんなところで一人フラフラしてて大丈夫なの?」
 ライナスは呆れたような顔をして、
「一人フラフラしている聖女様には言われたくない」
 ともっともな軽口をたたいた。
「だが実際、私はそれほど忙しくもないさ。宰相補佐と副宰相は違うんだよ、分かっている? 私はまあ、人数合わせで会合に出席したり、宰相の世間話の相手をしたり、そういうどうでもいいような仕事を主にやっている。宰相は政治問題を副宰相に相談するが、私に相談することといえばその日の彼の髭のツヤについて」
「け、謙遜してるんでしょ?」
 さてね、とライナスは微笑んだだけだった。
「まあ目下の大仕事は、麗しき聖女シェリアスティーナ様のお守りならぬお相手なのだろうな。……というわけだから、そろそろお時間ですので次の儀式へ参りましょう――と、私は言わねばなるまいよ」
 確かに、そろそろ移動せねばまずい時間だ。そこで会話は打ち切られ、二人は例の祝福の間へと向かうことになった。
 なぜだか、知るほどにわけの分からない人物、それがライナス=ヴェントリスだ――とシェリアは思った。

 祝福の儀は実に無難に終わらせて(もはや聖女の愚かな行いを真似るまいとシェリアは決意していた)、シェリアは一人、空に向けて開放された長い回廊を小走りに通り抜けていた。
 イーニアスに会いに行こうというのである。
 ライナスによると、彼はちょうど訓練に参加している時間だろうということだった。訓練場はあの塔のふもと、と実に大雑把な説明を受けて、シェリアはこそこそ周りの様子をうかがいながら駆けている。やはりというかライナスは案内などしてくれなかったが、どちらかといえばその方が都合がよかった。一般兵の訓練場にお供をつれて聖女様が登場すれば、ちょっとした騒ぎになってしまうに違いないのだ。そんなことをしてイーニアスに会いに行っても彼にはいい迷惑だろうと、シェリアは一人お忍びで行くことにした。今の時間なら、向こうもちょうど昼の休憩時間だ。うまく行けば彼だけを引っ張り出すこともできるかもしれない。
 本来ならば、自分から会いに行ったりせずイーニアスの方を呼びつけるべきなのだろう。でなければ聖女としては不自然だし、不可解だ。しかし、それはいけない、とシェリアは同時にそう考えていた。
 四ヶ月前の件ではイーニアスにも随分酷い仕打ちをしてしまった。その時受けた彼の傷は今なお深く、癒されるどころか逆にじわじわと広がっているに違いない。ごめんなさい、だなんて白々しく言えないから。だからせめて、自分の行動でもって彼への深謝の思いを表さなければ。シェリアはそう自分に言い聞かせた。下手に出ればいいという問題ではないのは分かっている、だけど――。
 悪目立ちしないようにとじゃらじゃらとした宝飾類はすべて外し、淡いブロンドの髪は一つにまとめその上から薄いヴェールを被った。そして目印となる塔を目指して早足で歩いているのだが――甘かったかな、とシェリアは早速後悔し始めていた。
 初めて足を踏み入れる王宮の西側は、どちらかといえば下々の者たちに開放されている区域らしかった。一応廊下はあるものの、すぐ側には砂地が広がっていてあまり意味はなしていない。形ばかりの廊下に沿っていくつも小さな建物が並び、天井もなければ壁もない開放的な雰囲気は、まるでちょっとした集落のようでもあった。今までシェリアが過ごしていたところとは違い、通り過ぎる人の数が多いしどうにも庶民じみている。そういえば使用人たちの居住区もこのあたりだっただろうか。一般兵の格好をした若者たちが多くたむろし、階段や木箱などの上に気軽に腰かけ談笑している風景は、シェリアをどぎまぎさせた。明らかに、自分はここで浮いている。しかしそんな緊張と同時に、懐かしさを感じている自分もいた。まだ自分がただの町娘であったほんの数日前までは、こういった雰囲気に囲まれているのが常だったのだ。いや、さすがに王宮内ということで、こちらの方が数段格が上ではあるが。
 しかしシェリアは確かに浮いてはいたが、人々の自分を取り巻く視線に恐れや嫌悪の色はなかった。妙に身分のありそうな娘がいるぞ、くらいの認識をされているらしい。考えてみれば、下々の者になればなるほど、かの聖女様と接する機会などどんどん減っていく。普段彼女の身の回りの世話をしている侍女たちでさえ、ある程度の背景を持つ貴族の娘たちなのだ。となれば、この場で自分の顔を知る者などいなくても不思議ではなかった。だが、ならば安心というわけでもない。ここでは一人場違いなのに変わりはないのだ。
(うう、皆の目線が痛いなあ)
 あからさまに声をかけてくる者はいない。が、皆が自分の行動に注目している。地面に座りこみ、軽口をたたきながら剣を磨いている兵士たち。食料を荷車に載せて、格納庫へと運んでいる使用人たち。汚れた衣類の入ったかごを抱え、洗濯場へと向かう掃除婦たち。誰もがちらちらと、こちらの様子をうかがっているのだ。
(こんなとこ通らなきゃいけないなら、さすがに注意してくれてもよかったのに)
 と、ここにはいない無責任なお守り役を思い浮かべてみる。
(思ったより人がたくさんいるな。これじゃ、訓練場に辿りつけてもイーニアスだけ呼び出すなんて無理かも)
 イーニアス、の名を頭に浮かべ、シェリアは少し憂鬱な気持ちになった。
 彼については、あれからいくつかの情報を与えられた。
 想像の通り、あの若さで準騎士という身分だったという彼は、もちろん上流貴族の出身である。そんな彼が、爵位も持たぬ一般人たちの中に放り込まれ同等の扱いを受けるなど、どれほど屈辱的だっただろう。自身がただの庶民だったシェリアは、今、上流貴族たちの世界を体験し、その落差の激しさをよく知った。だから余計に彼の無念が分かる気がする。自分には心地よいこの穏やかな雰囲気も、一流貴族の彼にとっては豚小屋のそれも同然ではないのか? ――悲しいことだけれど、きっとそういうものなのだ。
 うだうだと考えながら歩いていたシェリアは、やがて目的の塔までたどり着いてしまった。見張り台の役割でも果たしているのか、白い塗り壁のそっけない建物である。すぐ側に開けた平地が広がっており、そこが訓練場であろうと思われた。休憩中らしく、兵士たちがまばらに腰かけ思い思いにパンや果物をほおばっている。が、それにしても人数が少なすぎた。広い訓練場にちらほら、としか言いようのない人数だ。シェリアはまた「しまった」と後悔する羽目になった。休憩中ということは、この訓練場を出てもいいということなのだ。だから実際、ここまでの道すがらあんなに多くの一般兵の姿を見かけたのだろう――。
 あーあ、と大きく嘆息し、シェリアはぐるりと辺りを見回した。残念ながら目的の人物の姿はない。おそらくイーニアスもどこか別の場所で休憩を取っているのだろう。
 ここで戻ってくるのを待ち伏せるわけにもいくまい。それこそ何事だと騒ぎになってしまいそうだ。諦めて、シェリアは一旦戻ることにした。仕方がないが、イーニアスにはまた訓練の終わった時間にでも――。
「お嬢さん」
 その時突然声をかけられ、シェリアは大いにびくついた。
 ここで自分に気安く声をかけてくる者はいないと勝手に思っていたシェリアは、情けないほど驚いてしまったのである。激しく動揺して振り返ると、全く見も知らぬ男が面白そうに微笑みながら自分のことを見下ろしていた。
 ――何者だ。とっさにシェリアは上から下まで男を眺め、観察する。自分やイーニアスよりも随分はっきりと明るい金髪に、浅黒い肌。瞳は髪と同じく金色で、まるで猫の目のようにギラリと光っている。一見ボサボサとした髪は無造作に後ろに流されており、ちらりと見える耳には無数の耳飾が付けられていた。ライナスも大柄だと思っていたが、この男もいい勝負だ。しかしそのライナスよりも更に筋肉で身が引き締まっているため、妙な迫力をまとっている。そんな彼が身にまとっているのは白の軍服で、イーニアス辺りがきっちり着込めばさしずめ王子様にでもなりそうな上品なものだった。が、彼は見事に着崩していて気品の欠片も感じさせない。
(なんだか……ライオンみたい)
 それがシェリアの彼に対する第一印象だった。
 シェリアがそこまでの結論に達する間に、相手の方でもシェリアに何らかの印象を抱いたらしい。男はにやり、と不敵な笑みを浮かべてシェリアを見下ろした。
「あんたのように高貴そうなご令嬢が、こんな野蛮な場所に何用だ? 迷子になったなら、送り届けてやらなくもないが」
「え、えぇと」
 高貴そうなご令嬢に向かって、その言い様か。シェリアは心の中で突っ込みながら、表ではひどく戸惑った。――誰だ。これは誰だ。しかしどうでもいいが、この男の出現でますます自分は悪目立ちしている。
 一斉に集まった周囲からの視線におどおどしていると、男がさもおかしそうに声を上げて笑った。
「まあそう、怯えるな。取って食おうってワケじゃねぇさ」
「はぁ」
「はぁ、って。何だその反応。変な女だな」
 くっくっと男はまだ笑う。一体何がそんなに面白いのかシェリアには理解不能だ。
「いやしかし――」
 男は、ぐいっ、と顔を近づけヴェールの下の顔を覗きこんできた。これにはシェリアも慌てて身を引く。
「噂に違わぬ美しさ、だ」
 えっ、と瞠目していると、男は更に言葉を続けた。
「あんた、聖女シェリアスティーナだろ」