11.

 その晩、シェリアはなかなか寝つけなかった。
 瞼を閉じれば、あの牢獄の陰惨な風景がどうしても蘇ってくる。目に、心に焼き付けようと強く誓ったのは他ならぬ自分自身だというのに。こうしてまざまざと浮かんで漂う狂気の世界に、シェリアはただもがき苦しんだ。
(でも、まだ)
 分かっているつもりだ。
(一部分にしか過ぎない。シェリアスティーナの深い闇の)
 神は一体、何を望んでおられるのか。分からなくなる。あのような残酷な仕打ちの出来る娘を、己が代弁者として認めておられるというのだろうか? 身勝手で、傲慢で。神の道どころか、人としての道も大きく踏み外しているようなシェリアスティーナ。時が経ち、彼女の魂が舞い戻ってきたら。またこれまでと代わらぬ非道な行いを続けていくのか。だとしたら、なんのために彼女は再び蘇るのだろう。
(主よ……)
 どうか答えを。――なんのために、私は今こうして生き長らえているのですか。

 答えは返ってこなかった。
 ただゆっくりと、長い夜は続くのみ。
 シェリアは瞳を閉じ、一人涙を流した。

 翌朝は気持ちのいい天気だった。雲ひとつ無い青空が清々しい。
 シェリアはゆっくりとベッドから身を起こし、昨日と同じように窓を開けて風を取り込む侍女の姿を目で追った。なんだか、つい数時間前のあの光景は、悪夢の中の幻だったのではないかと感じられてしまう。けれどそれこそが錯覚で、昨晩の全てが現実の出来事であったことは、シェリア自身よく理解していた。
「シェリアスティーナ様、おはようございます」
 やはり昨日のように事務的に、侍女は朝の挨拶を告げる。
「話しかけないで」
 試しにそっけなくそう言ってみたが、侍女は傷ついた風もなく、無感動に頭を下げただけだった。
 ――こんなのが日常だというのなら、とても悲しい。
 シェリアは憂いを含んだ瞳をそっと伏せたが、そんな様子に気付いてくれる人などここには誰もいやしない。まもなく着替えを持った侍女が二人入ってきたが、シェリアが不機嫌そうに黙っているのを見て、却って安堵しているようだった。昨日のようにわけの分からないことを言われてはたまらない、そんな思いが読み取れる。
 着替えを終えて、一人きりでの朝食も終えた頃、昨日と同じくライナスが部屋にやって来た。
「おはよう、シェリア。昨晩はちゃんと眠れたかい?」
 シェリアは無言で頭(かぶり)を振った。
「それはよくない。きっと真面目な君のことだ、色々と考え込んでしまったのだろうね」
「ねえライナス、ホリジェイルの件、本当にちゃんとしてくれた?」
「もちろん。私に抜かりはないとも」
「収容されてた人たち、命に別状はなかったのかな」
「まあ、危うい者もいたけれどね。生命に関しては、全員無事だったと言っておこう」
「……心の壊れてしまった人もいるんだね」
「だが、シェリア。そう塞いだ表情をするものじゃないよ。昨日君が彼らを救おうとしなければ、あそこにいた誰一人として助かる者はいなかったのだから」
「でもあの人たちをあんな目に遭わせたのも私だよ」
「君じゃない」
 間を置かずに、ライナスは即答した。
「あまり自分をシェリアスティーナと同一視せぬ方がいい。いいかい、君は、シェリアスティーナじゃないんだからね」
「私は、シェリアスティーナだよ。シェリアスティーナでしかあり得ない――もう」
 まるで呪文のように呟くシェリアを見つめ、ライナスはわずかに眉を寄せた。しかしそれも一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情を浮かべ、小さく首を振る。
 窓辺に身を寄せる少女に近づいて、ライナスはそっとその華奢な身体を抱きしめた。
「なんだか沈んでいるようだね。私が慰めてあげよう」
「――い、いらないよ、そんな変な親切!」
「それにしても、君も案外賢(さか)しいね。昨晩私と『あの』約束をしてから、ぴたりと敬語を使ってくれなくなったようだ」
「な、何言って」
「いいんだよ? 無理して砕けた口調にしてくれなくても」
「もうっ! ふざけてないで、放してよっ」
「おやおや、つれないなあ。数日前までのシェリアとは、抱擁を交わすなど日常茶飯事だったのだけれどねえ。今頃になって拒むなど、シェリアスティーナ、君らしくないよ」
 にこにこと笑うライナスの腕の中で、シェリアは真っ赤になって暴れていた。
「やっぱり、二人ってそういう怪しい関係……」
「ほらほら、もう抵抗はお止め。――悲しむのも、お止め」
 一瞬大人しくなったシェリアだったが、不意に我に返ってライナスの胸を両手で押し返した。
「わ、私こんなバカなことしてる場合じゃないんだった」
「バカなこととは失礼な」
「ねえライナス、私を収容されてた皆のところへ連れて行って。様子を見せてもらいたいの」
 そう告げると、瞬間、ライナスの瞳が厳しい色を宿した。
「それは駄目だな」
「どうして」
「中身は別人でも、外見は彼らを地獄の淵に追いやった人物と全く同じ君が、彼らの前に姿を現すのはよくない。と、昨日言ったはずだね」
「でも」
「彼らにとっては追い打ちもいいところだ。逆に君にも危害の加えられる恐れがあるしね。発狂しかけた彼らが、全ての元凶である君の姿を見つけて襲い掛かってくるかもしれないだろう」
 そう言われてもまだシェリアは納得できない。
「何も、今後永久に彼らと会うなとは言わないよ。ただ、昨日の今日はさすがにお互い刺激が強すぎる。会うならば、もっと時間を置いて、それぞれ落ち着いてからにした方がいい。どれだけ時間を置いても、赦しは得られないかもしれないが」
「……うん、そうだよね。わかった」
 納得できていなくても、理不尽に我を通そうとするほど愚かではなかった。シェリアはどうにか頷いて、自身の気を静めるために大きく息をはいた。
「では、少し落ち着いたところで、そろそろ礼拝の儀の時間だ。準備はいいかな?」

 礼拝の間は、町中にもよくある感じの教会に似ていたので、シェリアも幾分か気を楽にすることができた。
 自分が中心になって何かをするのではなく、神官長の祝福の言葉を聞き神に祈りを捧げればよいというから、シェリアにとっても嬉しい儀式だ。――ただ、自分の場合は最前列のど真ん中に特等席が用意されている。そうと気付いたときは閉口したが、そんな扱いにもそろそろ慣れねばなるまい。
 五十ほどある席はもうすでに国の重役たちで埋まっていた。あとは自分が厳かな態度で指定された席まで行けばよい。まるで舞台裏から表舞台へ登場する寸前の役者の気分だ。実際、この教会は劇場のような造りになっていて、シェリアは袖から登場する手筈になっている。
(さあ、落ち着いて行こう)
 すう、と息を吸って足を踏み出す。その時、自分とは反対の袖から同じように歩み出る人影を発見し、シェリアは思わず身体を強張らせた。あれは――かのアシュート第一神聖騎士様ではないか! 戸惑ったが、だからといって逃げ出すわけにも行かないし、その理由もないはずだ。シェリアは内心ひどくうろたえながらも、なんとか背筋を伸ばしたまま指定席まで歩みを進めた。……ううむ、見れば、確かにどう考えても二人分の特等席だ。シェリアは今頃気づいた自分に呆れながら、その場に跪き祈りの姿勢をとった。すぐ隣ではアシュートも同様に跪いている。どうもこの儀式ばかりは聖女と神聖騎士が揃って出席する慣わしらしかった。
 こっそりとアシュートの様子を覗き見る。だが、向こうはシェリアになど一瞥さえくれず、真っ直ぐ壇上を見据るのみだった。相変わらずの嫌われぶりにシェリアは心の中で溜息をつく。出来れば、伝えたかったのに。あなたが憎むシェリアスティーナの悪行を、一つこの目で確かめたと。それで許してくれだなんて言うつもりはない。でも私は逃げないから。なかったことになんて、絶対しない。きちんと向かい合うよ――真実と。
 やがて、緩やかに前奏の音楽が流れ始めた。
 シェリアは瞳を閉じ、その音楽に聴き入った。

 礼拝の儀が終わって誰もいなくなった教会内は、当たり前だがしんと静まり返っていた。
 白を基調としたこの神秘の空間は、シェリアにとってはもっとも居心地のいい場所のひとつだ。祝福の間は、真っ白すぎて逆に少し窮屈だった。
 シェリアはこっそり教会内に戻ってきて、そっと天井を仰いだ。高い高い天井には、美しい天上人の姿が幾多も描かれ、優雅に舞っている。
(我が主ヴェーダよ)
 シェリアはもう一度、今度は一人きりで跪き、そっと神に祈る。
(主は仰いましたね。私に、シェリアスティーナ様であれと。この聖女様の身が一度とはいえ儚くなったこと、人々に悟られぬようにと。――それが主の望みならばと、私はそのご意思に副うよう力を尽くすつもりでおりました)
 でも、とシェリアは思う。
(本当に、それが主の望みであられるのでしょうか。極悪非道と恐れられるシェリアスティーナ様のお心をそのまま受け継ぎ、またそのままそれを引き継ぐ。それが一体何になるのかと、愚かな私は昨夜一晩悩みました。それに対する答えは出ません。やはりどうしても、このまま全てをただ受け継ぐことなどできぬと悟ったのです。それに――)
 ふと、シェリアは顔を上げた。
(かのシェリアスティーナ様も、そのようなことは望んでおられぬはずではありませんか? なぜ聖女様は自ら命を絶たれたのか。人が己の命に終止符を打つとき、それは全てを終わらせたいと切に願った時に違いありません。きっとシェリアスティーナ様ご自身も、そのようにお考えになられたのでしょう。ご自身のお心や、そのお心のままに為された行いを、ひどく厭われたから。だからきっと、ご自分をお見捨てになるという暴挙に出られたのではないでしょうか。――いいえ、知ったようなことを申しておりますが、私はまだシェリアスティーナ様のお心の欠片ほども理解しておりません。今の私に全てが理解できるはずもないこと、よく承知しております。でも、だからといって、無知に任せただ流されるのは嫌なのです。私は何の力も持たぬ平凡な町娘に過ぎませんでした。今も根本は変わっておりません。でも、あと半年少々、頂いたこの生命を、私が正しいと信じられる道に費やしたいのです。己が信じる道を誤らぬために、どんな努力もいたします。ですから、我が主ヴェーダよ)
 ぐっ、と組んだ両手に力を込める。
(主が仰られたとおり、かのシェリアスティーナ様そのままに振舞うことの出来ぬ私をお許しください。私は――やはり私なのです。かつての名も失い、肉体も失い、もはや別人の姿となろうとも、私の魂は、変わらず私なのです)
 そっと、シェリアは立ち上がり、瞳を開いた。……ごめんなさい、神様。期待に応えることはできなさそうです。でも私なりに精一杯、生き抜いてみせますから。
 強く強く、念じた。自分の意志が揺らがぬよう。そして、この想いが神の元に届くよう。

 ――その瞬間、柔らかい風が頬をくすぐり、陽の光が全身を包んだ。

 ああ――神の祝福は、まだこの魂を包んでくれている。
 こんなにも優しく、穏やかに。
 ふっ、とシェリアは微笑んだ。