16.
その次の行動は、アシュートよりもジークレストよりも、その女の方が早かった。ただの使用人としか思えぬ彼女に彼らの気も緩んだのだろう。女は自分の取り落とした大きなかごの中から真っ赤なトマトを咄嗟に手に取り、あろうことかシェリアに投げつけたのである!
「!!」
べちゃ、と気持ちの悪い音が辺りに響いた。
その場にいた全員が、息を呑む。
――シェリアの頭に、トマトが直撃したのだ。無残に潰れたトマトはその美しい金の髪を赤く染めた。そして熟れた果肉がぼたぼたとシェリアの身体を伝って地面に落ちて行く。
「――っ」
何が起こったのか。シェリアはすぐに分からなかった。ただ、ぬるぬるとした気持ちの悪い感触だけがはっきりと感じられた。
「あんたなんか、あんたなんか――!!」
一方の女は、叫び声を上げながら狂ったように二個、三個と立て続けにトマトを投げつけた。しかし動いたジークレストが盾となり、もう欠片さえもシェリアの元には届かない。トマトは彼の大きな掌の中で醜く潰れていく。
「――衛兵!」
次に動いたのはアシュートだ。鋭く周りの兵士たちに目配せすると、厳しい声で命令する。
「その女を捕らえよっ」
半ば唖然としてその成り行きを見守っていた兵士たちだったが、その声に我を取り戻し、すぐさま三人がかりで女を押さえつけた。しかし大の男に押さえつけられながらも、女は全く大人しくしようとはしない。「あんたのせいで」と叫びながら激しく身をよじらせ、冷たい廊下に這いつくばりながら、それでも刺すような視線でシェリアをねめつけるのだ。一体どこからこのような力が湧いて出るのか。あまりに力強く抵抗するために、兵士たちも彼女を取り押さえるのに一苦労である。
「女、このお方を知らぬわけでもあるまい!己がどんな無礼を働いたのか分かっておろうな!」
アシュートは厳しく女を追及した。
「この女があの悪名高いシェリアスティーナなんでしょう!どんな悪魔よりも醜い聖女、シェリアスティーナ!――そうよ、私はあんたを殺す。絶対に――殺してやる、殺してやるッ!!」
狂気すら覗かせる女の叫びに、シェリアは言葉を失った。
あまりにも激しく深い、憎しみ。――殺意。
とても受け止めきれない。シェリアは思わず一歩後ずさった。しかし目だけは逸らすことができない。捕えられたように、女の燃えるような瞳に吸い寄せられてしまう。
「聖女にかような狼藉を働いた上、まだ愚弄するのか!」
「極刑も辞さぬ覚悟ですっ!!」
女はアシュートに負けぬほど鋭く、凛とした声で叫んだ。途端、その瞳から涙が溢れ出す。
「この人は……、この人は、私から彼を奪ったのよ。私を、幸せにしてくれると優しく微笑んだあの人を……」
はっ、とシェリアは息をのむ。
「戯言は聞かぬ!衛兵、すぐに女を牢屋へ連れて行け!」
「――待って!」
我知らず、シェリアは叫んでいた。聞かなくては、聞かなくては……。
「シェリアスティーナ様っ」
「――いいよ、言って。言いたいこと、全部聞くから」
諌めるアシュートを制して、シェリアは女と向き合った。女は噛み付くように叫び声を上げる。
「今更、慈悲のあるふりをしようとでも!?それが何になるというのですっ!あなたは全てを奪ったのよ。私たちの未来も、笑顔も、ささやかな幸せも!」
「――」
「あなたは無実のあの人をホリジェイルに閉じ込め、拷問をして、残酷にも喜んだ。――そしてやっと帰ってきた彼は、まるで廃人と成り果てていたの!私のことはおろか、自分が何者だったのかも忘れ、ただ真っ青な顔で震えるだけ――!」
そうか。彼女は、ホリジェイルに投獄されていた人物の婚約者だったのか。
「どうして?どうして彼があんな目に遭わなければならなかったの?彼が何をしたって言うの?」
「――」
「絶対に許せない。私はあなたを、許せない――!」
渾身の力を振り絞って、女は兵士の束縛を振りほどいた。瞬間、押さえていた兵士の一人がはっとしたように足元のかごを遠くへ蹴飛ばす。
――飛び散る数々の果物、野菜。その中に混じってキラリと冷たい輝きを放ったのは、銀の果物ナイフだった。
「!」
「お前――」
アシュートが小さく舌打ちをする。ジークレストは黙ってシェリアを引き寄せた。
「くっ」
そして女は再び兵士に押さえ込まれる。
「……まさか、聖女を手にかけようとまでするとは。女、この場で首を斬られたいか」
冷たい眼差しで、アシュートは腰に下げていた剣の柄に手をかける。冷ややかなオーラをまとって彼は女に歩み寄った。
「待って、アシュート!」
弾かれたようにシェリアはアシュートに駆け寄った。そしてその左手に縋りつき、必死の顔で彼を見上げる。
「やめて、殺さないで、駄目!!」
「シェリアスティーナ様、お下がりください。どの道この女は極刑です。ここで始末をつけねば、万が一にもあなたを傷つけさせるわけにはいきません」
「駄目だってば!!そんな、だって、私はただトマトが当たっただけだよ!?それで死刑だなんて、そんなのおかしいよ!」
「あなたがそれを言いますか?――この女の言葉を借りれば、それこそ今更、というものでしょう」
女に向けたそのままの冷たい視線をシェリアに移す。彼の瞳にも憎悪の影がちらついた。
「嫌だ、嫌だ!今更でもなんでもいいっ。絶対にこの人を殺しては駄目!」
「シェリアスティーナ様」
心底苛立ったように、アシュートは息を吐いた。これまで黙っていたジークレストも低い声でシェリアを諌める。
「なあシェリア、ワガママをちょっとは直せって言っただろ?聖女にトマトを投げつけるなんて、そりゃあ絶対やっちゃいけない行為だ。極刑なのは当たり前だろう」
「だって、もとは私がこの人の婚約者をひどい目に遭わせたから……」
「それでもだ!」
ジークレストは声を荒げる。これにはシェリアもびくついた。
「……分からないのか?今ここでこの女を許したら、王宮は大混乱に陥るぞ。憎き聖女に復讐を果たしても罰するものは誰もいないってな。それなら自分もという奴らがわんさか出てくるに決まってる。聖女を恨んでいる奴は山ほどいるんだからな」
「……っ」
あまりにも正論で、シェリアは何も言い返せなかった。――シェリアスティーナの蒔いた種が大きく育ち、その蔓がどこまでも自分を追いかけてきて絡めとる。今ここで彼女を見逃せば、更なる怨みが膨らむばかりというのか。
「皆の見ている前でしっかり始末はつけなきゃならねぇ。これは上に立つ者の使命なんだ。だからアシュートは、心を鬼にしてこの女を処刑する。――いいかシェリア、お前のためにこの女は死に、アシュートは手を汚す。それを忘れるな」
そんな。そんなことって――。
目の前が真っ暗になった。自分が罰せられるというのなら甘んじて受け入れる。だがその罪を他の人に背負わせるなんて。
――嫌だ、とシェリアは強く思った。
我儘だろうが傲慢だろうが、周囲の状況や将来の見通しを何も考えていないと言われようが、自分のためにこれ以上無意味に人を傷つけたくない。もうそんなことを繰り返してはいけないのだ、絶対に。
「駄目」
「シェリア――」
「この人を殺すくらいなら、私を殺してよ。それができないなら、私を牢屋に放り込んでよ。そうすれば他の誰も私に復讐なんてできないでしょう?それならこの人の命も助かるし、少しは気も晴れてくれるかもしれない。アシュートだって斬りたくもない人を斬らなくて済むよ。ねえ、私はそれでいいから、――お願いだからこの人を殺さないで!」
もともと自分は一度死んだ身だ。それにあと少しでまたこの世を去る運命(さだめ)。ならば今この場で二度目の死を迎えることになったとて、それがなんだ。構うものか。あとは神様がどうにでもしてくれるだろう――。
シェリアはとにかく必死だった。半ば自暴自棄になって、ひたすら駄目だ駄目だと繰り返す。――誰が錯乱して、誰を傷つけようとしたって?その場の全員が、思わぬ事態に混乱し言葉を失った。成り行きを見守っていた通行人たちも、女を取り押さえている兵士たちも、取り押さえられている当の女自身でさえも、気が狂ったのは聖女の方ではないかと思わずにはいられない。唖然として、ただわめき散らす聖女を見つめた。
ふうー、とジークレストが深い溜息をつく。どうするんだ、と視線だけでアシュートを責っ付いて。その視線を受けたアシュートは、やはり苦々しい顔で眉間に皺を寄せていた。
「……どうやら聖女は、ご自身の目の前で穢れた血が流れるのをお気に召されぬ様子だ。しかしそれも至極もっともなこと。神の遣わせし聖女の前でかような下女の首を落とそうなど、私も愚かな真似をいたしました。どうぞお許しください」
怒ったような表情はそのままに、アシュートはシェリアに向かって騎士風の堅苦しい礼をした。
「それじゃあ……」
「この者は、一旦牢に繋いでおきましょう。後ほど、然るべき処置をとります」
「――そんな!」
「ジークレスト」
アシュートは、聖女の非難を遮るように控えていた友に素早く声をかけた。
「悪いが兵士たちと共に女を牢屋へ連れて行ってくれ。私は聖女を自室にお連れする」
「……ああ、わかった」
「ま、待ってよ。私が言いたかったのは」
「さあ皆の者、それぞれの持ち場に戻れ。不用意に騒ぎ立てることは一切禁ずる!」
今度こそは何があっても譲らぬつもりらしい。シェリアを全く無視して、アシュートは毅然とした態度で周りに命じた。こうとなれば、一件落着ムードが一気に広がっていく。立ち尽くして成り行きを見守っていた者たちも、ただの一言すら口を聞かずさっと各々散って行った。そうしてあとに残されたのは、ただ一人納得のいかないシェリアのみである。
「シェリアスティーナ様も戻りましょう。御自室で、少しお気を静められるのが良い」
――ひどい。ひどい、ひどい。
お部屋で気持ちを静めましょう?そんなこと――よくも言えたものだ。自分のせいでまた一人、命を失うことになったというのに。それで平静にしていろという方が、よほど無理な注文ではないか。
ふつふつと湧き起こってくる怒りは、しかしアシュートにはぶつけられない。――悪いのは、確かにシェリアスティーナだ。他の誰でもない、自分なのだ。かつての彼女ならば、きっとこの状況ですら平然としてお茶でもすすっていたのだろう。
――ひどい。ひどい、ひどい。ひどい――!
一体何が?もはや分からない。何に対して、ここまで憤っているのか。シェリアはどっと疲れを感じて、その場に倒れこみたい衝動に駆られた。