17.

 自室へ戻り、シェリアはソファの上にどさりと身を放り投げた。疲れた。もう、本当に疲れた。
 続いて入ってきたアシュートは、うなだれるシェリアを静かな目で見つめ、後ろ手で扉を閉める。部屋まで見送ればすぐに立ち去るだろうと思っていたシェリアは、そんな彼の行動を不審に思って顔を上げた。……まだ小言を言い足りないとでも言うのだろうか。
「あなたがあれ程まであの使用人を気にかけるとは、意外でした」
 しかしアシュートの口をついて出た台詞は、小言以上に腹立たしいものだった。
「……何が言いたいの?」
「別に。率直な感想を述べたまでですが」
「あなたの感想を聞きたいだなんて、私がいつ言ったの!」
 思わずかっとなって、シェリアはわめいた。
「もうっ、出て行って。お願いだから、一人にしてよ!」
 これ以上アシュートと向かい合っていれば、理不尽に彼をなじりかねない。八つ当たりでも何でもいいから、このどこにもやり場のない苛立ちや焦燥感を誰かにぶつけてしまいたいのだ。
 しかしアシュートは出て行かなかった。
「シェリアスティーナ様、あなたのご命令ならば、この国の法律でさえも覆ります」
 静かな声だ。
「あなたがあの使用人を処刑するなと仰るならば、何人たりとも彼女に手を出すことはできません」
「……でも、でも、さっき」
「本来ならば、そのような権力の乱用はお控えになるべきです。下々の者たちの反感を買うばかりでなく、ジークレストが言ったように、直接あなたの身を危険に晒すきっかけにもなりかねません。ですから私たちはあの場で使用人を許すことはしませんでした」
「……」
 アシュートのどこまでも静かな声に、シェリアも自然と落ち着きを取り戻してくる。
「あなたには、もっとご自身の立場を分かっていただく必要がある。それに、第一神聖騎士である私と神聖騎士団副長であるジークレストが、あまりに易々とあなたの我儘を受け入れる様を周りの者たちの目に入れれば、一層彼らの不満を増幅させることになったでしょう。この国のトップは、あまりに聖女の言いなりであると」
「……そうかも、しれないけど」
「道徳に沿ってさえいれば何事もうまく行くとは限らないということを、お忘れなきよう」
「……」
「どういたしますか。あの使用人の処遇を、改めてお伺いいたします。――今回こそは、シェリアスティーナ様のご意向のままにいたしましょう」
 シェリアはうつむいて、唇を噛みしめた。……どうするのが一番いい?聖女に不敬を働けば死罪というのがこの国の法律だ。ならば、その通りに処するのが本来採るべき道なのだろう。聖女の権力をやたらと振りかざしたくはないと自分でも思っているし、アシュートたちにとってもそれが好ましくないのは同様だ。――しかし。
「あの人を、許して」
 結論は、やはり変えられなかった。
「――分かりました」
 アシュートは静かに瞳を閉じる。
「ごめんなさい。でも、やっぱりどうしても嫌だよ。どう考えても、あの人が悪いわけじゃない。それに、あの時あの人は私を……殺すって言ったけど、本心ではそんなつもりなかったと思う。もし本当に私を殺そうとしたのだったら、最初からトマトじゃなくてあの果物ナイフを投げつけていたはずでしょう?――分かってる、殺意があっても無くてもこの件では同罪だっていうのは。でも……もし私が大切な人を傷つけられたら、きっと同じように聖女のことを許せなかった。私なら、トマトじゃなくてナイフを投げていたかもしれない。――そう、許せという方が、罪だよ……」
 訥々と、胸の内に渦巻く思いを言葉に変える。アシュートは聞きながら、辛そうに顔を歪めた。
「……あなたは本当に、記憶を無くしてしまわれたのですね」
「え?」
 いえ、と彼は低く答えたのみだった。
「――使用人の処遇ですが、流石に完全な無罪というわけにはいきません。三週間ほど牢に留め置いて、その後解雇といたしましょう」
「……うん」
「このまま王宮に置くのは、かの者にとっても辛いだけです。周りの使用人たちももはや今までどおりに彼女に接することはできないでしょうから」
「――あ!ねえ、それじゃあ、今も寝込んでいる婚約者の世話役をやってもらうっていうことでどうかな。婚約者の男の人には、王宮から離れた場所に部屋をあげて。そうすれば、二人一緒にいられるし、周りの目線も気にしなくていいし、仕事にあぶれることもない。ね?」
 シェリアは顔を上げ、縋るようにアシュートを見つめた。
「……」
「ホリジェイルに入れられていた人たちには、彼だけじゃなくて皆にそれくらいのことはしてあげて欲しいの。私のために納められた宝飾類は全部その費用に充てちゃっていいから!なんなら食事だって、あんな豪華なものじゃなくてもっと質素にしてくれていいし。あ、そういえばすごくたくさん衣装もあるみたいだけど、あれも全部売っちゃって……」
「そのようなことをしていただかなくとも、被害者たちの面倒を見るくらいの財力は十分にあります」
 全く……とでも言いたげに、アシュートは眉間に皺を寄せ、ぶっきらぼうに答えた。しかし案自体に反対されたわけではないようなのでほっとする。
「うん、うん、ありがとう、アシュート」
「あなたに礼を述べていただくようなことは何もしていません」
 相変わらずつれない男だ。
「あ、そうだ、……あの女の人、今、牢屋にいるんだよね?」
「そうですが」
「その牢屋って、ホリジェイルみたいなところじゃ……ないよね。大丈夫だよね」
「当たり前でしょう。王国正規の牢屋があのように悪趣味なわけがありません。ホリジェイルとは違って、きちんと簡易ベッドもありますし、食事も三食しっかり出します」
 それを聞いて安堵の息をもらした。刺々しい物言いが少し気になるが、反論できるような立場ではない。
「三週間……。三週間、かあ」
 ふむ、とシェリアは考え込む仕草をした。
「……私もその間、反省の意味も込めて大人しく軟禁でもされていようかな」
「……は?」
「だって、あの人だけ牢屋に閉じ込められるのは不公平でしょう。私も何かしら罰を受けないと」
「……公平、不公平の問題ではありません。あの使用人とあなたとでは、立場からして違いすぎます」
「でも私だって、何かしたいよ」
「あなたが罪を償おうとすれば、そのお命がいくつあれば事足りるのだか」
 強烈に皮肉られ、シェリアははっと身体を強張らせた。瞬時に血の気が引いたその顔を見て、流石のアシュートもばつの悪そうな表情をする。
「――いえ、口が過ぎました。申し訳ありません」
「……」
「……そうですね、しかし実際、三週間ほどの間はシェリアスティーナ様にも大人しくしていただいた方がいいかもしれません。あの使用人の処罰については納得のできぬ者も出てくるでしょう。今までは、はっきり言ってしまえば恐怖政治を敷いていたようなもの。ですから、聖女に不満があっても逆らおうとする者はいませんでした。しかし今回は違います」
「……皆が逆らう糸口を与えることになる、ってことだよね」
「その通りです」
「だからこそ、私も」
「あなたを牢に入れるわけにはいきませんよ。自室から出ないようにしていただくくらいしか、できることはありません」
「……わかった。それでもいい」
 納得できたわけじゃない。しかし無理を通しても意味が無いのは分かっていた。とにかく、あの使用人を生かせば周りから反発が起こる。その反発を最小限に抑えるには、使用人とシェリア自身とである程度の苦しみを被らなければならないのだ。
「その間の儀式は、お休みさせてもらっても平気?どうしてもっていうのがあればちゃんと出るけど。でも、できれば三週間は一歩も部屋から出ないようにしたいの」
「……ええ、参加していただかなくても結構です。手筈は全てこちらで整えておきましょう。上の者にもこちらから事情を説明しておきます」
「ごめんね、色々面倒かけて」
「あなたのために動いているわけではありません。全ては、この国のために」
 シェリアの言葉を拒絶するように、アシュートは目を伏せ静かに言葉を紡いだ。