25.

 それから一週間、シェリアは言葉どおり毎日医療室へと足を運んだ。
 ある日は果物を運び、ある日は花を運び。シェリアが近づくと皆怯えるので、なるだけ彼らを怖がらせないよう遠巻きに床を掃いたり洗濯物をたたんだりしている。五日目からは侍女のナシャが世話を手伝ってくれることになったので、ミズレーもいくらかほっとしているようだ。医療室で聖女と二人で雑務をこなすのに彼女も気疲れしていたのだろう。ナシャも最初こそあのティータイムの時のようにカチコチに固まっていたが、二日もすればすっかりくつろいだ様子で手際よく仕事をこなすようになった。
「ナシャ、ごめんね。私につき合わせちゃって……」
「いいえ、お気になさらないでください」
 二人並んで洗濯物をせっせと洗う。シェリアはそっと隣のナシャの様子を窺ったが、実際彼女はそれ程嫌がっているようには見えなかった。――しかし、シェリアに付く侍女は彼女たち自身身分の高いお嬢様ばかりだ。だからこうして下々の者の汚れ物をその手で洗うなど何よりの屈辱に違いない。と、シェリアは勘繰っていたのだが。
「……こういうの、イヤじゃないの?」
「ええ、むしろこういう作業の方が慣れているんです」
「慣れてる?」
「……はい。名前からもお分かりかと思いますが、私は平民の出身ですので」
 そうだったの、とシェリアは驚いてナシャの横顔を見つめた。確かに「ナシャ」などは貴族らしからぬ名前である。しかし平民の出であるとは今の今まで思いもしなかった。聖女の周りを固めるのは高位の貴族たちと決まっていたのだ。
「……申し訳ありません。聖女様のお側にお仕えする侍女が私のような者で――」
「どうして!私、嬉しいよ!」
 シェリアは思わず大きな声を出してしまった。そうか、初めて会ったときに感じた親しみは、同じ出身が故だったのか。
「う、嬉しい……ですか?」
「うん。だって私も平民の出身だもん。やっぱり、気疲れしちゃうよ。周りの人たち皆が本当は自分より偉いんだと思うと。でも、珍しいね?ナシャの周りにもいないでしょう、同じ平民出身の人たちって」
「ええ――それは」
 口重たそうに、ナシャは言葉を濁らせた。もしかして、とシェリアには思いあたることがある。
 ナシャは、いわゆるスケープゴートとして自分の下につけられたのではないか?聖女の身近な侍女になればなるほど、その毒牙にかかって不幸を抱える可能性は高くなる。かつて自分の護衛役に誰もなりたがらなかったように、侍女たちの間でも激しい仕事のなすり合いが起きていたのかもしれない。思えば、ここ最近はカーリンとナシャばかりが自分の世話を焼きに来ていた。他の侍女たちは、せいぜい朝シェリアを起こしに来たり、部屋の空気を入れ替えに来たりする程度だ。近頃ますます様子のおかしい聖女を前に、侍女の身に万が一のことがあっても波風立たぬように――ナシャは、そうして選ばれた平民侍女だったのかもしれない。
「ごめんね。色々大変だったでしょう」
「そんな、シェリアスティーナ様に謝っていただくことなど」
 そうと考えれば、初めてシェリアの元に上がった日のナシャの緊張ぶりにも合点がいく。
「約束するよ。あなたを悪いようには絶対しない」
「シェリアスティーナ様……」
「さ、頑張ってあと少し、洗っちゃおう。これが終わったらナシャは休憩してね。私も部屋の掃き掃除したら、戻るから」
「いえ、私もご一緒します」
 そう言って微笑むナシャの表情は、初日とは比べ物にならないほど柔らかいものになっている。その笑顔を見るだけでシェリアは嬉しくなってしまうのだった。
「――さあ、お二方。ちょっと休憩されてはいかがです?美味しいお茶を入れましたから」
 部屋の裏口から顔を出したミズレーが、明るい声でシェリアたちを呼び込んだ。

 医療室に戻ると、ジークレストが暇そうに椅子に腰掛けてまどろんでいた。暇そうではあるが、同時に気持ちよさそうでもある。それ程この部屋は居心地の良い清涼な空気に包まれていた。ミズレーがせっせと働いているお陰だろう。
 ホリジェイルの被害者たちは未だシェリアには慣れないようである。シェリアがいる間中、布団を頭までかぶってまるきり反応を示さない。しかし流石に恐怖心は薄らいできたのか、同室にいるだけでガタガタと震え怯えることはなくなった。怯えなくなったことと、赦しを与えることとは全くの別物であるとシェリアも分かってはいるのだが。
 それにしても、とシェリアはこっそり被害者たちの様子を窺った。一つ気になっていることがある。
 ――ネイサンが、いない。
 誰も彼も布団を被っているので、個人を識別することはできない。しかし一緒にいるジークレストの様子からしても、この中にネイサンがいないのは確かだと思われた。ホリジェイルの被害者たちは今のところ全員この場所で療養しているはずなのだが、ネイサンは別の場所にいるのだろうか?この一週間、密かに悶々としていたのだが、そろそろ実際確認してみようという気になった。
「あの、ジークさん」
「んあー?」
 この上なく気だるげなジークレストの声。これで本当に聖女の護衛なのか。
「ネイサンさんって、ここにはいないんですね?」
「ああ……あいつはな。自室で療養してる」
「自室で?」
「そ。一通りの拷問受けてからは、ほったらかしにされてたからな。牢屋の中でも少しずつ回復してたみたいなんだ。その辺流石に凡人じゃねぇよな。そういうワケだから、ここにいる連中より今は症状が軽い。本人の希望もあったから、自室で休んでてもいいだろうってことになったんだ」
「そうなんですか」
「押しかけようなんて思うなよ」
 ぎらり、と突然鋭い眼差しになって、ジークレストはシェリアを牽制した。
「……う、はい」
「あいつはかなり周りの空気に敏感な奴だからな。シェリアが押しかければ苦痛になるのは目に見えてる」
「……はい」
 よし、と満足げに頷いて、ジークレストはぽんぽんとシェリアの頭を叩いた。その様子を見守っていたミズレーとナシャは揃って息を呑む。聖女に対する護衛の態度とはとても思えないからだろう。そして何よりも、そのような扱いを甘んじて受け入れる聖女ではないはずなのだ。しかし実際目の前にいるのは、拗ねたように背中を丸めて小さくなっている少女が一人。聖女の威厳はどこにも見当たらない。
 同じように驚いているのは二人だけではなさそうだ。布団の中に身を隠し、息をひそめているホリジェイルの被害者たち。彼らも興味深そうに、こっそりとシェリア達の様子を窺っている。
「さ、そろそろ戻るぞシェリア」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。まだ洗濯物を干さなきゃいけないし、それが終わったら掃き掃除だって……」
「だぁ〜、もう!俺だって忙しいんだって!このあと騎士団の訓練に顔出さなきゃなんねえんだからさ。後のことはミズレーとナシャがやっといてくれんだろ」
「ジークさんってば!」
 この五日間、ジークレストが口を開けばいつもこれだ。医療室に入った瞬間から帰りたがる。確かに彼にとっては、随分手持ち無沙汰な時間だろう。この場でシェリアを害する者など、内心はどうであれ、実際としては皆無なのだ。シェリアに付き合って掃除洗濯などもってのほか。となると、することが何もないのが実情だ。シェリアもライナスに会うたび護衛はいらないと訴えているが、彼は聞く耳持たずという風情で取り合ってくれない。申し訳ないと思いつつ、それでもやはりここを訪れるのだけは譲れないシェリアである。
「シェリアスティーナ様、こちらのことは大丈夫ですよ。あとはしっかりやっておきますから、どうぞジークレスト様とお戻りください」
 困ったような笑みを浮かべながらミズレーが明るく言った。シェリアを邪険にしているような様子ではなく、ごく自然に彼女やジークレストを労わっているような口調だ。
「う、うーん」
「そうですよシェリアスティーナ様。私もミズレーさんのお手伝いをしますから大丈夫です」
 ナシャにまで言われてしまっては、強引に居座り続けるわけにもいかなさそうだ。
「よし、そしたらこれでどうだ。シェリアを騎士団の訓練に連れてってやるよ。シェリア、あんまり出歩いてないだろ?自分の部屋と儀式の間の往復だけじゃつまらないと思わないか。せっかくこうして医療室にも足を伸ばすようになったんなら、他の場所も見て回ったほうがきっと楽しいぞ」
 ジークレストのダメ押しが出た。……しかし確かに惹かれる提案ではある。雲の上の存在として町の乙女たちが憧れる神聖騎士団の面々と、実際に対面できる機会。若い娘ならば、多少心踊ってしまっても無理はない。
 だが、騎士団との対面と被害者たちの世話を天秤にかけるなど。それだけでもとんでもないのに、それで天秤がグラグラと揺れてしまうほど、自身の決意は軽薄なものなのか。いやまて、そもそもこのような申し出が無くとも今日はこれで退室するつもりだったのだ。それなのに、ジークレストがいらぬ提案を持ちかけてくるから……。む、となると悪いのはジークレストということか?いやいや、ではなくて、やはり悪いのは自分自身の弱い心なのであり、ジークレストは関係ないはず……。
 ぐるぐると訳の分からない考察が頭の中を駆け巡る。すっかり黙り込んでしまったシェリアを見て、気遣わしげにナシャとミズレーが顔を見合わせた。しかしジークレストだけはその沈黙を肯定の意と取ったらしく、大仰に頷くと、さっとシェリアの腕を取った。
「よしよし、んじゃ行くか。皆シェリアを見たらビビって騒ぐだろうが、まあ安心しな。珍しがってちょっかい出そうとしても、俺の目の前ではお前に指一本触れさせねえよ」
 最後だけ聞けば非常に騎士然とした頼もしい一言だ。が、この場合何だかあまり嬉しくない。まるで見世物小屋のゴリラのような扱いだと感じてしまうのは、あまりにも被害妄想めいているだろうか――。
 何はともあれ、抵抗らしい抵抗もできないままシェリアは医療部屋から引きずり出されてしまったのだった。

 騎士達の訓練場は王宮北側の静かな一角にあった。平兵士達の訓練場のように生活に密着した賑やかな場所にあるのではなく、むしろ生活とは切り離された厳かな場所に立っているため、妙な圧迫感を受けてしまう。こんな場所でなら、さぞかし鍛錬にも気合が入るだろうと思いながらシェリアはジークレストの後に続いた。
 訓練場の重い扉を開くと、まずその広さがシェリアの目を奪う。ただ広いだけではなく、天井も非常に高い。王宮内には信じられないほど天井の高い建物が沢山ある。下町にいた頃には教会くらいでしかそういう建物を目にすることは無かったので、シェリアにとっては未だ大きな驚きだった。
 しばらく天井を見上げていた視線を戻すと、十数人の騎士達が思い思いに剣を振るっているのが目に入った。流石に例のかっちりした白い制服を着こんではいないものの、動きやすそうでありながら品の良さを失わない訓練着を身につけているために、以前見た平兵士たちとは明らかに雰囲気が違っていた。
 一人、こちらに気付いて視線を寄こし。そこから波及するように、だんだんと騎士達の意識がジークレストとシェリアの方へ集まってきた。シェリアは居心地の悪さを感じながらも、黙ってその視線を受け止めるしかできない。
 騎士達はシェリアに気付くとぎょっとしたように目を見開き、そのまま黙した。構えていた剣もいつしか下げられ、全員その場で直立の姿勢をとっている。ざわざわと無用に騒ぎ立てないのは、さすが厳格を重んじる神聖騎士団というところか。しかしよほどの衝撃を受けているらしいことは容易に想像がついた。
「おーし、皆しっかり訓練してるな」
 この場の雰囲気を一人全く介していないジークレストが、明るい声で騎士達に声をかけた。
「お前達もよく知っているかと思うが、彼女は聖女シェリアスティーナだ。お前達の訓練を見学したいというんで、お連れした――が、いいぜ、こっちのことは気にしなくても。お前達はそのまま訓練を続けてくれ」
 何とも無責任な言葉である、シェリアスティーナに対しても、騎士達に対しても。
 どうするんだ、と言いたげな目で騎士達はお互い顔を見合わせ始めた。何故突然、聖女が訓練を見たいなどと言い出したのか?何故彼女は、聖女らしからぬ出で立ちでふらりと姿を現したのか?疑問はたくさんあるだろう。しかし何より、聖女を前に訓練などを続けて、いつ何が彼女の逆鱗に触れるかと思うと気が気でないのかもしれない。
 騎士達がお互いで視線をやりとりしていたのはほんの少しの間だった。が、その視線はやがて部屋の最奥のある一点へと集中していった――黒髪の、一際凛々しい青年の方へ。
(ぎゃっ!)
 シェリアは心の中で悲鳴を上げた。
 ――騎士達を隔てたその向こう側で、アシュートが腕を組んで仁王立ちしながらこちらを睨みつけていたのである。無言の圧力。とても怖い。他の騎士達は、この場の成り行きをジークレストよりも彼の判断に任せようというらしかった。縋(すが)る視線をアシュートに向けて、彼の言葉を待っている。
「げっ、……じゃない、よぉアシュート。お前も来てたの」
「……お前が聖女の護衛に出ていると聞いていたからな。代わりに騎士団の訓練に参加していた」
「ふーん。なるほど。いや、助かったよ。なかなかこっちに顔出す余裕がなくってな。今やっと時間作ったとこ」
「で?」
 ぎろり、と音がしそうなアシュートの視線。これは何を言っても怒られそうだとシェリアは瞬間的に悟った。そしておそらくその考えは間違っていない。
「なぜ聖女が、お前と一緒にこんなところに現れる?」
「なぜって、なあ。シェリアが皆の訓練見たいって言うからよ」
 またしても自分のせいになってしまうのか。シェリアはジークレストに寄せていたなけなしの信頼を今全て放棄した。そしてこっそりと彼の腕の皮をひねってやる。ムッとしたようにジークレストがシェリアを振り返ったが、シェリアも気丈に睨み返した。
「だとしても、それで簡単にお連れするようでは護衛とは言えないだろう?ここでは、真剣を使っての訓練も行っているんだ。聖女に万が一のことがあったらどう責任を取るつもりだ」
「あー、うん。そうだな。悪かったよ」
 大して悪いとも思っていない様子のジークレストだが、アシュートもそれには慣れているようだ。ジークレストの態度にそれ以上文句をつけることもなく、代わりに眉間の皺を更に深めただけに留まった。
「シェリアスティーナ様」
「はっ、はいっ!」
 反射的に、その場にいたどの騎士よりも、ピンと姿勢を正して返事をしてしまう。ジークレストが隣でぷっと笑みを漏らした。
「……ご自室までお送りしましょう。――ジークレスト、この場の訓練はお前に任せる。サボらずしっかり稽古をつけるんだぞ」
 こうしてシェリアは、騎士団見学をものの五分で終えて自室へ戻ることとなったのだった。