26.

 長い廊下を並んで歩きながら、シェリアは不機嫌そうなアシュートの横顔をそっと盗み見た。先程から一言も喋ろうとしない。ただ真っ直ぐ前だけを見据えて歩き続けるアシュートに、シェリアもやはり閉口するしかなかった。
(仲良くなりたい、なんて思ったけど……)
 一体どこにその糸口はあるのだろう。
 もともとアシュートは安易に人を近づけるタイプではない。しかしことシェリアに対しては、痛いほどの拒絶のオーラを身にまとっているから堪らない。
 シェリアは手持ち無沙汰な両手を後ろで組みながら俯き加減に足を運んだ。自然とアシュートからは遅れてしまう。その度にアシュートは、少し歩みを遅めてシェリアのペースに合わせてくれるのだった。はっとそれに気付き、シェリアも慌ててペースを上げる。そういうことを何度か繰り返していた。
(大嫌いな人間に対しても、ごく自然に小さな優しさを与えてくれる人なんだ)
 他人に対しても、きっと自分に対しても厳しいアシュート。彼を恐れる者は多いことだろう。しかしそこには確かに優しさがある。本当はいい人なんだ、とシェリアは思う。だからこそ、そういう人物に徹底的に嫌われている自分が悲しい。
(どうすればいいのかな)
 ふと、空を見上げる。高い白壁と屋根の間にある大きな採光窓から柔らかな陽射しが差し込んで、シェリアをほっとさせた。この壁の向こう側には、確か小さな花畑が広がっていたはずだ。もしアシュートが仲のいい友人だったらならば、部屋に戻る前に少し散歩をして行こうと提案することだってできるのに。
 陽射しに気を取られ、いつの間にか再びアシュートとの間隔が開いている。アシュートは振り返り、静かに足を止めた。
「……シェリアスティーナ様」
「ご、ごめんなさい」
 先生に叱られた生徒のように、シェリアは身を縮めてアシュートの側に駆け寄った。
「近頃、あなたの意識はやけに色々な場所へ飛んでいるようだ」
「すみません……」
 どうも謝ってばかりだ。
「別に怒っているわけではありませんよ。以前のあなたはまるで周囲に関心などない様子だったのに、と不思議に思っただけです。……あなたはいつも、前ばかりを見ていた。いえ、目線は真っ直ぐでも、その先には何も捉えていなかったのかもしれません。でも最近は、色々なものに興味をお持ちのようですね」
「そう……なのかな」
「ちなみに、今日はまた何故、そのような格好を?」
 言われて、シェリアははっと身を強張らせた。膝丈ワンピースに、シンプルなズボン。そういえばアシュートにこの格好を見せるのは初めてだ。動きやすい七分丈のズボンはシェリアにとっては大のお気に入りだが、アシュートにはとてもお気に召していただけないだろうことは容易に想像がついた。
「あの、えっと、けっこう動きやすくていいんだよ、これ」
 いまいち答えになっていない。
「ホリジェイルの被害者達を見舞われているだけでしょう?なぜ動きやすい服装をする必要があるんです」
 まさかそこで床拭きやらほうきがけなどやっているとは、口が裂けても言えるわけがなかった。
「また何か、ジークレストがあなたに下らぬことを吹き込んでいるのではありませんか?もしそうなら、すぐに私に仰ってください」
「違うよ、私が好きでこの格好してるだけ。ちゃんと儀式の時とかは聖女らしい服を着てるからいいでしょう?」
「聖女『らしい』ときと『らしくない』時があったのでは困りますよ」
 それは違う、とシェリアは強く心の中で反発した。
「だって、私は、聖女である前にシェリアスティーナだもの」
 アシュートに反発するには勇気がいるので、どうしても小さな声になってしまうが、それでもシェリアはゆっくりとそう言いきった。ちら、とアシュートの様子をうかがうと、思ったとおり眉をひそめてこちらを見下ろしている。
「聖女は職業みたいなものだと、思う。とてもとても大切な職業だけど。でも、それが私自身であるとは、思わない」
「――あなたがそのようなつもりでいては、聖女を支えに日々を過ごしている民達に示しがつかないではありませんか」
「みんなは別に、聖女を支えに生きてるわけじゃないよ。みんな、それぞれの大切なものを持ってるんだよ。自分が自分であるために大切なもの、持ってる。そういうものなんだよ」
 かつての自分が一平民だったから、よく分かる。一体誰が、毎日の生活の中で聖女のことを思っていただろう?神聖騎士のことを思っていただろう?彼女達についてなど、ほとんど何も知らないほどに無関心だった。遠い聖女のことよりも、目の前に広がる自分の世界が全てだったのだ。
「だから、『私達』だって同じでいいんだよ」
「シェリアスティーナ様」
 抑揚の無い声でアシュートが遮った。この間、結婚の件で口論になったときと似た険悪な雰囲気がじわりと広がっていく。しかしアシュートは、以前とは異なり、意識して感情を抑え込もうとしているようだった。
「ご自室に到着しました。それではまた、後ほど儀式でお会いしましょう」
 気付けば、確かに部屋の入り口である。シェリアは拍子抜けした。自分の言葉に対して、否定する言葉すらかけてもらえなかった。
「あまりホリジェイルの被害者達と深く付き合われるのは、良いことであるとは思われません。ほどほどになさいますよう」
 きっちりと一礼して、アシュートは足早に去っていった。

 その日の午後。シェリアは難しい顔をしてティーカップを弄んでいる。給仕していたカーリンたちは、怪訝に思いながらもやや遠巻きに彼女の様子を窺っていた。
「ねえ……、カーリンさんやナシャって、アシュートに会ったことある?」
 唐突な質問に、カーリンとナシャは顔を見合わせた。
「……わたくしは、僭越ながら何度かお会いしたことがございますが」
 年長者のカーリンが静かに答える。確かに、彼女は前聖女にも仕えていた高位の侍女だ。この年齢でも侍女を続けているということは、彼女自身は貴族ではないのかもしれないが。だとしても、もはやそんじょそこらの貴族とは格が違うことだろう。
「私は、まだこちらに上がって間もないですから……。遠目にほんの数回、お姿を拝見したことがある程度です」
 一方のナシャは、やはり彼との接点はないようだった。経験からしても身分からしても、それは当然のことだろう。
「ですが侍女仲間の間でも、いつもアシュート様のことはお話に上っているのですよ。本当に素敵な方ですもの、皆がアシュート様に恋をしているようなものですわ」
「ナシャ、口を慎みなさい」
 カーリンが呆れたように注意するが、シェリアは面白がっている。やはり年頃の娘としては、こういう話題が大好きなのだ。
「アシュートって、なんだか厳しそうで近づきづらい感じじゃない?みんな怖がってないの?」
「それはもちろん、私どもがお近づきになれるだなんて、考えただけでも恐れ多いですもの。でも、遠くから拝見する分には、あのストイックなところがまた素敵なんです」
「なるほどー、確かにそうかもしれない。でもそしたら、同じ部屋で二人でお茶することとかになったらどう?楽しめそう?」
「ええっ。そ、そんなことになったら、わ、私とっても上がってしまって、きっと、一言も口を聞けなくなってしまいます」
 想像しているのだろうか、ナシャは耳元まで真っ赤になって首を振った。
「ナシャ、安心なさい。そのような大それた機会は、お前には一生巡ってきませんよ」
 やれやれと言うようにカーリンが釘をさした。流石に彼女はこうした話題には乗ってこない。
「……カーリンさん、アシュートって昔からああいう人だったの?」
「と、仰いますと?」
「必要以上に厳しいって言うか――、その、人に対してっていうよりも、自分に対して。自分の全てを賭けて、完璧な神聖騎士であるように頑張っているように見えるの。……しんどくないのかな」
 もともと動きの少ないカーリンの表情は、やはりほとんど変わらない。ただほんの少し、その顔をこわばらせたかのように見えた。
「……そうせざるを、得ないのでしょう」
「え?」
「あのお方には、もうそれだけしかないのですから」
「え……」
 それってどういう意味、と問おうとしてシェリアは口をつぐんだ。明らかにカーリンはそれ以上を語るのを拒んでいる。言葉を受け付けたくないというように、機械的にティーカップの片付けを始めてしまったのだ。ナシャも突然場の雰囲気がいささか重くなってしまったことにうろたえているようだったが、黙ってカーリンの手伝いをし始めた。
「あの、お茶、ご馳走様」
 シェリアも戸惑ったが、なるだけ明るい笑顔を浮かべて礼を述べた。こうなれば話題を変えてしまったほうがいいだろう。彼女達から何か話を聞くことができれば、そう思ってアシュートの話題を振ったのだが、立場の弱い使用人に無理強いしてまで事情を話させるのは気が進まない。
「今日は、いつもとちょっと違う感じの味だったみたい。すごく美味しかったよ」
「まあ、気付かれましたか?実はこちら、王都よりずうっと東のファンドル地方で採れた茶葉を使用したお茶だそうなんですよ」
 シェリアの思惑を感じ取ったらしく、ナシャも殊更明るい声で言葉を返した。しかしカーリンだけは違う。未だ固い表情で、ためらいのようなものを微かに覗かせてから、再びそっと口を開いた。
「あのお方のご両親は早くに亡くなられ――唯一の肉親であった妹君も今は行方不明。生涯の伴侶となるのは、ご神託により定められたにすぎぬ聖女様。アシュート様が第一神聖騎士という鎧を脱ぎ置かれたとき、一体誰がそのままの彼を温かく迎えることができるでしょう?第一神聖騎士であればこその、あのお方なのです。この世のありとあらゆるものが、そのように仕向けてしまったのですから」
「――」
 これほど淀みなく長々と話すカーリンは珍しい。以前、聖女マルヴィネスカのことを話していたときも、これほど感情的な物言いではなかったのではないだろうか。側ではナシャも青い顔をしてカーリンを見つめている。ともすればシェリアへの反発とも取れる発言に驚いているのだろう。
「シェリアスティーナ様、あなた様はあのお方を……受け止めて差し上げる覚悟がおありなのですか?」
 問われて、シェリアは言葉を返せなかった。
 まさかここまで踏み込んだ話になるとは思っていなかった。それもある。だが何よりも――カーリンのその質問に「はい」と答えられない、答えるべき資格を持たない自分に気がついてしまったのだ。
「わ、たし、は……」
 両親が早世していた?知らなかった。彼に妹がいた、それも知らなかった。しかもその妹は行方不明?
 ――知らなかった……。
 そうだ、自分は彼のことを何も知らない。知らないのに、仲良くなりたいなどと簡単に考えていた。
 しかも。
 仲良くなれたとしても、それ以上のアシュートを受け止めることなどできるはずがないではないか。

 ――自分は、本当のシェリアスティーナではないのだから。

「――!」
 突然眩暈がした。
 あまりにも激しくて、シェリアは思わず椅子から崩れ落ちてしまった。目の前の景色がぐらりと揺れる。かと思えば、ちかちかと光が点滅して何も見えなくなってしまった。今自分の身に何が起こっているのか。訳がわからない。
「シェ、シェリアスティーナ様!」
 ナシャの悲痛な呼び声が随分遠くから聞こえてくる。カーリンの腕だろうか、自分の両肩をしっかりと抱え込んでくれているのは。
「ナシャ、すぐに医者を呼んできなさい」
「は、はいっ」
 涙声のナシャは、それでもすぐに部屋を飛び出した。やがてシェリアも落ち着きを取り戻してくる。眩暈を起こしていたのは、時間にしてみればほんの僅かのことだっただろう。遠のいていた現実感も戻ってきて、カーリンがでシェリアを支えながらその様子を窺っているのにも気がついた。
「ご、ごめん、なさい。大丈夫……」
「シェリアスティーナ様、申し訳ありませんでした」
「ううん、あなたは何も悪くない……。本当に、もう大丈夫だから」
「シェリアスティーナ様」
 カーリンの声も、いつもとは違って辛そうだった。心配をかけまいと、シェリアはどうにか微笑んだ。しかしそれは、あまりにもか細い笑みにしかならなかった。