28.
翌日、すでに日課になった医療室での洗濯をしていると、隣のナシャが不意に手を止めシェリアを見つめた。
「あの、シェリアスティーナ様」
その思いつめたような真剣な声に、シェリアはつられて洗濯の手を止めてしまう。
「な、なに?どうしたの、ナシャ」
「あの、その、私……、詳しいことは、何も知らない身ですけど。その、シェリアスティーナ様のこと、応援していますから……」
「……ナシャ?」
「えええっと、その、すみませんっ。わ、私ごときが、でしゃばった事を言ってしまって。でででも、シェリアスティーナ様、倒れてしまわれるほどお気に病まれることがおありなら、どうかお一人で悩まれないでください……。私も、僭越ながら、シェリアスティーナ様のお力になりたいのです」
一生懸命言葉を選ぶように、それでも緊張で考えが上手くまとまらないのだろう、所々支えながらナシャはなんとかそこまで口にした。
その言葉を受けたシェリアは、ぽかんと呆(ほう)けるように口を開いて固まっている。が、その一瞬ののちに、ぐっと唇を真一文字に結んで顔を歪めた。
「――ナシャ!大好き!」
「きゃっ」
がばり、シェリアはナシャに抱きついた。当のナシャはパニックになったようにあわわと呻いて手をばたつかせている。そんな二人の様子を眺めていたらしいジークレストは、呆れたように溜息をついた。
「お前らなあ、女同士でなーにイチャイチャしてんだよ。俺も混ぜろって」
「……ジークさんのスケベ」
「なんだとぉー?」
おりゃ!とジークレストは水場に片手を突っ込み、シェリアに向かってパシャリと水をかける。
「ちょ、何するんですか、濡れちゃったじゃないですかっ」
「あったりまえだろ。水かけたんだから」
「ジークさんのバカ、スケベ」
「ああ?バカっつった方がバカなんだぜ。だからその法則からいけば、お前はバカな上にスケベってことになるぞ。よっ、エロ聖女!」
「エロ聖女ってなんですか!変な呼び方やめてくださいっ」
負けじとシェリアも両手で水をかけ返す。するとすかさずジークレストも応戦してくるものだから、いつしかその場は、余りにも幼稚な言い争いと水の音でいっぱいになっていった。一人青い顔をしているナシャはといえば、止めることも、ましてや便乗することもできるはずもなく、ただオロオロと二人を見守っているのみだ。
「――あっ」
だが突然、シェリアが戸惑ったように手を止めた。
「なんだよ」
「どうしよう、ここ、病室なのに。騒いだら皆さんに迷惑……」
それも今更のことだった。散々水を掛け合ったせいで、もはや二人はびしょぬれだ。いや、巻き添えを食ったナシャも合わせれば、三人といった方が正しいか。
しかし申し訳なさそうなシェリアの声は、明るい女性の笑い声によってかき消された。
「シェリアスティーナ様、全然構わないんですよ」
この医療室の管理人、ミズレーである。
「むしろ、こうして楽しげにしていてくださった方が皆のためにもいいんです。自分達も、またああして水遊びをしたい、軽口を叩いて笑い合いたいと思うことが大切なんですから。病や傷を癒すには、気の持ちようが一番大切。どんなに些細なことがきっかけでもいい、ほんの少し、前を見ることが必要なんです。現に皆、ああしてシーツに包まってますけどね、さっきからシェリアスティーナ様たちに興味津々なんですよ」
言われてシェリアは部屋の中に視線を移すが、皆いつものように頭までシーツを被っているため全く様子が窺えない。
「でも……、逆に皆さんの気持ちを逆撫でしてしまってるんじゃ」
「いいえ、いいえ。今では皆、随分元気になりましたよ。だからこそ、ベッドの外に興味を示すようになったんじゃありませんか。シェリアスティーナ様のお陰でもあるんですよ」
違う、とシェリアは唇をかんだ。皆が元気を取り戻しつつあるのは、他でもないこのミズレーのお陰だ。彼女の大らかな性格と優しさが彼らの心を癒している。ミズレーは不思議な女性だ。これといった華やかさは見当たらないのに、誰もを優しく包み込む懐の深さを感じさせる。今もシェリアに対してわだかまりのない笑顔を向けてくれている、これは大変なことなのだ。
しゅんとしかけたシェリアだったが、不意にジークレストが明るく声を上げたために、感傷的な気分は吹き飛んでしまった。
「よし、シェリア、洗濯終わったらまた騎士団の訓練見に行くか」
「はあっ?」
またいきなり何を言い出すのか。騎士団の訓練を見に行ってアシュートに怒られたのは、つい昨日のことではないか。
「お前、このまま小さな世界に閉じこもるのはよくねえよ。もっと人と会え。話せ。それがお前のためになるし、皆のためにもなる」
「えええ?」
「考えても見ろよ。お前の代わりに人形を置いといても務まる儀式はいくつある?そんなくだらねぇ儀式のためだけに、お前は生きてるわけじゃないだろ。見てたって分かる。シェリアは人と一緒にいた方がいいんだよ」
昨日はただ自分をからかうために引きずり出されたのかと思っていたシェリアは、意外な言葉に驚いた。ジークレストは、そんなことまで考えてくれていたのか。
「で、でも。アシュートに見つかったら、また怒られちゃうし……」
「お前は『でも』が多すぎる!もっと思うがままに行動してみろよ。アイツに見つかったら、なんてのは、見つかった時に考えりゃいいんだよ」
「す、すごい自論ですね」
「だいたいあいつはキホン忙しいんだから、そうそう鉢合わせたりしないって」
しかし、これまでのパターンからすると、高確率で「鉢合わせ」の憂き目に遭いそうなのだが。シェリアはそう突っ込みたかったが、「でも」は禁止!と怒られそうなので黙っておいた。
「シェリアスティーナ様、どうぞ行ってらしてください。後は私がやっておきますから」
にっこりと、ナシャ。昨日と全く同じパターンで送り出されているところからして縁起が悪い――シェリアは何か冷たいものが背中を伝っていくのを感じて、ひきつった笑みを浮かべたのだった。
騎士団の訓練場では、昨日と同じように騎士達が思い思いに訓練を行っていた。控えめにシェリアが姿を現すと、やはり騎士達は仰天したようにシェリアの姿をそっと目で追う。ただ昨日と違っていたのは、「あれだけアシュート様に怒られた後なのに、何でまた」という呆れが見られることだった。
「おい、今日はアシュート来てねえか?」
ジークレストは一番近くにいた騎士にそっと耳打ちした。何だかんだで、やはり彼もアシュートが怖いのだろう。聞かれた騎士が来ていないと頷くと、途端にジークレストは大きく胸を張って場の面々を見渡した。
「よーしお前達、今日は一人ずつ俺が相手してやろう。俺から一本取れた奴は、明日から十日間の特別休暇だ!」
高らかな宣言に、騎士達は色めいた。いくら高貴で誇り高い神聖騎士たちも、やはり休みは嬉しいのだろう。
「けどな。もし俺に負けた場合は、ここにいる聖女シェリアスティーナに剣を教えてやってもらうぜ」
なに!といの一番にその言葉に反応したのは、他ならぬシェリアである。訓練を「見に」行こうとは言われたが、参加するなど聞いていない。第一、剣の「け」の字も知らぬ自分に、騎士達の相手など務まるはずがないではないか。
騎士達もさすがにおののいたが、周りを気にするジークレストではない。「じゃ、お前から」の軽い一言で、反対ムードは封印されてしまった。
(し……信じられない)
先ほどは、いいことを言ってくれたと感心すらしたというのに。あっけに取られるシェリアを余所に、ジークレストと戸惑う騎士は訓練場の真ん中へと進んでいく。刃は潰してあるという剣を、お互い構えて。審判はいない。
「来いよ」
ジークレストの不敵なその一言が、試合開始の合図となった。
剣を構えた時点で割り切ったのか、まだ随分と歳若い騎士は、地を蹴ってジークレストに突進した。――早い。騎士といえば、重い鎧を身にまとい、重い剣と重い盾でがしゃんがしゃんと敵に向かっていくものだと思っていたのに。神聖騎士団という、ここまでの精鋭隊となると、そんな誰でもできるような戦い方には重きを置かず、個々人の技量を伸ばす訓練が主になるのだろうか。
騎士が目にも留まらぬ素早さで繰り出した剣は、しかしジークレストにあっさりとはじかれた。ガギン、と鈍くも大きな音がする。はじき返したその力が一体どれほどの怪力だったのか、音と共に、騎士は思い切り後方へ吹き飛ばされた。左肩から地面に叩きつけられたその騎士は、それでもどうにか上手く受身をとったようで、痛みに顔をゆがめながらも、意外にさっと身体を起こした。
「はい、お前の負け。シェリアに剣の持ち方教えてやってくれ」
容赦ないほどあっさりしている。これでは稽古にならないのでは……とシェリアは危惧したが、まず心配すべきは己の身なのだった。
「あ、あのぉ」
中央から退いた騎士に、シェリアはそっと近づく。
「大丈夫ですか?肩……、何か冷やすもの、持って来ましょうか」
戸惑いがちに尋ねると、騎士は心底驚いたようにシェリアを見下ろし、ぶんぶんと首を振った。
「いえっ、こんなのは全然平気です。いつものことですから。どうぞお気になさらず」
「ほーらお前ら、ちゃんとやれよ〜」
もう次の騎士を呼び寄せているジークレストが野次を飛ばした。
「あ、その。では早速、僭越ながら剣の持ち方から……」
「あ、はいっ、お願いします」
「しかし、いいのでしょうか。聖女様に剣をお教えするなど……」
剣を手に持ちつつも、騎士は迷っているようだった。確かにうろたえる気持ちはよく分かる。シェリア自身も大いに戸惑っている。しかしそれと同時に、どこかわくわくする気持ちがあるのも確かだった。
「聖女だとか、そんなのは気にしないでください。せっかくだから、よろしくお願いします」
「わ、わかりました」
騎士はぎくしゃくしながらも丁寧に剣の持ち方を教えてくれた。右手の親指はこう、左手はこう、という具合である。言われたとおりに構えてみると、正しい持ち方であるはずが、なんだかひどく窮屈だ。やはり慣れていないからだろうか。
そうこうしているうちに、ジークレストにやられたらしい二人目がやってきた。彼は剣の構え方を教えるように言われたという。二人がかりで教えられながら、シェリアは危なげに剣を構えた。
「お、重いッ」
女性だからということで小ぶりの剣を借りたのだが、それにしてもやたら重い。五、六分剣を構えただけで明日の筋肉痛は必須であろう。……これを戦場で振り回すなど、常人のすることとは思えない。
やがて三人目がやって来た。シェリアの剣を受けるよう言われたという。続いてやって来た四人目は、シェリアに剣を振り下ろすタイミングを告げる役割を担っていた。そうして細かな点までアドバイスを受けながら剣を振り下ろす練習をひたすら続ける。最初は遠慮がちに指示をしていた騎士達も、シェリアが真剣にそれを聞き入れ練習に没頭しているのにつられ、要らぬ気負いを捨てていったらしい。いつしか活発に言葉が飛び交い、遠慮なく身を乗り出して手取り足取りの集中講義となっていった。そして気がつけば、シェリアは十数人の男達に囲まれて剣を振りかざしている。
「はあはあ……、も、もうダメ」
わいわいと活気溢れる練習が続いたが、やがて当の受講生シェリアが力尽きた。騎士達は剣を下ろしたシェリアを心なしか残念そうに見守っていたが、「立て!まだやれる!」などと発破をかけるようなことは流石にしない。
「おっ、ギブアップか?」
最後の一人を片付けたらしいジークレストが、笑いながら近づいてきた。――結局全戦全勝で、ジークレストの完全勝利である。
「ジ、ジークさん……、無理です。もう無理。腕が上がらない」
「んじゃ、これくらいにしとくか。――おい、お前」
ジークレストはつい今しがた相手をしていた最後の騎士に軽く視線を送った。
「シェリアの両腕マッサージしてやんな。ただし、変なとこは触っちゃダメだぞ」
なにー!ずるい!それは良くない!他の騎士達は思い思いに不満の声を上げた。聖なる悪女シェリアスティーナが訓練場に登場したときですら無言だったことを思えば、驚きのブーイングである。しかし、それほどに彼らと打ち解けられたことがシェリアには嬉しかった。
「シェリア、久々にいい汗かいたろ?」
にっと笑うジークレストに、シェリアは心の中で感嘆する。
こうなることをあらかじめ計算していたのだとしたら。さすがは神聖騎士団副長――なかなかに侮れぬ男であると、シェリアは思った。