27.
夢の中で、シェリアは何か柔らかいものが自分の額に触れているのを感じていた。
優しい。そしてどこかぎこちない。でもやはり、とてもとても優しくて。
苦しい、苦しいの。だからもう少しそうしていて。
声にならない声で、シェリアは訴える。
もう少し――
はっ、とシェリアは瞳を開いた。
途端に、額に添えられていたハンカチが驚いたように引っ込められる。思わずそのハンカチの行方を目で追いかけて――自分のすぐ側に、アシュートが佇んでいるのに気がついた。
「ア、アシュー……」
「気付かれましたか」
まだぼんやりとした頭で周りを見回すと、目に入るのは見慣れた天井、見慣れたベッド、見慣れた家具に見慣れたクラヴィディア――ここが紛れもなく自分の部屋であるということに気がついた。唯一この部屋で見慣れないのは、側に立ってこちらの様子を窺っているアシュートだけだ。
「私、結局、気を失っちゃったんだ……」
「そのようです」
ベッドの中に寝かされている自分。そういうことなのだろう。また皆に迷惑をかけてしまった――そう思うとやりきれなくて泣けてくる。
「アシュートは、どうしてここに?」
「カーリンという侍女に呼ばれました。あの者も随分あなたを気にしていましたよ。自分のせいであなたが倒れたと、気に病んでいるようでした」
「そんな」
カーリンのせいなどではない。全ては、自分の問題なのに。
「あの……、カーリンさんにお咎めとか、無いよね?カーリンさんは何も悪くないんだよ。だから、だから」
「大丈夫です。ですからどうぞ落ち着いてください。医師は、精神的なショックが原因で一時的に気を失われたのだろうと言っていました。今は落ち着くことが大切です」
静かな声で諭されて、シェリアもどうにか落ち着きを取り戻しつつあった。――不思議だ、アシュートの声を聞いていると、焦る心が何故だか落ち着く。彼自身が基本的にいつでも冷静だからだろうか。
「……私の話をなさっていたそうですね」
唐突なアシュートの呟きに、ぎくりとシェリアは身体を強張らせた。こそこそとアシュートのことを探ろうとしていた自分。今更ながら後ろめたさを感じてしまったのだ。しかし当のアシュートの声には非難をするような響きはなかった。
「私のことで、あなたを責めるようなことを言ってしまったとカーリンは悔いていました。――具体的に何を言ったのかは、聞きませんでしたが」
「違うの!――本当にカーリンさんは何も悪くない。あなたにも……それは分かるでしょう?」
例えどんなに辛辣な言葉を投げつけられようとも。それを受けるに値する仕打ちを行ってきたのだ、シェリアスティーナは。
「……」
アシュートは言葉を捜すように小さく口を開いたが、結局何も言わなかった。
そのとき不意に、軽快なノックの音が部屋に響き渡る。その音で、場に広がる重たい空気は一掃された。
「は、はい?」
間の抜けたシェリアの返事を受けて扉を開いたのはライナスだ。
「具合はどうだい――おや、アシュート殿?」
先客がいたことに、というよりは、先客その人に驚いたように、ライナスは目を軽く見開いた。こういうプライベートな場でのシェリアとアシュートの組み合わせは珍しいのだろう。しかし、何か面白いものでも見るような彼の視線にも、アシュート軽く会釈を返すのみだ。
「わざわざシェリアを見舞いに来たのか?律儀だねぇ、騎士殿も」
率直な感嘆とも嫌味とも取れる、微妙な言葉。しかし実際、アシュートは本当に律儀な男だとシェリアも思う。別に死んだわけでもなし、適当な理由をつけてシェリアを放っておいても誰も咎めはしないだろうに。
アシュートは何も答えず、ただそっと身を引いた。自然とシェリアとライナスが向き合うような形になる。自分のことは気にせず、二人で好きに話せばいいという意思表示だろうか。そういう態度を見ている限り、アシュートはライナスとあまり仲がいいわけではなさそうだ。だがまあ、それもそうか。どう考えても気の合いそうな二人ではない。むしろ、気が合うとか合わないとかいう問題を越えて、なにやら次元の違う世界に住まう二人という感じである。狭い部屋に二人きりになって、どうしても会話をしなければならないとなった時、一体どんなやりとりが交わされるのだろうか。
「良かったね、シェリア。アシュート殿が来てくれて」
小さな子供に接するかのように、にこにことライナスは笑いかけた。良かったねと言われても困る。シェリアはなんとも答えられず、戸惑いがちに「はあ」と呟いた。稀代の美女であり悪女であると謳われるシェリアスティーナにしてはあまりに地味なリアクションであるが、生憎とそんなことを気にするライナスではなかった。
「なんだかなぁ、私などは来てもお邪魔だったかな。若い二人の世界に割り込んでしまったようで」
にやにやと笑う仲人気取りのこの男をどうにかしてほしい、と心底シェリアは辟易した。
「ライナス……、なんだか性格変わってるよ」
「おや、君もなかなかにね」
際どい台詞をサラリと口にする。
「しかし意外に平気そうで良かったよ。近頃は君の事でハラハラすることが多いから。私の繊細な心をあまりいたぶらないでくれよ」
「繊細……、繊細」
納得のいかない単語を口の中でもごもごと繰り返し唱えてみるシェリアだったが、一方のアシュートは相変わらずの生真面目な表情でライナスを真っ直ぐ見据えた。
「本当に、お加減は大丈夫なのですか。あまり無理はされぬ方が……」
思いも寄らない労わりの言葉。その低い声が、言葉に更なる重みを添えていた。え?とシェリアは顔を上げて、ライナスの反応をうかがう。まさか、いまだ具合が悪いままだったのだろうか、もうすっかり良くなったと思っていたのに……。話をふられたライナス本人はといえば、明らかに苦笑と言える笑みを浮かべ、小さく首を振った。
「嫌だなあ、まるで病人みたいな扱いをしないでくれないか。ご覧の通り、至って普通の健康体だよ」
「申し訳ありません。それならば、よろしいのですが」
シェリアは途端に不安になった。すこぶる調子のいいライナスをアシュートが病気と勘違いしたというよりも、アシュートは病気と知っているがライナスがそれを隠していると考える方が、至極自然なのではないかと思ったのだ。いつだってライナスは、本当のところを打ち明けようとはしない男なのだから。
「ラ、ライナス、本当に平気なの?もし具合が悪いんだったら」
おろおろと取り乱すシェリアを呆れた顔で見下ろしながら、ライナスは軽く肩をすくめてみせた。
「シェリア。君までそんなことを言うのかい?今この場で具合が一番悪いのは、どう見たって君自身だろうに」
――それは確かに、その通りだ。返す言葉も無く、シェリアはただ口をつぐんだ。
横になっていたのはそれほど長い時間でもなかったらしく、夕方前に行う民衆への姿見せの儀式には、どうやら出席できそうだった。
ということをアシュートに確認すると、具合が悪いのだから無理して出るなと一蹴された。しかし、何だかんだと事情をつけて儀式をキャンセルすることが多かったシェリアは、なるだけそういったことが多くならないようにしたいと考えていた。儀式に出るくらいしかするべきことが無いというのに、それすらなおざりにしたのでは居心地が悪い。
ということもアシュートに伝えると、大きな溜息を一つつかれて、ならば私もお供しますと返された。本当にどこまでも律儀な人だと、シェリアは思う。しかし、そんな心の声をライナスが聞いていれば、君達は完全にお互い様だと呆れたことだろう。
「アシュート君、先ほど聞いたところによると、君の仕事がだいぶ溜まって部下があたふたしていたそうだけど。いいのかい?」
「そこまで時限の迫った仕事はありませんから。今日中に終わらせればいいものばかりです」
「い、いいよ、アシュート、私のことは。仕事に戻って、ね?」
シェリアは暇だがアシュートはそうもいかないらしい。詳しい仕事内容はまるで分からないが、少なくとも「第一神聖騎士」というのがただのお飾り役職ではないらしいことは確かだった――「聖女」様とは違って。
「ふむ、でもいいかもしれないね。聖女と第一神聖騎士殿がそろってバルコニーに姿を見せれば、民衆達は大いに沸くだろう」
「私はバルコニーには出ませんよ。側で控えさせていただきます」
さも当然と言わんばかりに、アシュートはあっさりとライナスの案を却下した。
「えー、それじゃあ面白くないじゃないか。民衆達の前で熱い口づけの一つや二つも披露してあげたらどうだい」
「神聖な儀式に面白さを追求しないでください」
「……君は全く、ただの会話にも面白さが欠けてるね」
つまらない男だ、と言外にほのめかし、ライナスは溜息をついた。
夕日が目に眩しいバルコニー。沈み行く太陽を真正面に見据えることができるこの場所は、広い王宮内でも指折りの絶景ポイントと言えるだろう。体調も随分と落ち着いたシェリアは、そっとそのバルコニーへと降り立った。
途端、「わああ!」という大きな歓声が耳をつんざく。
一面を紅く染める神秘の光はとても美しい。しかしその光景に目を奪われるより先に、バルコニーを取り巻く人の多さに圧倒されずにはいられない。一般の民衆に開放された広場には、文字通りびっしりと人が詰め込まれていた。いや、進んで詰め込まれていると言うべきか。人の海のようだ、とシェリアは感嘆の溜息をついた。誰も彼もが興奮した笑顔を浮かべ、懸命にこちらに手を振っている。
初めてこのバルコニーに姿を現した時よりも、確実に集まる人の数は増えているようだ。前はこれほどすし詰めの状態では無かったはずである。それなりに人が集まっていたものの、皆思い思いに動き回れる程度の混み具合だった。それが今や、皆窒息せんばかりの有様である。
(皆は知らないんだもんね、シェリアスティーナという人を)
美貌の聖女。神に最も愛でられし乙女。彼らが知っているのは、シェリアスティーナという「型」でしかない。だから彼女を崇拝し奉りたてることができるのだろう。しかし、彼女の経歴もその美貌も――本当の「彼女自身」とは違うのだ。本当のシェリアスティーナは、冷酷で残酷で。いや、それすらも彼女の「本当」ではないのかもしれない。――そう、本当は誰も知らない。彼女という人間を……。
(ライナスは?アシュートは?知っているの、シェリアスティーナという人のことを)
思わず惑いが表情に出る。姿見せの儀式の最中だというのに、シェリアの心はほとんどこの場から離れていた。心の中を占めるのは、今はどことも知れぬ遠くへ行ってしまった謎の女のことばかり。彼女は誰?どこへ行ったの?そして、私は――。
は、とシェリアは息を呑んだ。――まただ。いつもこんなことばかり考えては、その度にどうしようもない程の恐怖に駆られてしまう。その繰り返し。でも、今は駄目だ。今は儀式の最中だ。シェリアスティーナの華やかな姿を一目見ようと駆けつけた多くの民衆達がそこにいる。不安げな顔で皆を見下ろしていたのでは、彼らも不安になってしまうに違いない。
(でも、本当にそうかな。――この広場を出れば、きっと皆、聖女のことなんて頭からすっぽり抜けてしまうに決まってる。だって、聖女なんて皆の生活とは全然無縁の人じゃない。私だってそうだった。シェリアスティーナの名前を思い浮かべない日は何日だってあった。それでも、困ったことなんて一度もなかったもの……)
眉間に皺を寄せて、シェリアは民を凝視した。屈託の無い彼らの笑顔が今は苦しい。東の果てに住まうという世にも奇妙な珍獣を見る目と、一体何が違うというのだろう?
しかしその時、シェリアは気づいた。
たくさんの人の波に揉まれながら、そして自らもその一員となりながら、懸命にこちらを見上げている老女がいる。――彼女は両目から涙を流し、それでも全く憚(はばか)ることなく一心にシェリアを見つめているのだった。両手をしっかりと胸の上で組み合わせ、まるで神の目の前に跪くかのごときである。
(あ……)
ふと、思い出した。
(アシュート、言ってた。私たちを支えにして日々過ごしている人がいるって。……そうか、いるんだ……、いるんだ、本当に)
老女の真っ直ぐな眼差しが痛い。でも逃げたくはない。
シェリアは縋るような瞳でバルコニーの入り口に控えているアシュートを振り返った。そのアシュートは少し厳しい表情でシェリアをじっと見守っている。
アシュートは、この老女の眼差しを受け止めたいと願った。己を信じ、己に希望を見出す人々の心を受け止める道を選んだのだ。第一神聖騎士であり続けるということは、そういうことでもあるのだろう。
しかしシェリアスティーナは、そうではなかった。彼女は逃れる道を選んでしまった。民からも、アシュートからも、――自身の運命からも。
彼女の歯車は、どこから狂い始めたのだろう。
その答えを授けてくれる者は、ここにはいない。
――シェリアスティーナ、あなたはどこへ行きたかったの。
その答えを授けてくれる者も、ここにはいない。