30.
ライナスの部屋の扉は開いていた。
ほんの、少し。隙間といえる程度の幅である。
しかしそのほんの少しの隙間が不意にシェリアの不安をあおった。
ざわり、ざわり。奇妙な胸騒ぎ。
――部屋に誰かいる。
すぐにシェリアは気がついた。ライナスだけじゃない。誰か、もう一人。扉のすぐ側に立っている。
二人はぼそぼそと小声で言葉を交わしていた。
(駄目、だ。聞いちゃ駄目だ)
直感でそう思った。つい今しがた、己の部屋で取り交わされていた侍女達の会話が思い起こされる。しかしそれが却ってシェリアの足を地に縛りつけた。
(私、また同じことをしようとしてる)
胸の内で激しく警鐘が鳴り響く。だがそれでもどうしようもない。分かっているのに、動けない。もどかしさが焦りへと変化していく。けれど、動けない。
「申し訳ございません。やはり、どうしても今回のような前例は見つからず……」
「前例に縋(すが)れる時間はとうに過ぎた。もはや我々自身の手で問題を打開するしかないだろう。それを、いつまでもたもたしているんだ」
片方はライナスだろう。普段よりもいくらか語気の強い声で、静かに相手を牽制している。もう一方、返答に苦しむ男の声には聞き覚えがなかった。
「これ以上この状況を野放しにしておくわけにはいかない。一刻も早く、なんらかの処置を取らねばならないんだ」
一体何を?シェリアはぐっと唇をかんでその場に佇んだ。何を――いや、分かるような気がする。
分かってしまった。
「聖女シェリアスティーナの身体に巣食う惑いの魂から、本来の彼女を取り戻さねば」
ライナスの言葉を耳にした瞬間、シェリアは思い切り扉を開いていた。
抑えることのできない、どす黒く悲しい怒りが体中を巡り巡っている。
バタンという激しい扉の音に室内の二人はハッと顔を上げた。手前の男にはやはり見覚えがない。黒っぽい服装に身を包んだ中肉中背の目立たぬ男だ。まさか、という驚愕の表情で身をすくめていたが、シェリアにはそんなことはどうでもよかった。強い眼差しでただ見つめるのは、部屋の奥でソファに身を沈めるライナス――。彼はほんの僅かに驚きの色こそ見せたものの、どこか悠然としていて、相変わらず落ち着き払っていた。
「シェリア――君はまた、随分不思議な場所に現れるものだね」
「ライナス……」
その声にも動揺は見られない。むしろ先ほどまでの緊張した声音ですらなくなって、いつもの通りののんびりとした口調に戻っている。逆に、彼の名を口にしたシェリアの声が怒りに震えた。
「なに、今の。どういう意味なの……?」
「聞いていたんだね。まあ、その言葉どおりの意味なんだが」
事もなげに言い放つ。そして側で控える男にちらと目配せをして無言で退室を促した。黒づくめの男は小さく会釈を返しただけで、さっと部屋を後にする。
「私のこと、早くこの身体から追い出そうって、そういう話をしてたの?」
ライナスは何でもないように小さく頷いた。
「だからそうだと言っている」
「……なんで……」
身体の底から溢れ出た嘆きが、か細い言葉に形を変えた。
しかしライナスは相変わらず心を動かされる様子もなく、涼やかな顔で、呆然と佇むシェリアの様子を見つめている。
「なぜ、か。理由など問われる状況にはないと思うけれどね。少し考えれば当たり前のことじゃないか。――ある日突然、聖女の様子がおかしくなった。どうやら全く別の何者かが聖女の身体に乗り移ったらしい。ではそれが何者かといえば、まるで正体は分からない。ただ『それ』は、しばらくすれば元通りになるとだけ告げて、何をするでもなく聖女の生活を続けている」
淡々とした一言一言が、刃のようにシェリアの心に突き刺さった。
「聖女の後見人を任されている私が、そんな状況を受け入れられると思うかい?まさかね。君の正体、事の原因、今後の対応――明らかにしなければならないことは山のようにある」
「でも、私、嘘なんてついてない……」
「君が初めに語った、神がどうのという話かな?生憎だが、あんな曖昧な話に納得して安心できるほど私も単細胞な人間ではないのでね。聖女の魂が疲れていたから休息を取らせる、と言われても。そんなことがまかり通るというのなら、今頃は世界で何万人の人間に他人が乗り移っていることになるのやら」
「――でもっ!!」
ライナスのどこまでも無慈悲な言いように、シェリアも声を荒げずにはいられなかった。
「仕方ないじゃない、それが全てなんだもの。私だってもっとちゃんと説明してほしいよ。今でも全然、わけが分からない。なのにどうして、どうして私ばっかり、こんな目に遭わなくちゃいけないの?私が、私が――」
何をしたって言うの。
今まで何度も何度も頭の中を駆け巡った後ろ向きな思いが、今再びシェリアを侵食し始める。いつでも前向きでいようとしたのは、そうでなければ怨望の渦に自らが掠め取られてしまいそうだったからかもしれない。きっと、それが恐ろしかったのだ。
「本当に、何も知らないと言うのか」
シェリアの沈痛な叫びにも動じることなく、しかし微かに鋭利の光を瞳に浮かべ、ライナスが小さく呟いた。
「……え?」
「君は何もかも承知なのではないか?その上で、聖女シェリアスティーナとして生活しているのではと、私は思うのだが」
「――」
「君が一体何者なのか、私には分からない。本当は、君がシェリアとは別人であるということからしてにわかには信じられなかった。心の病が進行しすぎて人格が分裂してしまったのではないかと、初めは思ったよ。しかし確かにシェリアと君とは魂の色が違うように感じられた――。となれば、君はどこから来た何者なのか?一体どんな目的があるのか?」
そこまで一気にまくし立て、ライナスは軽く肩をすくめた。
「考えて答えの出てくる問題ではない。だが、推察することくらいなら私にもできる。――西の地域には、聖女でなくとも不思議な力を有する者が時々現れるそうだ。死者と言葉を交わしたり、先のことを予見したり。そうした力を活かして生計を立てる者を巫女と呼ぶらしい。しかし、力を持つ正統な神の使いはこの世でただ一人、『聖女』のみと定められている。聖女ではない巫女達は、卑しい身の者として虐げられる立場にあった。そうした巫女の一人が、貧しい暮らしから逃れるため、自らを虐げる人間達を見返すため、唯一と崇められる聖女を打ち倒すため――とある呪術を施したとしたらどうだろう?」
まるで遠い昔の物語を紡ぎ出すかのように、ライナスは淀みなく朗々と語り続ける。
「自らの魂を、聖女に乗り移らせるんだ。そんなことのできる人間はいやしないと誰もが考えているだろうから、乗り移った後、多少挙動がおかしくても不審がる者はいないだろう。もちろん、聖女に何があったと惑う者は多いだろうが――まさか他人が乗り移っているなどとは夢にも思うまいよ?そうして周囲を騙し続け、自らは聖女を演じ続ける。若く美しく、誰よりも気高く清廉な聖女。多少窮屈な生活であろうとも、それまでの暮らしに比べれば十分釣りが返ってくるだろう」
「……ライナス、それ、本気で、言ってるの?」
「馬鹿げたおとぎ話だと思うかい?なかなかいい線をいっていると思うんだけどな」
おとぎ話。そんなに甘い言葉で片付けられる話ではない。馬鹿げている?そう思っているのは、他でもないライナス自身だろう。一体彼は、今まで自分をどういう目で見ていたのか。怒りを越えて、もはや自分でも説明のつけられない思いが内に渦巻くのをシェリアは感じた。
「私……、そんなんじゃない。私だって、好きで聖女をやってるんじゃない……。半年くらいで、元のシェリアスティーナに身体を返すのは、本当だもの。半年だけだけど、できること、やりたいって思ったんだ……。ううん、半年だけだからこそ、私は」
「だが私にはそれが一番信じられないよ。君の行動を見ているとね。シェリアスティーナに身体を返すつもりの人間の行動には、とても見えないんだ。身に覚えのない叱咤を甘んじて受け入れ、犯してもいない罪の償いをしようとする。周りの人間に少しでも気に入ってもらえるよう懸命に振舞って、挙句、不敬罪を働いた侍女を殺す代わりに自分を殺せと感動的な自己犠牲を披露してみせる。そう――どう見たって、君はシェリアスティーナの身体を……いや、人生を乗っ取ろうとしているとしか思えない」
「――っ!」
どっと、涙が溢れ出た。
呼吸がおかしくなりそうで、無意識にも両手で口元を必死に押さえた。その場に屈み込む。とても立てそうにない。とめどなく溢れ出す涙のせいで、自分の足元ですら霞んで見える。
もう何もかもおしまいだ――シェリアははっきりとそう思った。
「大丈夫かい?シェリア」
まるで状況を無視した呑気な声。気遣う素振りを見せながらライナスが側で膝を折った。無神経に差し伸べられたその右手を、しかしシェリアは激しく払う。一体誰の言葉に、これほど打ちひしがれていると思っているのだろう?
「シェリアなんて呼ばないで!私に、触れないで……っ。――もう私は――、シェリアスティーナではいられません……」
ライナスがわずかに瞳を細めた。
そして構うことなくシェリアを引き寄せ、その額に口づける。
一瞬の出来事。シェリアは何が起こったのか分からず呆然とライナスを見上げた。
「約束だっただろう?私に敬語を使ったら、君に一回キスをすると」
ふっとライナスが笑みを浮かべた。シェリアは涙でびしょ濡れの顔をこわばらせる。
そして次の瞬間、パンッという乾いた音が部屋に響いた。
頬を打たれたライナスは、それでも微かに目元を綻ばせ、言葉も出ないままのシェリアに視線を向ける。
「……君の行動を計算ずくと見なすことはとても容易い。けどね、私は君のそのひた向きさ――理屈など抜きに、なかなか好きだったりするんだよ」
シェリアの頬を新たな涙の雫が伝った。もうこれ以上、ライナスの言葉を受け入れることはできなかった。
もう何もかもおしまいだ――。
涙で歪んだ真っ白な視界が、にわかに暗転した。