33.
「おーっアシュート、どうだった?」
からりとした声が背中に降りかかった。足早に歩いていたアシュートは気だるげに顔だけで振り返る。ジークレストだ。今は彼の気楽な声を耳にするだけで苛立ちが募ってしまう。
「……どうもこうもない」
アシュートは短く言い捨て、再び歩みを再開した。
「おい、ちょっと待てよ」
さすがに相手もむっとしたようで、いくらか声を荒げアシュートの肩に掴みかかった。
「シェリアとまともに話できたの、お前だけなんだぜ?今どういう状況なのか、説明する義務はあるんじゃねえの」
「……まともに、話など。私にはシェリアスティーナ様の考えていることなど分からない。……最初から、ずっとな」
「それでも、心配なんだろ?」
アシュートは眉をひそめ、ジークレストを見返した。
「それともどうでもいいって言うのかよ?」
「何の話だ」
ふと気がつくと、ジークレストの後ろにはイーニアスが控えている。こちらも難しい顔をしてじっとアシュートを見据えていた。さも何か言いたげな様子だったが、唇をしっかり引き締め押し黙っている。
広い廊下には、他に人影がない。前々から人の少ない場所ではあったが、ここのところは輪をかけたようにしんとしている。形ばかり豪勢な装飾を施された壁や天井が、今ではいやに寒々しい。
「俺は心配だぜ。あんなに元気だったシェリアが、急に塞いで部屋から出てこなくなったんだ。何があったのか知りたいと思って当然だろ?」
「シェリアスティーナ様は、精神的に参っておられる」
「だからその理由が知りたいんだろうが!」
「だから、俺には分からないと言っている!」
アシュートも思わず声を荒げた。何も分からないのは自分も同じだ。前は知りたいとも思わなかった、でも今は違う、彼女に何が起こったのか理解したいのだ、だがしかし……。
一体「彼女」は「何」なのだろう?
あれほど精一杯生きているように見えた彼女が、何故突然自分を否定し始めたのか。
アシュートには分からない。
「……あいつはどんな風に言ってたんだ?」
「カーリンは悪くない、と。それに……ご自身の在り方を、ひどく厭われているようだ」
「自身の在り方……?」
「ずっと自分勝手だった、自分は弱く何もできない、後は――頼む、と」
「――なんだ、それ!」
ジークレストは明らかに苛立ったように言い捨てた。彼は彼なりにシェリアスティーナを認めていたのだろう。でなければ大人しく護衛役として彼女と行動を供にしていたはずがないし、今こうして怒りを顕(あら)わにアシュートに詰め寄っているはずもない。
ジークレストはその場ですぐに踵を返したが、アシュートがとっさにその腕を掴んで引き止めた。
「ジーク、駄目だ」
「止めんなっ」
ジークレストはシェリアスティーナのところへ行くつもりだ。アシュートにはすぐにそれが分かった。
「シェリアスティーナ様は、お前達に会うことはできないと」
「知るか、そんなの!俺は納得いかねぇよ。なのにこのまま黙ってられるか!」
激しい憤りを見せるジークレストとは対照的に、側で控えていたイーニアスは真っ青な顔をして静かに佇んでいる。その陶器のような表情が微かに動き、呟くような声でアシュートに尋ねた。
「『後は頼む』とは?どういう意味なのでしょう?まさか――シェリアスティーナ様は」
「いや……、それはない」
アシュートははっきりと否定した。うまく言葉にはできない、だが、シェリアスティーナが――イーニアスの懸念しているように――自らの命を絶つような真似はしないだろうという密かな確信がある。
シェリアスティーナは言った。「時が来るのを待ちます」、と。「時」、それがいつを指すのかはアシュートにも分からない。その「時」には一体何が待ち構えているのか、それも分からない。しかし、「彼女」が「彼女」でなくなる「時」であるのだろうということは、おぼろげながら感じ取ることができた。それでは、一体「彼女」とは――。考える程に、まるで堂々巡りだ。分からないことが山ほどある。アシュートは焦りにも似た苦しみを覚え、ぐっと唇を噛みしめた。
「それはないって、何でそんなことがお前に言えるんだよ?シェリアの考えてることは分からないっつったばっかじゃねえか」
鋭くジークレストが指摘する。だがアシュートは答える術を持たない。自分の中であらゆる考えや感情が渦巻いていて整理がつかないのだ。それを、どうジークレストに分かってもらえばいいというのか。黙り込んだアシュートに、一方のイーニアスも言葉を浴びせかけた。
「思いつめておられるシェリアスティーナ様を、このまま扉越しにただ見つめるだけというのはあまりに辛いのです。きっとシェリアスティーナ様は望まれないだろうと今までお伺いを自粛していましたが、私は――私自身が、もう耐えられません」
「それでもどうか、耐えてくれ」
アシュートは力なく首を振った。それしかできない。
「私達がどれほど元気を出してほしいと懇願しても、今のシェリアスティーナ様には更なる苦しみを与えるだけなんだ。私達は、あまりにもシェリアスティーナ様を知らなさ過ぎる。今、目の前のシェリアスティーナ様にただ語りかけるだけでは、あのお方の本当の心には届かない」
「……」
沈黙。ぴりぴりとした、それでいてどうにもやるせない暗澹(あんたん)たる空気が三人を包む。全く性質の違うこの三人が、同じように戸惑い、苦しんでいる不思議を、アシュートは思った。
「無力だな、俺達は」
ジークレストがふと呟く。この男がこんなにささやかな声で、気弱なことを口にするのは珍しい。しかし実際その通りだとアシュートも頷いた。差し伸べる手を持たぬ非力な自分。どれだけ学識高かろうと、剣技に優れていようと、今この場では何の役にも立ちはしない。
「私達が駄目でも、ライナス殿ならば……」
イーニアスのその言葉には眉をひそめた。イーニアスは知らぬだろうが、ライナスは今回シェリアが部屋に閉じこもってから一度も彼女を訪ねていない。彼との間にこそ何かあったのではと、アシュートは密かに睨んでいた。
「あの人は当てにならねぇよ」
アシュートの胸中を代弁するように、ジークレストが吐き捨てた。
「どうにかなるなら、今頃とっくにどうにかなってるはずだろう?」
そうだ、その通りだ。ずっとシェリアスティーナに一番近い人間はライナスだと思っていた。彼女の「歪み」すらも受け入れることのできる、唯一の人物だと。だから自分には理解しきれない。彼女も、そしてライナスも。その代わり、二人の間にだけ結ばれた確固たる絆が存在するのだろうと思っていた。――しかし、実際はどうだ?今まではともかく、今この瞬間、シェリアスティーナは独りきりだ。頼れる者は誰もなく、自分で自分を傷つけて、独り寂しく泣いている。
アシュートは再びぐっと眉を寄せた。ライナスに対して怒りにすら似た感情が沸き起こる。そんな資格など、自分にはこれっぽっちもないというのに。
「ですが、」
控えめにイーニアスが口を開いた。
「ですが、月が――」
その一言に、二人ははっと顔を上げる。
月が――。
あの晩、満ちていた。
――月が、欠けてきたな。
ライナスは窓辺の椅子にゆったりと腰かけ、灰色の夜空を一人見上げていた。
相変わらず空を覆う憂鬱な雲に邪魔をされて、月は本来の輝きをこの地上へ放つことができずにいる。しかしちょうど今だけは、ヴェールのように薄くなった雲の向こう側からぼんやりとその存在をうかがい知ることができた。
(だるいな……)
体の調子はそろそろ戻ってきてもいいはずだ。しかしどうにも億劫で、何をする気力も起きないままだった。
(未だに調子が戻らないとは……。今回ばかりは、この身に巣食う忌まわしい「宿命」のせいだけではないのかもしれないな)
先日、最後に見た彼女の顔は泣き顔だった。自分が泣かせた。それ以上に、彼女の心をズタズタに切り裂いてやった。そのことに罪悪感を?この自分が?
――まさか。そうせせら笑って済ませたかったが、それすらもどうしようもなく面倒くさい。
彼女がその振る舞いにおいて、下心など持ち合わせていないであろう事は、何となく分かっていた。
いつでも一生懸命で、どこまでも生真面目で、弱いくせにへこたれない。馬鹿馬鹿しいが、しかし彼女は本気なのだ。そしてその姿が何故だか妙に生き生きと輝いて見えて――だから自分はあの時、苛立ち、そして彼女を傷つけたいと思ったのだろう。
それまで自分とシェリアスティーナが暗黙の中で築いてきた砦が、無残に取り壊されていくような気がした。しかも彼女こそが清く美しく、自分たちは穢れて醜い。そんなことはとうに自覚していたから、なおさら耐え難かった。自分たちの不幸に酔って、周りを排除し、互いの傷を舐め合うことのなんと浅ましいことか。もう十分自覚しているその事実を、これ以上真正面から突きつけられたくはなかった。それに彼女を認めることは、即ちシェリアスティーナを見捨てることに他ならないと思われた。シェリアスティーナだけではない、この自分自身をもだ。
(それに私は、聖女の後見人なのだ)
正体の分からぬ存在をただ野放しにすることはできない。聖女シェリアスティーナに仕え、守ること。それが己に与えられた使命であり義務である。仇成す者と見えれば、すぐさま然るべき対応を取る。結果として“あの娘”を傷つけることになったとしても、己の行動が間違っていたとは思わない。
(だが――それでも、どうしても、あの子を心底厭うことはできないのだなぁ)
にやにやと、ライナスは笑みを浮かべた。自分に対する嘲笑だった。自分はとんだ道化だ、小賢しいばかりの卑屈で愚かで哀れな道化だ。しかし誰も救ってはくれぬよ、道化の末路は決まっているのさ。
(さて、シェリアスティーナは、どこへ向かうだろう?)
あの、「二人の」シェリアスティーナは。
願わくば、二人に救いを――そんな殊勝なことを思う自分では、もちろんないが。
(しかし、ねえ)
それほど悪くはない結末は、用意してやってもいいのではないか。
(もしも――神、とやらが、この世に存在するのならば)
そして、もしも――あまりに不公平で、不平等で、無実の者に無慈悲な鉄槌を下す存在を、「神」と名づけてよいのであれば――。
ライナスは挑むように月を睨んだ。