34.

 厚い雲が空を覆ってから、更に時が過ぎた。
 シェリアは相変わらず部屋から一歩も出なかった。
 以前、三週間部屋で軟禁されていたのとはわけが違う。今度こそは、誰にもどうにもできない時が流れている。
 先が見えない。
 一体いつになれば、この重圧から解き放たれるのか。そもそも、果たしてその時は来るのか?
 王宮中の者たちにとっても息のできないような苦しみが続いた。
 シェリアが部屋から出てこない、それ以外は何も変わらぬ毎日のはずなのに。国政も滞りなく、街の情勢もそれなりに安定している。なのに、どうしてこれほど息苦しいのだろう?
 第一神聖騎士のアシュートにも密かな非難が集まった。
 以前のような残虐な振る舞いをする聖女を止め切れなかったことは、まあ仕方あるまい。だがしかし今回は様子が違う。悲しみに暮れ自分の殻に閉じこもってしまった娘、となれば、それを救うが婚約者の役目ではないのか。毎日部屋の前まで足を運んではいるようだが、声すらかけずに去るという。それではまるで何の役にも立たぬ――。
 しかしそれも勝手な話であることは、各々承知していた。何でもいい、誰かにこの状況を打破してもらいたいのだ。
 ただただ、切にシェリアがあの部屋の扉を開けてくれることを願った。
 そして――。

 久しぶりの青空だった。すうっと、どこまでも高く高く伸びていく空。
 あの果てにはどんな世界が広がっているのだろう。シェリアは窓辺に寄り添いそんなことを考えていた。
 刻一刻と、異なる表情を見せる空。けれどそれはきっと、誰に影響されるでもない。喜びも悲しみも、何もかもを越えた世界だ。そう、皆が考えているように、己の気持ちなどに左右される存在ではない――。
 現に今この空は、シェリアの気持ちとは裏腹に一面すっきりと晴れ渡っているのだ。
(まるで私の気持ちなんて、置いてけぼりだね)
 シェリアは寂しげな笑みをそっと浮かべた。けれどその反面、少しほっとしてもいる。世界の全てが絶望に覆われた気がしていたが、こうしてまだ世界は確かに息づいていると思い出すことができた。たとえ自分の全てが壊れてしまったのだとしても、違う誰かの喜びが、違う誰かの微笑みが、違う誰かの生み出す光が――この世界をこうして包んでいくのだろう。
(私は……今まで、何をしていたんだろう)
 ここでこうしてこの身体で息をしている、ただそれだけで、自然の摂理を捻じ曲げているというのに。自分は何をしようとしていた?何ができると考えていた?目に見える世界をより良くすることができると、そう信じていたのだろうか――。
(でも結局、何も変わらなかった)
 ただかき乱して、惑わせて、困らせた。それが全て。
 シェリアは軽く唇をかんで、見上げていた青空から目を逸らした。
 眼下には一面庭が広がっている。花々が咲き乱れ、草木が青々と茂り。久しぶりに浴びる太陽の光に喜びを感じているかのように、皆生き生きとして見えた。
 ただ――。
 シェリアはバルコニーに出て、更にそこから身を乗り出してみた。
(やっぱり)
 花畑のすぐ隣に、荒れ果てたまま捨て置かれた平地が広がっている。以前シェリアがバルコニーで外を眺めていたときも同じことに気がついた。この王宮には不釣合いなほど投げやりな大地。すぐ側では色とりどりの花々が誇らしげに咲き乱れているというのに、一歩外れたこちらの土地では草一本生えていなかった。そして今も、その時のまま全く変わらぬ姿である。ただ、確か以前に庭師が手入れを始めていたはずだった。それから幾ばくかの時が過ぎたというのに、未だ様子に変化が見られないとはどういう訳か。
(新しく花畑ができるのかと思ってたのに……)
 あの寂しげな土地と自分を重ね合わせて考えていたっけ。あの平地にたくさんの花が咲き誇る時が来るように、自分も頑張ればきっと花開くのだと信じていた。けれど今、平地も自分も変わらぬ姿のままこうして佇んでいる……。
(どうしてだろう)
 自分はともかく、あの平地がいまだ捨て置かれていることが解せなかった。せめてあの土地だけでも自分の代わりに彩られて欲しい。それができずにいるのはどうしてなのだろう?
 シェリアは久しぶりにいても立ってもいられなくなってきた。
 そわそわと部屋の中を歩き回る。小鳥の餌ほどにしか食べ物を口にしていないので、ただそれだけでもふらついてしまう。
(何か理由があるのかな?できれば、あそこに花を咲かせたい。でも……もう私は、聖女として最低限のことしかしないって決めたのに。ううん、今はその最低の義務さえこなせてないじゃない。毎日の儀式にすら顔を出さずにこうして閉じこもってる)
 けれど。
 どうしようもなく気持ちが突き動かされるのを、シェリアは感じた。一体何に?分からない。ただ、どうしてもあそこへ行きたいのだ。
 ふらり、と部屋の扉まで歩み寄った。本当に久しぶりに、扉のノブに手をかける。触れた瞬間どきりと心臓が強く打った。何かひどく大それたことを仕出かしているような気分になる。
 そっと扉を開けると、考えもしなかったことだが、扉のすぐ側に侍女が一人佇んでいた。目が合うと、侍女は驚きのあまり口をぽかんと開いて固まった。
「あ、あの」
 シェリアは掠れた声で呼びかけてみる。
「あの……その、あなたは?」
「え、は、ええと」
 やっと我に返ったように、侍女はわたわたと慌てふためいた。
「しっ失礼いたしました。わたくしは侍女のエイドリノと申します。御用がおありでしたら、何なりとお申し付けください」
「エイドリノ……さん。あのね、ちょっとお願いがあるんだけど」
「はい、何でございましょう」
 侍女はごくりと固唾を飲んでシェリアの「お願い」とやらを待ち構えた。今までどうあっても部屋から出てこようとしなかった聖女が、今自らその姿を現したのだ。何かよほど重大な用件があるに違いないと踏んで無理もなかった。
「庭に、出てもいいかな」
 しかしその唇から零れた言葉は、あまりにあっけないものだった。
「――は?」
「バルコニーから見える庭に、行ってみたいの」
「に、庭に……ですか」
「うん。すぐ戻ってくるから」
 侍女はためらいがちに視線を彷徨わせた。どう答えるべきか判断がつかないのだろう。庭を散歩したい、それはとても分かりやすく簡単で、何の害もない要望のように思われる。けれど何故、今この期に及んでそのようなことを言い出したのだろうか。何か難しい事情でもあるのだろうか?
「あの――ライナス様に、お伺いしてまいります」
 結局侍女はごく当たり障りのない結論に達したのだった。しかしシェリアにはそれこそたまったものではない。その名を耳にした途端、大きく頭(かぶり)を振って抵抗した。
「それはダメ!あの人には……言わなくていいから。大丈夫、ほんとに少しの間だけ。ぐるっと回って帰ってくるだけだから」
「で、でも」
「私は平気だよ。花がすごく綺麗だから間近で見れたらなあと思っただけなの」
「それは分かりますが……」
「ね、花畑はすぐそこだし」
 シェリアのやたら必死な様子に、侍女はすっかり不審を抱いてしまったようだった。このままではどの道ライナスに「聖女がおかしなことを言っていた」と報告されかねない。それだけは避けたいとあれこれ弁明するが、躍起になればなるほど侍女の顔色は困惑の色を深めていく。
「本当に大丈夫だから……」
 その時、ふと目の前の景色が遠のいて、ぐら、と頭が揺れた。長く部屋に閉じこもっていたせいで、まるで体力が無くなっているのだ。眩暈に足元がもつれ、「あっ」と思った瞬間には地面に向かって身体が吸い寄せられていた。
「――どこが大丈夫なんです!」
 不意に耳元で響く、もう聞きなれた若者の声。その声に気づいた時には、シェリアの身体はしっかりと彼の者の両腕で抱きとめられていた。微かに頭だけでふり返ると、すぐそばにアシュートの端整な顔がある。
「あれ、アシュート?」
「あれ、ではありませんよ。今度は一体どうしたのですか」
「アシュートこそ、どうしてここに?」
「今は私が質問しているのです」
「……そうだね」
 シェリアはアシュートの助けを借りて立ち上がると、しっかり彼と向かい合う姿勢をとった。ライナスに話が渡るくらいなら、アシュートに自ら話してしまったほうがましだ。
「実は、少し庭を散歩したいと思ったの。だけどずっと部屋に閉じこもっていたからふらついちゃって……。侍女のエイドリノさんも心配してくれたんだ」
 自分の名前を出された侍女は、一瞬驚き、すぐに顔を真っ赤にさせて狼狽した。
「庭を……散歩ですか」
 そしてアシュートの反応も侍女と全く同じである。
「変なこと言ってるのは、自分でも分かってるんだけど」
 アシュートがいい顔をするはずがないことも分かっているので、弁明もつい弱声になる。もうこれ以上は押し通せない気がしていた。この堅物騎士殿と渡り合うくらいなら、散歩など諦めてしまうが賢明。シェリアは胸の内で白旗を振った。
 しかし、アシュートの答えは意外や意外、
「気分転換にはいいかもしれませんね。行きましょうか」
 などと至極寛容なものだった。
「えっ、いいの?」
「ただし私もご一緒します。気分が悪くなったらすぐに仰ってください。いいですね?」
「……うん」
 実際このふらつきようでは庭まで無事たどり着ける自信がなかったので、それはありがたい申し出だった。
「でも、仕事は大丈夫?なにか用事があって通りかかったんじゃない?」
「大丈夫です。さあ、早めに行きましょう。日が傾いては風が冷たくなる」
「うん」
 話がついたちょうどその頃、侍女が部屋からストールを持って出てきたところだった。気のきく侍女に礼を言って、アシュートと並んで歩き出す。やはり足に力が入らずシェリアは戸惑ったが、隣にアシュートがいるので安心できた。彼の腕に遠慮がちに添えた手に、ぎゅっと力を入れてみる。
 ――あたたかい、とシェリアは思った。