35.

 一面の花畑は、実に見事で美しかった。
 シェリアは息を呑んで辺りを見回す。
 赤、白、黄色、紫に水色――挙げきれないほど鮮やかな色の洪水。優しい風に吹かれてそよそよとその身を任せ揺れている花々は、とても幸せそうに見えた。そしてその幸せをあなたにも分けてあげたいというように、そっとシェリアの足元をくすぐるのだ。
「きれい――」
 出てくる言葉は、それだけだった。
 それ以上の言葉はきっと要らない。
「……見事なものですね。私も実際ここへ足を運ぶのは初めてでしたが」
 控えめにアシュートが声をかけた。シェリアは深く頷き、じっと目の前の景色を見つめている。
 ずっとこの場に佇んでいたい。太陽が昇り、そして沈み、月が昇り、そしてまた沈むまで。それを一万回繰り返すまで。ずうっとこのまま……。
 シェリアはアシュートから手を離し、一人で花畑の中を歩いていった。進めど進めど尽きることのない景色。やがて耐え切れず駆け出した。足がもつれ、思うように進めない。それでも駆ける。息が上がる。甘い花の生気を含んだ空気で、シェリアの胸がいっぱいになる。
 色鮮やかな花々に吸い寄せられるように、シェリアは倒れた。衝撃はほとんどなく、柔らかい大地がシェリアを抱(いだ)いてくれる。
「シェリアスティーナ様!?」
 その様子を見ていたアシュートが慌てたように駆け寄ってきた。シェリアは横たわったまま、少し身をよじって仰向けになる。頬をくすぐる花はそのままに、目の前には青い空が広がった。
「大丈夫。気持ちいいよ」
 一つ息をついて、シェリアはゆっくり起き上がった。
「もう少し……見たいところがあるんだけど、いいかな?」
「ええ、構いません。お体さえ大丈夫なのでしたら」
 シェリアは頷き、立ち上がった。

 大地を埋め尽くしていた花の数が、歩くほどに少なくなっていく。だんだんとまばらに、やがて数えられる程度に、ついには一輪も見当たらなくなり――あの、不毛の荒地へとたどり着いた。
 こちらもある意味では見事なまでの景色だった。随分遠くまでひたすら茶色い大地が続いている。言葉も出ずにその風景を眺めていたシェリアだったが、土地の真ん中にぽつりと小さな人影が見えて息を呑んだ。あの時の、庭師?
「こちらの土地は……」
 アシュートが戸惑ったように言葉を濁す。
「少し、ここで待っててもらえる?」
 シェリアは迷わず駆け出した。あの人影は誰?一体何をやっているの?この土地に起こったことを知っている?
 すぐにその人影が大きく迫り、地面に膝をついて屈んでいる男であることが分かった。大きな背中だ。格好から察するに、やはり庭師なのだろうか。側には大小さまざまな道具が転がっており、黙々と何かの作業を続けている。
「……」
 側まで駆け寄ったものの、声をかけていいものかシェリアは迷った。が、それは杞憂に過ぎなかった。すぐに男がシェリアの方へ顔を向けたのだ。
「おや、こんにちは」
 年のころは五十の半ば頃だろうか。日よけの帽子を被っているので表情はよく見えないが、立派な髭を蓄えた穏やかな雰囲気の男性である。
「こ、こんにちは」
「ん?あなたはもしや、聖女の」
 わずかに男性の瞳が見開かれた。
「あっ、はい……シェリアスティーナです。突然お邪魔してすみません」
「いやいや、とんでもない。しかし驚きましたな。どうしてまたこんなところへ?」
 男は、相手が“あの”聖女であると知っても怯まなかった。驚いたと言いながらまるで意に介した様子がない。これには逆にシェリアの方が驚いた。
「あの、少し散歩へ」
「ああ、すぐ隣の花畑は見事なものですからな。で、何もないはずのこの土地で変な男がうろついているのに気づいて、様子を見に来たというわけですか」
「いっ、いえ、そう言うわけじゃ無いんですが……。あなたは?」
「おお、名乗っていませんでしたな、申し訳ない。私はロノと申します。しがない下働きの者ですよ。趣味で、まあこうした庭いじりにも手を出しておりましてね」
「この荒れ地にも……随分前からいらしてますよね?」
「お気づきでしたか」
 これには本当に驚いたように、ロノは眼を見張った。
「そうですね。ご覧の通りの寂しい土地です。せっかくの広い土地なんだから、隣の花畑のように綺麗な土地にしてやりたいなあと思いましてね。仕事の空いた時間に、こっそりと通っておったのですよ」
 ロノは言いながら辺りを見渡した。シェリアもつられて顔を上げる。やはり草花一本見当たらない。
「同じように、花畑にする予定ですか?」
「うん、まあ、そのつもりなんですが」
「……もうだいぶ長い時間をかけてるのに、まだ花は咲かないんですね……」
「それも仕方がないでしょう。一度は焼き払われた土地ですし、その時何か薬でもまいたのではないですかな?」
「えっ?」
 焼き払われた?思いもよらぬ言葉に、シェリアはすっとんきょうな声を上げた。
「覚えてはいませんか」
 のんびりとした口調で、ロノは言った。それがあまりに自然な流れで、咎める響きや皮肉な響きがまるで無かったために聞き流しそうになったが――“覚えてはいませんか”。それはつまり、かつての自分が、……。
(まただ――)
 シェリアは全身から力が抜けていくのを感じた。
「私――私が、この土地を焼き払うように命じたんですね」
「そうなのです」
 ロノは、やはり穏やかな口調で答えを返す。
「もともとここは、先々代の聖女が花畑にした土地でね。珍しい『セルミナ』という白い花で一面を覆いつくしていたんです。それは見事な景色でしたよ。しかし数年前、あなたは唐突にそのセルミナ畑を焼き払うよう命じました。そしてその隣に建っていた塔を取り壊させて、そこを一面の花畑にしたのです」
「そんなことを……」
 シェリアは二の句が告げなかった。一体何のために、そんなことを命じたのだろうか?
「そして、焼き払った土地には何人たりとも手を出してはならぬことになりました。もしその地に手を加えようとした者がいれば即刻処断すると、それは厳しいお触れが出たのです」
「それじゃあ、あなたは」
「私ですか?いやいや、もう随分長い間放ってありましたからな。そろそろ冷やかしてみてもバレやしないかと思ったんですよ。もうあなたも忘れているかもしれない、とね。実際あなたは忘れていたようだし」
 はっはっは、とロノは穏やかに笑った。――なんて肝の据わった人なのだろう。聖女シェリアスティーナの残虐さを知らぬはずはないだろうに。しかも今、本人を目の前にしてこの明け透けな言い様である。勇気があるというよりもはや無謀だ。シェリアは呆気に取られたが、だんだん可笑しくなってきて、ロノと一緒に笑ってしまった。しかしすぐに自分の立場を思い出し、笑みを引っ込める。
「どうしました?」
 急に落ち込んだ様子のシェリアを見て、ロノは小首を傾げた。
「ここに花が咲かないのは――私の恨みつらみがたくさん篭ってしまっているからかもしれません。でも、そうと分かってもう一度花を咲かせたいと思っても、今の私には何の力も無い。ああしたいこうしたいって、思うばかりで実際には何も変えることができないんです」
 何故、父親ほども歳の離れた初対面の男にこんなことを言い出したのだろう。そうシェリアは思ったが、口は勝手に言葉を紡ぎ続ける。
「自分なりに一生懸命動いてるつもりになって、それでも何ひとつ変わらない。変えられない。自分の気持ちの持ちようも……。私は何のために、ここでこうしているんでしょうか」
「何のために……か。それは大層難しい質問だなあ」
 ロノはゆっくりと目を伏せた。
「しかしね、何かを変えることが難しいのは当たり前のことですよ。誰にとってもそれはそうです。何かを壊すのは容易いというのに、世の中は意地悪くできているものでね。特に一度壊れてしまったものを相手にしちゃあ、行き詰って当然です。あなただけじゃない、誰にだってそうなんですよ」
 私だけじゃない、シェリアは胸のうちでその言葉を反芻してみた。じん、と温かい何かが広がってゆく。
「焦っては駄目だ。ただ諦めないことが肝心です。長い長い間、ずっと『諦めない』でいることはとても辛く厳しいことですけどね。でも……私がこんなことを言うまでもなく、あなたはずっと諦めずに頑張り続けてきた。そうじゃありませんか?」
 優しいロノの言葉に、シェリアはぐっと唇をかんだ。はい、と答えられない自分が恥ずかしい。
「おや、そんなことはない、という顔をしている。けれどそうじゃない。あなたは頑張ってきましたよ、きっとね。私はあなたの何を知っているというわけじゃありませんが――王宮の中を見ていれば、わかります」
 ロノの言葉には不思議な説得力があった。押し付けがましいのではない。枯れた大地にすうっと水がしみこんで行くように、優しくシェリアの中に響いてくるのである。
「でも私は……もう、諦めてしまったんです。何もかも、手放してしまったんです」
「まだですよ。大丈夫。もう一度前を向いてごらんなさい。そうすれば、あなたがこれまで諦めずに頑張ってきた『想い』が、あなたの手を放れてもしっかりと立ち上がり、歩き始めていることに気づくでしょう」
「私の、想いが……?」
 ロノは頷いた。
「言ったように、何かを変えることは難しい。どんなに頑張ってもすぐにはその成果は現れやしないものだ。でも、目には見えずとも確実に変わり『始めて』いるんですよ」
 そしてロノは、屈んでいた身体をぐっと起こし立ち上がった。優しい笑みを浮かべシェリアの横に立ち、今まで自分の影になっていた部分を指し示す。

 そこにはほんの小さな、しかし瑞々しい若葉がそっと芽吹いていたのだった。

「あ……」
「一度は駄目になってしまって、もう絶対に取り返しが付かないと思われても、再び蘇る希望はある。時間はかかっても、いつか必ず――諦めさえしなければね」
 本当に小さな命。けれどそれは確かに、この不毛の大地に根付いているのだ。きっといくつもの苗が、そして種が、この土地で力尽きていったことだろう。しかし今目の前でいじらしく天を見上げている芽は、小さくとも紛れもなく新しい命なのだ。
 シェリアの頬を一筋の涙が伝った。その後を追うようにどんどん涙が溢れて、止まらない。
 目の前が霞んで涙でいっぱいになった。それでもただただ小さな緑を見つめ続けた。
「わたし……」
 声も、嗚咽に変わってしまう。
「私、もう一度信じてみても、いいでしょうか。自分の思う道を、もう少し、歩いてみてもいいでしょうか」
「いいんですよ」
 優しく深く響く声。
「いいんですよ――」
 その言葉を噛み締めるようにシェリアは瞳を閉じて胸に両手を当てた。溢れる涙を拭いもせずに、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

 もう一度、もう一度――。



「――ありがとう」
「いいえ」
「ロノさん、本当にどうもありがとう」
「こんな下男の話などつまらなかったでしょう」
 とんでもない、とシェリアは首を振った。それどころか、救われた思いだ。
「ああ、私はもうそろそろ戻らなくては。あなたは?」
「私は……もう少しここにいます」
「そう。まあ、あまり無理をして長居はしない方がいいでしょう。見たところ、随分身体が弱っているようだから」
「はい」
「きっとすぐに、ここも辺り一面花でいっぱいになりますよ」
 ロノが手早く荷物をまとめそっと去っていく間も、シェリアは若葉を見守った。
 紛れもない、新しい命。希望。
「よく、芽を出してきてくれたね。――ありがとう」
 囁いて、シェリアはもう一度瞳を閉じた。

 そうしてどれくらいの時間が経ったのだろうか。
 肌を撫でる風が幾分冷たくなってきた頃だ。シェリアの背後から影が差した。
「――シェリアスティーナ様」
 アシュートだった。
「少し肌寒くなってきました。そろそろ戻りませんか」
「――うん」
 そっと瞳を開いて、シェリアは頷いた。そしてアシュートを振り返る。ごく自然に微笑を浮かべることができた。
「戻ろう、アシュート」