37.

 どうにかジークレストの腕から逃れたシェリアは、久方ぶりに医療室へ続く回廊を歩いていた。
 相変わらず静かで穏やかな空間である。中庭の草花がさわさわと風に揺れ、空高くから陽射しを受けた木々はその影を回廊に映している。一時は毎日通っていた、何も変わらぬ見慣れた風景――そのはずだったが、医療室の白い建物が近づくにつれ微かな違和感がシェリアを取り巻いた。
 いつもはしっかりと閉ざされていたはずの白い扉が、わずかに開かれているのだ。
 そしてそこから漏れ聞こえてくる笑い声――子供の声だろうか?きゃあきゃあと、明るくはしゃぐ声が確かに聞こえてくる。
(なに……?)
 戸惑いに、足がすくむ。歩調を緩めたシェリアに気づき、ナシャがそっとその手を取った。
「シェリアスティーナ様、参りましょう」
「ここまで来て引き返すつもりってんじゃないだろ?」
 ジークレストにまで背中を押されては、止まるに止まれない。ためらいながらも再び歩き出すと、ちょうど医療室の扉から一人の子供が飛び出してきた。十歳くらいの女の子だ。続いて、同じ年頃の少女がもう一人。
「待ってよ、私がやるんだったら!」
「だーめーよ!今度は私が包帯替えてあげるって、約束したんだもん」
 はしゃぎながら、じゃれあっている。
 その光景をぽかんとした表情で見守っていると、まもなく管理人のミズレーがゆったりとした足取りで姿を現した。
「ほらほら、あんまり走り回らないの。包帯を替えて欲しい人は何人もいるんだから、取りあわなくてもいいでしょう」
 以前と変わらぬ温かい笑顔。見つめているうちに、シェリアは泣きそうになった。
「――あら」
 駆け回る少女二人をうまく捕まえたところで、ミズレーはシェリア達に気がついた。シェリアが初めてこの部屋を訪れた時のように、大きく目を見開いて驚いている。そしてやはり、その表情に嫌悪の影はなかった。
「あらあらあら、シェリアスティーナ様――いらしてくださったのですね」
「……お久しぶりです」
 久々の再会が照れくさくて、シェリアは少しはにかんだ。ミズレーにまとわりついた少女達は不思議そうな目でシェリアを見上げている。それに気づいてそっと微笑みかけると、慌てたように少女達はミズレーの背中に隠れた。怖がっているのではなく、照れているようだ。
「本当に、もう何ヶ月もお会いしていなかったみたい。ナシャさんにずっとシェリアスティーナ様とお会いしたいってお願いしていたんですよ。だからとっても嬉しいわ」
「あの……この子達は?」
「ええ、こっちの髪の長い子がエミリー、クセ毛の子がアニーです。二人とも医療室で看護の手伝いをしてくれてるんですよ」
「手伝いを……?」
「はい。アシュート様のお心遣いで。中には、他にも何人かいます。使用人たちのお子さんでね、こういうお世話に興味のある子達を呼んで下さったんですよ。シェリアスティーナ様がいらしてくださったときのように、とっても場が明るくなって。さあさあ、こんな廊下で立ち話もなんですし、部屋に入りましょう。他の子たちも紹介しますよ」
 ほら、ご案内して、とミズレーに促され、少女達はおずおずとシェリアの手を取った。まだ少し不思議そうな表情を浮かべながらも、くいくいと手を引っぱってくる。シェリアはその小さな案内人たちに引かれるままに、医療室の扉をくぐった。

 ――ああ、変わらない優しい空間。

 一歩足を踏み入れた瞬間、その柔らかで温かな空気がシェリアの全身を包みこんだ。息を呑む程に愛しい小部屋。ここへ通いつめることで救われていたのは、患者達でも誰でもなく、他ならぬ自分自身だったのだということに改めて気づかされる。
 変わったといえば、以前は頭からシーツを被ってシェリアを避けていた患者達がゆったりとベッドに腰かけていること、そしてエミリー・アニーのような子供達が他にも何人かパタパタと室内を駆け回っていることだった。
(変わらないなんてこと、なかった。前よりずっと、心地いい空間になってる)
 子供達を呼び寄せるとは、アシュートも素晴らしい計らいをしたものだ。今はもう包帯の取れた患者達が笑顔で子供達と語らっている。そんな様子を眺めながら、シェリアは目の奥がじんと熱くなるのを感じていた。
 入り口で棒立ちになっていたシェリアに気づいた患者達が、はっとしたように目を見開く。集まった視線にたじろいだシェリアだったが――次の瞬間、温かい拍手が室内に溢れかえった。それが自分に向けられているものと悟って、シェリアはますます困惑する。
「お帰りなさい、聖女様」
 子供達の中でも一際元気の良さそうな五、六歳の女の子が、大きな声でそう告げた。それに倣うように、数々の「お帰りなさい」の言葉がシェリアに投げかけられる。かつては目線を一瞬たりとも合わせようとしなかった患者達も、今は穏やかな笑顔を浮かべ拍手で迎えてくれている。
 こんな、こんなことって。
 シェリアは目の前の光景が俄かに信じられず、戸惑いながらミズレーやナシャに視線を投げた。が、彼女達もニコニコと微笑んで拍手を続けるばかりで何も説明してはくれない。説明などいらない――これが、この光景が全ての答えなのだというように。
「ねえっ、私、忘れないでちゃんと元気に言えたよ。えらい?えらい?」
 拍手の音が少しずつ小さくなっていく中、第一声でシェリアを迎えてくれた少女が周りの大人たちの袖を引っぱった。きっと前々からシェリアが医療室に戻ってきた時の出迎え方を考えていたのだろう。その中で、シェリアに初めて声をかける大役を担ったのがこの少女なのに違いない。偉かったねえ、すごいねえ、と数々の大人たちに褒められて、少女は満足げだった。その少女を抱え上げ、「ほらっ主役はお前じゃないんだから!」と十三、四歳の少年が慌てて部屋の隅へと連れて行く。ははは、と患者たちの笑い声が響いた。
「どうです?患者の皆も、随分良くなったでしょう」
 ミズレーがにっこりと微笑んだ。
「あの……、はい」
 何と言っていいのか分からず、シェリアは戸惑いがちに頷く。
「もうほとんどの者が、自宅に戻れるくらい元気になったんです。でもシェリアスティーナ様に一目お会いしたいっていう者たちがこうして残っていて」
 ナシャも嬉しそうに説明した。が、シェリアにはその事実を簡単に受け入れることなどできなかった。
「でも、そんな。私はとても許してもらえないようなことをしたんです。それなのにこんなに温かく迎えてもらうわけには……」
「だああ、もうっ!」
 シェリアを遮ったのは、後ろに控えていたジークレストである。
「ゴチャゴチャ言うのはやめにしようぜ!確かに、皆が皆シェリアを許したわけじゃねぇよ。もうお前の顔なんて金輪際見たくない、って奴らは退室許可もらったら早々に出て行ったし、許したくないわけじゃないけどやっぱり怖くて顔見れねぇ、って奴らも、お前が来るって聞いて逃げ帰っていったしな」
「ジークレスト様……!」
 ナシャが慌ててなだめようとするが、ジークレストは続けてまくしたてた。
「それでもな、お前のこと許して、お前のこと待っててくれてる奴もこうしているんだ。まさかこんだけの人数じゃ足りねえとでも言うんじゃないだろうな?お前は、嬉しくないのかよ。迷惑なのか、腑に落ちないのか、ご立腹なのか、一体どうなんだ、ええ?」
「私は……」
 シェリアは声を詰まらせた。
「私は、嬉しいです。すごく、嬉しいです。もう、どうしていいか分からないくらい、嬉しいです」
 涙が溢れて上手く話せない。そもそも、この喜びの気持ちを百パーセント伝えてくれる言葉が見つからない。
「それなら、もういいじゃねぇか。それ以上何も言わなくていい。な、みんな!」
 ジークレストの言葉に応えるように、再び拍手が沸き起こった。シェリアはこみ上げてくる嗚咽を止められなかった。

 医療室は、ほどなく正式に解散という形になるという。しかしその後も、あの環境を活かして、ホリジェイル被害者に限定しない一般医療室として維持し続けていく予定だそうだ。
 ホリジェイルの被害者達は、全く別の土地で生活を仕切りなおす者、すぐ側の城下町で新たな職を求める者、そして引き続き王宮内で仕事を続ける者――様々だ。いずれにせよ国が生活の補佐をしてくれるとのことで、患者たちの顔も明るかった。
 医療室からの帰り道、シェリアはふと隣を歩くミズレーはどうするのだろうと考えた。
「ミズレーさんは、今後は……?」
「私は引き続きこの医療室で、医師の補佐をする予定なんですよ。よろしかったら、いつでも遊びにいらして下さいね」
「はい、ぜひ」
 彼女が変わらずこの場所にいてくれるのだと思うと、シェリアも心強い。
「はー、俺もやっとこれで、お役御免ってところかな」
 大きく伸びをしながらジークレストが気楽に呟いた。
「こんなトコに通ってちゃあ、騎士としては牙が抜け落ちるみたいで、どっか焦るところがあるんだよな。このままのんびりしてんのも悪くねーなって思うときもあるけどよ」
「確かに、次期神聖騎士団団長様の牙が完全に抜け落ちてしまわれては、国としては少し不安ですものね」
 ミズレーがくすくすと笑った。
「ま、そんだけここは居心地がいいってことだ。これからは一般医療室にするって話だが、負傷兵が居ついて出てこなくならねーよう、そこんとこはビシッと頼むぜ、ミズレーよぉ」
「はい、お任せくださいな。でもジークレスト様、時々はぜひ足をお運びくださいね」
「ふん、この俺が医療室の世話になるような予定は全く無いさ」
「あら、これは失礼いたしました」
 和やかな談笑が続く。シェリアはそんな二人に微笑みながら、隣のナシャに声をかけた。
「ナシャは?……まだ、私と一緒に、いてくれる?」
「――もちろんです。シェリアスティーナ様さえ、よろしければ」
 二人、頷きあう。シェリアにとってナシャは、もはやかけがえの無い親友だった。
「あとね……」
 心持ち真剣な表情で、シェリアは少し俯いた。
「カーリンさんの、こと。……今、どこでどうしているのか、ナシャ、知ってる?」
 その名前を耳にした途端、ナシャは穏やかだった表情を強張らせた。
「……未だ、変わらずです。辞職願は受理されていませんので、カーリンさんは休暇を取っている形になっています。王宮内の自室に篭り、なかなか出てこようとはしなくって。いつでも王宮を離れられるよう、ほとんど荷物はまとめてしまっているようですが」
「……私、会いに行っちゃダメかな?きちんとお話したい」
「シェリアスティーナ様、――申し訳ありません。おそらくは、まだ……」
 言葉を濁しがちにナシャは首を振った。
 しかしシェリアにはカーリンの気持ちもよく分かる。つい先日までの自分が、まるで同じ状態だったからだ。誰にも会いたくない、誰とも話したくない。ただ一人きりにして欲しい――。そうしてひたすら自分を責め続けるのだ。周りのことも先のことも何も見えない。ただひたすら真っ暗闇の洞窟の中にこもり続ける毎日。そんな生活が良いものだとは全く以って思わないが、それでもあの時無理強いされることがなかったのには感謝している。「良くないから」と無理に部屋から引っ張り出され、たくさんの人間にあれこれと諭されたとしたら、どうだっただろう?その時の苦痛は計り知れない。だから。今はただ、カーリンがシェリアと対峙する覚悟を決めてくれるまで待たねばならない。そっと見守るべき時なのだ。自分の周りの者達が、辛抱強く待ち続けてくれたように。
「わかった」
 シェリアは頷いた。
「じゃあ私、毎日カーリンさんに手紙を書くよ。それを、食事の時にでも一緒に届けてもらうことにする。無理に読んでもらわなくてもいい。もし、ほんの少し、読んでもいいかなって気になってくれたときに封を切ってくれればいい。そうでない時は捨ててしまって構わない。きっとまた、私の自己満足なんだろうけど……」
「ったく、シェリアはホントにそーいうの好きだよな。毎日通う、とか毎日手紙書く、とか。俺には到底マネできねえ。でもま、いいんじゃねぇの」
「ええ、ええ。きっとカーリンさんにも想いが通じますよ。時間はどれだけかかっても」
 ジークレストとミズレーが揃って相槌を打った。
「そうですよね、いつかきっと」
 ナシャも頷く。
「――私の時がそうだったように、ね」
 感謝の気持ちを込めて、シェリアは肩を並べる三人に、そして、今はここにいないたくさんの人々に、微笑んでみせた。