38.
その晩、早速カーリンに宛てて手紙を書こうと机に向かったシェリアだが、なかなか筆は進まなかった。
一体何を書けばいいのだろう?自分は何を伝えたいのだろう?
「早く元気になって」、それはそう思うのだが、無理に自分を奮い立たせることはしてほしくない。「私のことで苦しませてしまってごめんなさい」、こんな言い方、暗にカーリンを責めているようなものじゃないのか。「全てを水に流してもう一度やり直しましょう」、……これも余りに奇麗事めいている気がする。そもそもこれでは、臭いものに蓋をするのと何ら変わりがない。どんなに辛くても、今はしっかりと向き合わねばならない時期なのだ、――お互いにとって。
(難しいなあ……)
時刻はもう真夜中を過ぎていた。
侍女が持ってきてくれた温かいハーブティーも、とっくに冷めてしまっている。それを一口含んでから、シェリアはそっと溜息をついた。
(手紙なんてやり方、良くないのかな。気持ちの半分も伝わらなさそう)
どんなに自分の思いを込めようとしても、紙の上にインクがにじんだ瞬間、それはまさしく薄っぺらな「モノ」に変わってしまう。そもそも読み書きの得意ではない自分では限界があるのだ。これまで、人に気持ちを伝えるための文章など書いたことはなかった。書くとすれば、「立ち入り禁止」だとか「店員までお声かけ下さい」だとか、とにかく事務的なことばかりだ。そんな自分が、この大事な時に手紙で気持ちを伝えようだなんて……。
(ううん、でも、精一杯書いてみよう)
シェリアはすぐに気持ちを切り替えた。気持ちの半分も伝わらない――それでも、欠片でも伝わればいいじゃないか。気持ちの欠片が入った手紙を毎日渡せば、それが積もって気持ちの「山」になるかもしれない。
「何もしないよりは、マシ!」
声に出して、シェリアは自らを励ました。よし、そうとなればとにかく何かを伝えなければ。再びペンを持ち直し、便箋と向かい合った。――その瞬間。
つと、背中を滑り落ちるような悪寒に襲われた。
はっとして、握りなおしたペンを落としてしまった。カランと乾いた音が部屋に響く。ひゅっと息を吸いこんで目線だけで微かに後ろを確認するが、誰もいない。けれどシェリアはそのまま留まらず、すぐに扉へ向かって駆け出した。追いかけてくる何者かの気配。扉の内鍵はかかっていない。それをおかしいと考える暇(いとま)もなくて、シェリアは勢いよく扉を開け放ち外へと飛び出した。
しんと静まり返った廊下がシェリアを無慈悲に突き放す。それでもめげずにシェリアは駆け出した。
「――やっ……!」
自身に向けられる明確な殺意。けれどその殺意をまとった者の姿を確認することが出来ず、シェリアはますます恐怖に駆られた。――まもなく、右手に高位侍女の控えの間が見えた。しかしそこへ逃げ込むことは出来ない。そんなことをすれば、きっと無関係の侍女もろとも姿見せぬ暗殺者の餌食になってしまうだろう。シェリアはそのまま扉を素通りして、ひたすら廊下を駆け抜けた。
だが、つい先日まで部屋に閉じこもっていた娘がどれだけ力を振り絞ろうが、追いかけてくる手練から易々と逃れられるはずがなかった。
聞こえるのは己の足音だけ、なのにどんどん大きくなってくる殺意の塊――もう駄目だ、そんな考えが不意に浮かんだ。
と、同時に背中へ鈍い衝撃が走った。咳き込んでしまうほどの強い力。その力で後ろから突き飛ばされたのだ。
「!!」
突然のことに悲鳴すら上げることが出来ず、シェリアはそのまま前のめりに倒れこんだ。
予期していた身を切るような鋭い痛みはない。それでもまだ安心はできなくて、立ち上がる余裕も無いままに、這うようにしてその場から逃げ出そうと動いた。
「――引け」
その時突如、場違いとも言えるひどく落ち着いた声がシェリアの頭上から降り注いだ。低く静かな声で、すぐに夜の廊下に溶け込んでいく。その声にシェリアは反射的に振り向いた。自分のすぐ側に、上背のある何者かが立ちつくしている。ぎょっとしてその姿を見上げたが、どうやら相手はシェリアに背を向けているらしい。となれば、今放たれた言葉は自分に向けたものではないのか。この場に侵入者は、二人いる?
訳が分からずただ息を呑むばかりのシェリアだったが、目の前の人物はこちらをちらりとも窺おうとせず、ただじっとその場に構えていた。
やがて、ふっと場の空気が和らいだような気がした。――侵入者の一人が、去ったのだ。
残ったのは、暗闇に染められたような黒マントに身を包んだ人物と、その場に倒れこんだままのシェリアの二人きり。
逃げなければ、という考えは既に消え去っていた。逆に、下手に動けば却って命が危ういという予感がある。シェリアはただ黙って座り込んでいた。しかし目の前の人物もなかなか動いてはくれない。シェリアに背を向けたまま微動だにしないのは、一体どういうわけか?
「……もう、怪しい者の気配はないようです」
シェリアのじれったい思いが通じたのか、唐突に、ぼそりと男は呟いた。
え?と思わず聞き返しそうになったが、声が出ない。呆然としているうちに、更に男は続けて言った。
「今晩はひとまず大丈夫でしょう。万が一また何かありましたら、参ります」
言葉とともに、男は初めてシェリアの方を振り返った。顔まで布で覆われているその人物の、琥珀色の瞳だけが月の光を反射して仄かに光を放っている。
男はそれ以上何も言わず、そしてシェリアを助け起こすでもなく、さっと姿をくらませてしまった。
残されたシェリアはただ一人、呆けたまま闇夜に染まる廊下を見据えていた。
結局、シェリアはほとんど一睡も出来ないまま朝を迎えた。
部屋の扉もバルコニーへの扉もしっかり戸締りし、一度は机に向かい直した。そして、逃げる時に散らかした便箋やらペンの類いを取りまとめ、もう一度手紙を書く体勢に入ったはいいが……。
今しがたその身に起こった出来事を綺麗さっぱり忘れ去って、手紙の文面を考えることに没頭できるほど、シェリアも図太い性格ではなかった。真っ白な紙を目の前にすれば、却って先ほどの出来事がまざまざと脳裏に蘇ってくる。――自分を殺そうとした、何者かの侵入。そういえば以前も一度同じようなことがあった。真夜中、得体の知れぬ男がバルコニーから侵入して、自分に短剣をつきつけたのだ。しかしその時は、相手に明確な殺意は感じられなかった。言葉では上手く説明できない、けれどとにかく、相手に自分を殺すつもりはないような気がした。そして実際、全く危害を加えることなく相手は去っていったのだ――。
今回は、あの時とは違う。ぞっとするほど明らかな悪意と殺意をほとばしらせて、暗殺者はシェリアの様子を窺っていた。そうと気づけたのは、偶然に口走ったあの独り言のためだっただろうか。真夜中に一人きりのところ、唐突に声を上げたため、研ぎ澄ませていた相手の神経を刺激したのかもしれない。そうでなければ、侵入者がいたことにすら気づかず命を奪われていたかもしれないのだ。
とはいえ、どの道あのままではシェリアは殺されていただろう。この一帯は聖女の居住区ということもあり、極端に人が少ない。せいぜい、聖女の身の回りの世話をする直近の侍女数名の控え室がある程度だ。あの背の高い黒マントの男が助けてくれたからこそ、今シェリアはこうして平穏無事に朝を迎えることができたのだ。
(……でも、あの暗殺者はどうやってここまで入ってきたんだろう)
人が少ないからといって、王宮の警備が手薄だというわけではない。まず以って、この区域にやってくるまでが大変なのだ。王宮の設計上、聖女の暮らすこの一画への入り口は一か所に集中されていて、そこで徹底的な監視と警備が行われていると聞いた。そこをくぐり抜けてなお、至る所に警備兵が配置され、不審な者はすぐに見咎められる。なるだけ死角を作らないよう建物にも工夫が施され、一方向から見ればオブジェの陰になるような部分でも、他方から見れば様子が筒抜けである――というように、考えに考え抜かれた設計になっているそうだ。そのまた先に、警備兵も立ち入ることの出来ない聖女のプライベートな空間があるわけだが、ということはつまり、警備兵が入れない以上に曲者も侵入できないはずなのだ。それではあの暗殺者は、一体どこから沸いて出たというのだろう?
(……身内、から?)
嫌な考えが頭をよぎった。
しかし至極自然な考えでもある。外からは進入不可能、となれば中に初めから反乱分子が存在していたということではないのか。
今日は、ホリジェイルの医療室で皆に温かく迎え入れてもらえて、本当に嬉しかった。だからといって、あの一件で自分が許されたなどとは思っていないはずだったが――、
(私を殺そうとしている誰かが、いる。怖いけど、それ以上にやりきれないほど悲しくなっちゃうなんて、やっぱりずるいのかな、私)
憂鬱な表情でシェリアはバルコニーへ目をやった。朝の陽射しを浴びて眩しさに目を細めると、ますます涙が零れ落ちそうになるのだった。
「イーニアス=ノア=ディルレイ、ネイサン=アクローヴィス。両名が本日より聖女様付きの護衛役となります」
のどかな昼下がり、その穏やかな雰囲気にはまるで似合わぬ厳かな口調でそう告げたのは、準騎士団の統括をしているらしい三十代半ばの男性だった。名を呼ばれた二人は、シェリアに向かって恭しく頭を垂れた。一人、引継ぎのため形式的に姿を表したジークレストだけが飄々とした態度で、面白そうに二人とシェリアを見守っている。
「この命に替えましても、必ずや聖女様をお守りいたします。よろしくお願いいたします」
生真面目なイーニアスらしい挨拶の声が、部屋の中よく通った。
「力不足の面もあるかとは存じますが、精一杯努めさせていただきます」
こちらは、抑揚の無い声が朴訥な印象を与えるネイサンだ。まだホリジェイルでの傷が癒えきっていないのか、どこかひょろりとした細身の身体が頼りなげに見える。
何はともあれ、これで二人は正式にシェリアの護衛役となった。
同時に、剥奪されていた「準騎士」の資格も回復したことになる。シェリアにとってはまず何よりもそれが嬉しかった。やっと二人が、あるべき姿に戻ったのだ。かつてのシェリアスティーナの身勝手で、この二人の人生を振り回してしまった。今度はなるだけ二人をサポートしていきたい。自身の護衛役を引き受けてもらったからには、サポートしてもらうのは自分のほうだという心苦しさは残るのだが。
しかしそれも二人が希望してくれることならばと、シェリアは素直に受け入れることにした。イーニアスのどこか誇らしげな様子を見ていると、「誰かを護る」ことこそが騎士の本懐なのだろうと思わず顔がほころぶ。そのシェリアの笑顔を見て、やはり嬉しげな微笑みを浮かべてくれるイーニアスに心から感謝せずにはいられなかった。――きっと彼も、殻に閉じこもってしまった自分を心配してくれた一人なのだろうから。その優しさに甘えきってはいけないとは分かっているが、今はただ嬉しい。こうして笑顔で向かい合えるこの時間が、ただ嬉しいのだ。
心配なのはネイサンの方だった。
イーニアスが精神面で強くシェリアスティーナに傷つけられたとすれば、ネイサンは肉体面でまさに文字通り激しく傷を負わされてきた。シェリアはその目で見たのだ。彼が牢に押し込まれ、力なく薄汚れた壁にもたれかかっていた様子を。体中傷だらけで、元は筋肉で引き締まっていたであろう上半身も、あばら骨が浮き出て見えるほどがりがりに痩せ衰えていた。廃人同様のそんな彼の様子を、シェリアは今でも忘れられずにいる。シェリアスティーナが引き起こしてきた惨事の数々、その成れの果てを一番端的な形で自身の前に表してくれたのが、傷ついた彼の姿そのものだったのである。
あの時ネイサンは何も言わなかった。いや、言わなかったのではない、きっとあまりの苦しさに何も言えなかったのだ。シェリアにぶちまけたい恨みつらみは山ほど胸の内に抱え込んでいたことだろう。「もう二度と会いたくもない」、ホリジェイル被害者達の一部がそう結論づけたように、彼自身もまたシェリアと顔を合わせるのはご免だと思っていて当然だった。むしろ「会いたくない」以上の激しい憎しみが彼の中に渦巻いていてもおかしくなかったはずだ。
それなのに、ネイサンは自らもシェリアの護衛役を買って出たのである。
彼がそう告げたとき、もちろん周りの者は皆驚いた。同じく聖女の被害者で護衛役に立候補していたイーニアスですら、ネイサンの真意を量りかねている程だった。準騎士に戻るには護衛役も務めなければならないと勘違いしているのではないか?そう問えば、否という。ただ静かに「駄目だと言うならそれ以上無理は言いません」と静かに告げるのみだ。
ほとんどの者は、彼の護衛役任命に異を唱えた。ネイサンは聖女に復讐を果たすつもりで、彼女に近しい地位に就こうとしているのだという考えが大半だったからだ。実際それしか筋の通る見方はなかった。
しかしシェリアは彼の申し出を受け入れることにしたのである。もちろん、迷いはあった。それが彼にとって良いことなのか――。こうして簡単な任命式を開いている今この瞬間ですら、迷っている。しかし彼が自分に危害を加えるつもりなのかという一点においては、シェリアに迷いはなかった。
彼にそんなつもりはないと確信できる瞬間があったからである。
挨拶だけの簡素な式が終わると、シェリアは下がりかけたネイサンを呼び止めた。
「――あなたとは、まだちゃんと言葉を交わしたことが無かったよね?少し、二人で話がしたいんだけど……いいかな?」
その場にいた者が皆、戸惑ったように沈黙した。ネイサンの考えが読めぬうちは、二人きりにはしたくないというのが彼らの本音なのだろう。
しかしネイサン自身はそんな周りの思惑を気にするでもなく、落ち着き払った態度で一つ頷いただけだった。