40.

 「詠神の儀」では、片手ではとても持ち上げられないほど分厚い聖典が用いられる。
 何名かの神官と席を囲み、簡単に言えばその聖典の「解釈」を進めていくわけだ。シェリアも幼い頃から、信仰の流れや神の教えなどについては学んできたつもりだったが、ここで取り上げられる内容はそんなレベルを遥かに通り越している。聖典の文章もなにやら小難しげで装飾的で、そもそも文それ自体を理解することすらシェリアにとっては大仕事だ。そんな状態で「解釈」に口を挟めるはずもなく、シェリアはもっぱら黙って聖典をめくる他ないのだった。
 今日もそれは同じだ。儀式に出席したはいいものの、神官たちの議論にはまるでついていくことができない。熱心に「神」を語る神官たちの姿を見つめ、しかしシェリアの心は別のところに漂っていた。
 ――先ほどのネイサンの言葉が気にかかる。
 反聖女勢力の動きが活発化していて、そこから遣わされた暗殺者が自分を狙った。
 本当にそうだろうか?
 シェリアはぐっと眉根を寄せた。今自分の中で思い描いているもう一つの「答え」が、きりきりと胸を締め付ける。考えたくはない――が、それが「事実」であるという可能性も拭い去れない。
 ライナスが暗殺者を仕向けた。
 ごく簡潔な「答え」がシェリアの中ではっきりと形作られる。そんなはずはない、それはただの被害妄想だと嘯(うそぶ)く自分もいる。しかし疑惑の芽というものは一度顔を出すとそう簡単に摘むことができないものだ。どんなに理論的な根拠でさえも、猜疑心という名の分厚い壁を打ち破ることはなかなかできやしない。
 冷静に考えれば、おそらくあり得ないのだ。ライナスがシェリアを殺すことなど。その身体に別人の魂が宿っていると知り、それを邪魔に思ったからといって、身体ごとこの世から消し去ろうとするものだろうか。そんなことをして、本物のシェリアスティーナが返ってくる保障などどこにもないではないか。むしろ普通に考えれば、本人も無事で済むはずがない。シェリアに宿る「別人」を排除するためとはいえあまりにも危険な賭けに過ぎる。
 だけど、と疑念の渦に飲まれたもう一人の自分がすかさず反論する。だけど、ライナスは本物のシェリアスティーナのことをもう諦めてしまったのかもしれない。シェリアスティーナは二度と返ってこない、そういう結論に達したからこそ、ますます彼女を奪った自分のことが許せないのではないか。
 いや、そんなはずはない!以前の彼の口ぶりからすれば、本物のシェリアスティーナを取り戻そうとする意思があるのは間違いない。ライナスはまだ諦めてなどいないのだ。だから、暗殺者を仕向けるなどと単純な行動に出るわけがない。
 だがしかし――、
(どっちなの、ライナス!)
 シェリアは声無き声で虚空に向かって叫んだ。しばらく見ていないあの広い背中が、シェリアのまぶたの裏にぼやけて映る。もはやはっきりとした輪郭さえ浮かんでこない。彼と真正面から向き合うことが恐ろしいのだ。自分の中の「彼の残像」にさえ、まともに目を向けることができないほどに。
(ひどい、ライナス、ひどい。あなたのことを思い出すと、私はこんなに苦しいよ。あなたのあの時の言葉、あの一言一言が、棘みたいに私に刺さってとても痛い。ひどい、ひどいよ――)
 だけど、彼は間違っていない。
 それはシェリアにも分かっていた。
(ライナス……ごめん)
 最後にこぼれ落ちる言葉は、ただそれだけしかなかった。

 儀式のあと、扉の向こうにはすでにイーニアスが控えていた。まるで古の彫像のように微動だにせず真っ直ぐ前を見据えていたが、シェリアの姿を認めるとわずかに顔を綻(ほころ)ばせる。
「イーニアス。待っててくれたんだ、ありがとう」
「お疲れ様でした」
「聖典の解釈って難しいね、私にはさっぱりだったよ。でもまあ、頑張らないとね」
 あはは、と頭をかくシェリアをイーニアスは穏やかな笑顔で見守っている。
「それじゃ、戻ろっか」
「……シェリアスティーナ様」
「ん?」
「少し、庭を散策してみませんか。今の季節に美しく咲く花があるのです」
 突然の申し出にシェリアは目をしばたかせた。イーニアスが自分から何かを提案するのは珍しい。いつも一歩下がったところにいて、それこそ護衛役の鑑のように控えめだというのに。……ごく稀に、暴走することもあるのだが。
「まだ次のご予定まで少し時間がありますから。もちろん、無理にとは言いませんが」
「そうだね……、それじゃ、ちょっと行ってみよう」
 シェリアも庭の散策は好きだった。もともと植物の扱いを生業にしていたようなものだから、その中に身を置くのが一番落ち着くのだ。自然に囲まれていれば、ただその場に立っているだけでいくらでも時間を潰せる自信はあった。
(そういえば、この間庭に行った時も、結構長い時間立ちつくしちゃったな)
 あの不毛の大地に芽吹いた新しい命を眺め、ただひたすら立ちつくしていた。それにアシュートをつき合わせてしまったのだっけ。あの時のアシュートは、側にいることを忘れるほどごく自然に自分を見守っていてくれた。
(忙しい人なのに、ずっと待たされて嫌な顔一つしなかった。ああそうだ、なのに、私ってばお礼も言ってない!最低だ!)
「どうされました?」
 突然慌てだしたシェリアを横に眺め、イーニアスが首をかしげた。
「ううん、なんでもないの」
 シェリアは笑顔で取り繕う。――次に会ったらしっかりとお礼を言おう。シェリアは心の中で密かに決意した。きっとアシュートのことだから、礼を述べたところで「仕事ですから」の一言で片付けられてしまうのだろうなと思うと、つい苦笑が漏れてしまうが。
 今度はにやにやし始めたシェリアに、イーニアスも苦笑を返した。
「一体どなたのことを考えているのか、頭の中を拝見したいものです」
「あっ、イーニアス、私のこと変な奴だって思ったでしょう」
 いいえまさか、とイーニアスは笑顔で首を振る。そんな話をしている間に、広い裏庭まで辿り着いた。聖女シェリアスティーナが作らせたという色とりどりの花畑だ。シェリアスティーナの心理は分からないが、彼女の考えがどうであれ、この花々が美しいことには変わりない。……そのように割り切れない人々もたくさんいるのは分かっているが。この花畑を今のまま保存しておくべきか、それとも全く形を変えてしまうべきか、シェリアには分からなかった。しかしそれを決めるのは自分でなくていい、と思い直す。皆がどう思っているのか、自然と話し合える関係を築くことが今は大切だ。
「シェリアスティーナ様、過ぎた質問かもしれませんが」
 花畑を歩きながら、イーニアスが少し表情を引き締めて問うた。
「なに?」
「先ほど、ネイサンと随分長くお話されていたようですが、一体何を?」
 全く思いもよらない質問が飛んできて、シェリアは言葉に詰まった。
「えっ……と、あの。色々」
「色々、話すような雄弁な男ではなかったのでは?」
「うーん、そうだったような、そうでもなかったような」
 あの時の話題が話題だけに、そう気軽には打ち明けられない。殺すだの殺さないだの、どう考えても平穏な話ではなかったのだから。ただでさえ不安定なネイサンの立場を更に悪いものにしたくなかった。
「まあ、あの、本当に私の護衛役になってもらってよかったのかとか。今までの仕事のこととかも、少し」
「それで、分かりました?あれがどういう男か」
「そう言われてみれば……、よく、分かんなかったかも」
 シェリアは素直に首をかしげた。確かに、色々話して分かった事実はごくわずかである。
「……あいつは、もともと貴族の出ではありません」
「え、そうなの?」
「民間の出身なのです。ですから、本当ならば準騎士の位になど就けるはずもありませんでした。準騎士になれれば、将来は神聖騎士になることも可能ですから。裕福な商家の息子ならば正騎士にはなることもありますが、ネイサンはもともと孤児です。その経歴を考えれば、異例中の異例の出世と言えるでしょうね」
「そ、そんなにすごい人なんだ」
 イーニアスは頷いた。
「それだけあいつの実力は抜きん出ていました。それに国王のお考えもありましたので。貴族だけが台頭できる制度では民間人の士気が上がらないと、国王は考えられた。そこで、優秀であり、なおかつ努力を惜しまない民間人を重職に起用することで、一般の人々にも『国』に目を向けてもらおうとなさったのです」
「それに選ばれたのがネイサンだったんだね」
「はい。今はさる貴族の養子として引き取られた形になっていますので、あいつも形式的には貴族の一員なのですが。他にも数名が正騎士団に所属しています。あとは、文官として起用されている者もいますね」
「そっかあ。そんなこと、ネイサン全然言ってなかったな」
 聖女の護衛役に任命されたことがきっかけで準騎士になったとは言っていたが。それにしても、こう言ってはなんだが、それ程すごい人物にはまるで見えなかった。
「あまり自分の経歴は語りたがりません。もともと諜報役としての仕事が多かったですしね。なるだけ目立たないようにやり過ごすのがあいつの性なんだろうと思います」
「あ、それは言ってた!諜報役なんてかっこいいよね。でも、民間出身の準騎士じゃあ、目立たないところか皆に大注目されちゃうよ。大変だねー、ネイサンも」
 シェリアは笑ったが、一方のイーニアスは不意に目線を落とした。
(あれ、目を逸らされた?)
「……すみません、先ほどから、ここにはいないネイサンの話ばかりを」
「そんな、私は助かるよ。これからお世話になる人のこと、何にも知らないのも困るしね」
「俺が嫌なんです」
「え?」
 耳に入った台詞は聞き間違いかと、一瞬耳を疑った。呟くような小さな声だったのでいまいち確信が持てない。
(あっ、しまった!もしかして、またネイサンをひいきしてると思われちゃったのかも!)
「そ、そういえばずっと気になってたんだけどね、イーニアスの結婚式の日取り、もうそろそろ決まりそう?」
 話題を変えようと殊更明るい声で尋ねると、イーニアスは怪訝そうな表情で顔を上げた。
「結婚式?」
「そうそうっ。ええと、ほら、色々あって延びちゃってたでしょ?許婚の人との結婚……。準騎士に戻れたんだし、もう何も問題ないよね?」
「……その話も、あまり嬉しくないんですが」
 また小さく呟かれた。困ったような、そしてどことなく拗ねているような声だ。
(ええっ、な、なんで?まだ何か問題あったんだっけ?)
「婚約の話なら、反故(ほご)になったとお伝えしませんでしたっけ」
「ききき聞いてないっ!」
「それは失礼しました。ですが、そういうことですので」
 あっさりとイーニアスは告げる。慌てたのはシェリアの方だ。
「それは、私がイーニアスの地位を剥奪しちゃったから?でももう元に戻ったんだし、婚約の話だって……」
「いえ、もうその話は全くの白紙に戻しました」
「えええええ!!」
「……そんなに驚くことでしょうか」
 そう呟くイーニアスの落ち着き払った様子の方が、シェリアにはよっぽど信じられない。
「だって、それって、どうして!?私のせい?あ、もしかして、一度でも平民の身分になった人とは結婚できないとか、そういう話になっちゃってるの!?それなら私がその人のところに行って、なんとか考え直してもらうように」
「違います」
 イーニアスはきっぱりと否定した。
「もともと俺にとっては興味の無い話でしたから。向こうもこちらも、互いの権力目当ての婚約でした。家ぐるみになって、いわゆる政略結婚というやつですよ。だから俺の地位剥奪をきっかけに話が壊れて、俺は嬉しかったんです。それをもう一度蒸し返す必要もないと思ってますから」
「でも、向こうは」
「大丈夫です、身分のつりあう男はいくらでもいますよ。すぐに新しい婚約者を見つけると思います」
 その冷めた言い様にシェリアはなんとなく引っかかりを覚えた。
「許婚、っていうくらいだったんだし、随分長い間のお付き合いだったんじゃないの?それなら相手の人と何度も会ってるよね?家柄がどうとか、それだけの話じゃないかもしれないよ」
「準騎士の資格を無くした時、婚約を無かったことにしてほしいと言ってきたのは向こうです。これほど分かりやすいこともない」
「そんな!そりゃあ、ご両親はそう考えたのかもしれないけど!相手の女の人自身は辛かったかもしれないよ!ご両親をどうにかなだめようと頑張って、それでもどうにもできなくて、毎日泣いて過ごしているかもしれないのに」
「……そうかなあ」
「だって、イーニアスってすごくいい人だし。なんていうか、見た感じも爽やかで素敵だし。『この人と結婚するんだな』って思って何度も会ってたら、きっと家柄なんか抜きに好きになっちゃうよ!そうだとしたら、可哀想だと思わない?」
 シェリアが熱のこもった主張を繰り広げると、イーニアスは苦笑としか言いようのない笑みを浮かべた。
「……あなたは本当に、時々残酷なことをあっさり仰いますね」
「え?」
 きょとんとするシェリアをよそに、イーニアスは深い溜息をついた。
「あなたには、アシュート様しか映っていないのですか」
「アシュート?」
 突然出てきた思わぬ名前に、シェリアは目を丸くする。
「アシュートって、なんで?」
「あなた方も、いわば政略結婚のようなものを強いられています。それを疑問に思われたことは?」
「……そりゃあ、向こうは嫌がってるだろうなあ、って思うけど」
「シェリアスティーナ様はそうではないのですか」
「わ、私?」
 考えたこともなかった。戸惑いながらも自問する。アシュートとの結婚を、自分はどう思っているのか?
(どうもこうも、ない。だって私は本当のシェリアスティーナじゃなくて……)
 この事実を考えると、眩暈がする。深く考えるな、考えるな、と警鐘が頭の中に響いて――何もかもが分からなくなってしまう。
「アシュートは……、いい人だよ」
 イーニアスの質問の意図とは随分外れた答えと分かっていながら、口が勝手に言葉を紡ぐ。しかしイーニアスはその答えすら看過することはなかった。
「いい人であればそれでいいのですか?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「俺はずっとずっと考えていましたよ。愛してもいない女性と結婚するということを。そんなのおかしいと思っていた。一生を添い遂げるのなら、本当に心許せる人と一緒になりたいと思っていました。シェリアスティーナ様はそうは思いませんか?」
「それはそうだよ、そうだけど」
 イーニアスの言うことは全く間違っていない。シェリアとてそういう人と結ばれることが一番の幸せだと考えている。しかし否応無しに受け入れなければならない結婚は、どうしても存在するのだ。もし自分がその当事者となったら、辛いかもしれないけれど、だからといってそこで諦めたくはない。
「結婚してからじゃ遅いとは言い切れないよ、きっと。私はまだアシュートのこと、よく分かってないけど……、お互い理解していけば、愛情って生まれるものかもしれないし」
「かもしれない、なんて。生まれなければどうするのです?俺だったらとても苦しい」
「それはもちろん、苦しいと思う!でも、今だって私、アシュートのいいところ、色々見つけたもの。あの人、理性だけで動いてるように見えるけど、人の見えない部分で優しさをくれる人なの。私だって、それで何度助けられたか。その場でお礼を言えないような遠回りな方法で、色々助けてくれるんだよ。お礼どころか、もしかしたら気づかないで素通りしちゃうかもしれなかった」
 だめだ、待って。これ以上気づかせないで。だって私は本当のシェリアスティーナじゃない。本当の私は、あの日、馬車に轢かれて――。
「それにね、あの人の前だと私、最近緊張しなくなってきたんだ。いつも明るい人とか親切な人とか、もちろん一緒にいて楽しいよ。だけどそうじゃなくてもほっとできる人っているんだね。それだけじゃない。アシュートはいつも、本当に一人でいるのが辛い時、側にいてくれるんだ。不思議だよね、どうしてそういう時に必ず来てくれるのか、分かんないんだけど……。とにかく、私がアシュートのことを知ったのは婚約が決まってからだけど、もうこんなにたくさんあの人のいいところ見つけたんだから」
 それが一体何を意味するのか、考えたくない。考えないようにしてきた。だってもし考えてしまったら――。
 ぽとり、と何かの雫が落ちる音が聞こえた気がした――シェリアの胸の奥底で。一体何の音だろう?切ない雫、それは気持ち、悲しい気持ち。涙……。心が、泣いているのかもしれない。
「だけどアシュートは一生、『私』をちゃんと見てくれることはないんだよね」
「シェリアスティーナ様……?」
 戸惑いを含んだ瞳でイーニアスがシェリアを見つめた。俯いていたシェリアは、すぐさま顔を上げて首を振る。
「――ううん、なんでもない。そろそろ戻ろう」