41.

 歴史資料室というものがあることは、以前から知っていた。
 王宮図書館の最奥にある階段を上った先にある、一般の立ち入りを禁じられた一角がそうだ。この国の政治や歴史に関する専門的な資料が所狭しと並べられているという。その所蔵内容といえば、決して公にされることのなかった歴史の「裏側」までもを網羅した、まさに門外不出の「諸刃の剣」だ。国の全てを知る上でこの上なく貴重な宝の山でもあり、下手に扱えば現王制をも窮地に追いやる恐ろしい猛毒でもあり。
 もちろんシェリアとて、王宮に上がるまではそのような部屋の存在など全く知る由もなかった。シェリアがたまたまそれを知ったのは、侍女ナシャとの他愛のない雑談の最中である。ナシャは使用人たちの間で噂されるその「開かずの間」を、同じ感覚でシェリアに聞かせただけだった。シェリアもその時はただ何となく話を聞いていただけだったが、今になってその場所を思い出し、足を運んでみようと考えたのだ。
 シェリアスティーナのことを、もっと知りたい。
 理由は、ただそれだけだった。
 振り返ってみれば、これまでも幾度となくシェリアスティーナという人物のことに思いを馳せてきた。この目を通して見る世界の全てが、シェリアスティーナと繋がっているのだ。全ては彼女のものと言っても過言ではないかもしれない。しかし時間が経つほどに、今ここにいる「自分」と「彼女」を切り離して考えられなくなってきている。それは否定できない事実だった。
(私はもっと、シェリアスティーナのことを知らなくちゃ)
 ずっと前からそう思っていたはずだった。しかし日々を過ごすのに精一杯で、「知りたい」と思う気持ちを常に引き連れながら、それをなおざりにしてきた感は否めない。それでもついに動き出したのは、―― 先日のイーニアスとの一件があったからだ。
(私、思ってはいけないことを、思ってしまった)
 もっと「私」のことを、見てほしい。
 「私」の存在に気づいて欲しい。
 シンプルだけれど、この上なく痛烈な願い。
(本当は私、ずっとそういう気持ちを心のどこかに持ってた。だけどあの時は、本当に強く、心からそう願ってしまって――)
 ずっと押し込めてきた気持ち。そんな気持ちがあることを、今まではっきりと自覚したことはなかった。シェリアスティーナに成り代わりたい、そんな大それたことまでは絶対に考えていなかったと否定する自分がいるが、今はその確信も揺らいでしまいそうだ。
 もっとちゃんと、シェリアスティーナのことを知ろう。目を逸らしたりしないで。彼女をあやふやな存在になどしておかないで。しっかりシェリアスティーナのことを見つめよう。そして自分は知るべきだ、彼女がかつて何を思っていたのか。そして今、何を思っているのか。そうすることで見えてくる「あるべき姿」はきっとある。……いや、本当はもっと早くに動くべきだったのだ。
 そうと決まれば、誰よりも詳しくシェリアスティーナのことを教えてくれる可能性があるのは歴史資料室だけだった。彼女の姿を借りている身では、周りの者たちにあれこれと聞いて回ることも出来ない。唯一こちらの事情を知っているライナスを訪ねるには、未だ気持ちは割り切れていなかった。
 しかし、高級官僚でさえも無用の立ち入りは禁じられているという歴史資料室に立ち入るには、もちろん許可がいる。
 こんな時に頼れそうな人物といえば――ライナスを除けば、一人しかいなかった。

 コンコン、乾いたノックの音が分厚い扉に吸い込まれていく。重厚な両開きの扉は、いかにも身分ある人物のおわす場所といった風情である。シェリアの部屋の扉も大層立派ではあるが、女性のための部屋だからなのか、こちらに比べれば幾らも柔らかな造りだった。背の高い扉の前に立っていると、否が応でも緊張が高まる。
「少々お待ちを」
 中からアシュートの返事が聞こえた。その言葉から察するに、シェリアがやって来ることを知っていたのだろうか。不思議に思う間に扉が開かれ、落ち着いた様子のアシュートが姿を現す。
「どうぞ、お入りください」
「あ、うん。ありがとう」
 まるで驚いた様子のないところを見ると、やはり知っていたのだろう。この時間にアシュートの手が空いているかを侍女に確認したから、その後で連絡が行ったのかもしれない。
 初めて入るアシュートの執務室は程よい広さの機能的な空間だった。茶を基調とした机や棚は、シェリアには到底理解できぬであろう書類で埋めつくされている。これだけの書類に毎日目を通し指示を出しているのだと思うと、他人事ながら気が遠くなった。
「申し訳ありません、散らかしたままで」
「ううん、こっちこそ忙しいのに押しかけちゃってごめん」
 勧められて、簡易応接ともいえるソファに腰を下ろす。失礼になると思いつつも、シェリアはつい部屋の様子を観察してしまった。アシュートはいつも、この部屋で仕事をしているのだ。何も知らなかったアシュートの一面にほんの少し触れられた気がして、それがシェリアには嬉しかった。しかしそれにしても、持ち主の見たままの性格をまさにその通りに反映している部屋だ。大きな観葉植物が据えられている以外に実務的でないものは何一つ部屋にない。あるのかもしれないが、すぐに目に付くようなところには置いていない。机に積み上げられた書類も綺麗に角が揃えられていて、乱雑な印象は全く与えない。
「それで、どうされました?あなたが直々にいらっしゃるとは珍しい」
 自分も腰かけたアシュートに声をかけられ、シェリアは慌てて彷徨わせていた視線を元に戻した。
「何か困ったことでもおありですか?遠慮なく何なりとおっしゃってください」
 もっと邪険に応対されるかと思っていたシェリアは、多少面食らう。しかし考えてみれば、アシュートの自分に対する物腰は、初めて会った頃と比べて格段に柔らかくなっていた。当初の刺々しさなど近頃ではまるで見受けられない。……今のアシュートになら、全てを打ち明けてしまってもいいのでは。そんな誘惑に駆られたが、「真実」は彼にとって随分な負担になるだろうと思い直した。ただでさえ様々な問題を抱えているアシュートだ。その上、国の聖女であり自分の婚約者でもあるシェリアスティーナが実は今現在この世にいないなどと知れば、度重なる心労に今度こそ耐えかねてしまうかもしれない。
「困ったこととかじゃないんだ、そんな、大したことじゃないの」
 多分、と心の中で付け加えた。
「あのね、『歴史資料室』っていうのがあるって聞いたんだけど」
「……歴史資料室?」
 怪訝そうに呟くアシュートを見て、噂だけの存在だったのかとシェリアは焦りを覚える。
「また変わった言葉が出てきましたね」
「ないの?そんな部屋、ないの?」
「いえ、歴史資料室は存在します。ただ……」
 ほっと息をついたのも束の間、アシュートの表情は未だ晴れない。
「あそこは王宮内でも最重要機密区域として一般の立ち入りが完全に禁止されている場所です。そのようなところに……もしや、用事がおありですか?」
 さすがアシュートだ、話が早い。シェリアは頷いた。
「ちょっとね、勉強の一環で」
「勉強というのなら、ちょうどいい資料をこちらでご用意しますが」
「うーん……でも、なんというか、もうちょっと踏み込んだ歴史を勉強したいなーっていうかね」
「踏み込んだ歴史?何のために?」
 そうとまで言われると返答に詰まる。が、話を持ちかけてしまったからには今更退くわけにもいかなかった。
「前に用意してもらった歴史書とか読んでると、当たり障りのない表面上のことしか書いてなかったから。歴史資料室にある資料にはもっと細かい話も載ってるって聞いて、興味がわいたの」
「……」
 アシュートの沈黙は、いつも恐ろしい。
「具体的には、どのような?」
「へ?」
「歴史資料室といっても、一般の図書館のように蔵書がきちんと整理され保管されているわけではないのです。手当たり次第に様々な資料がただ格納されているだけの状態です。もしお探しの資料があるのでしたら、あなたお一人では探し出せないと思いますよ」
「そ、そっか」
 知りたいのは、シェリアスティーナの過去について。しかしその一言が言えれば苦労はしない。
「まあでも、せっかく興味を持たれたのでしたら、一度足を運ばれるのもいいかもしれませんね。よろしければお供しましょう。このあとすぐにご案内しても、お時間は大丈夫ですか?」
「ええっ、いいよそんなの!忙しいのはアシュートの方でしょ?その、もちろん、許可がもらえるなら嬉しいんだけど。ついてきてもらう人は他に探すよ。イーニアスとかネイサンとか」
「彼らでは入室できません。シェリアスティーナ様でしたら手続上は問題ありませんが……、それでもやはり、お一人で入られてはいらぬ憶測をされてしまうかもしれませんし」
「そんなに大変な場所なんだ……」
「私もちょうど仕事がひと段落ついたところです。それでは、参りましょうか」

 王宮図書館は敷地の北側にどっしりと構えている。
 この際奥にある歴史資料室は最重要機密区域に指定されているというが、図書館だけでも気軽には立ち入れない重々しい雰囲気があった。白と翡翠の二色が入り混じるような建物は何本もの図太い柱で支えられていて、もしこの柱が木だったなら、きっと樹齢数百年はくだらないだろうと思われた。建物の入り口には屈強そうな見張りが二人立っていて、出入りする者をしっかりチェックしているようだ。
 建物の中はひんやりと薄暗い。人の姿は全くなかった。歩くたびに、二人の無機質な靴の音が高く響く。その音は高い天井まで届いてそのまま吸い込まれていった。シェリアは思わず顔を上げる。吹き抜けの二階にも所狭しと本が並べられていて、そのどれもがひっそりと息をつめて突然の来訪者を観察しているかのようである。
「あまり、人の来ないところなの?」
 つい小声になりながら、シェリアは尋ねた。
「そうですね。本を手に取っていただければ分かりますが、娯楽性はほとんどない図書館ですので、一般の者が自ら足を運ぶようなことはありません。来るとすれば、何らかの研究をしている学者くらいでしょうか。王宮の西側にももう一つ、規模は小さめですが図書館がありますので、大体の者はそちらへ行ってしまうようです。西側の図書館は王宮関係者だけでなく一般の民も出入りが許可されていますから、いくらか賑やかなようですよ」
 そう言われてみれば、確かにシェリアの知っている図書館はもう一つ別にあった。実際シェリアも以前に何度か足を運んだことがある。子供でも楽しめるようなものから少し難しい知識人向けものまで、様々な本が納められていたのだったか。王宮内にありながら唯一民間人が立ち入ることのできる施設ということで、民たちの人気も高かった。その場にいるだけで、なんだか自分が少し高貴になったような気分がしたものだ。……それが今では、その数ランクも上の図書館へ平然と立ち入っているのだから運命とはなんとも不思議なものである。
「少し階段を上ります」
 一際目立つ大階段を上るのかと思いきや、アシュートはその脇の更に奥にある、小さな階段の方へ足を向けた。まるで管理人室にでも続くような、ごく質素で寂しい階段である。幅も人一人がやっと通れる程度、そこを迷いもせず上っていくアシュートに倣って、シェリアも大人しく後に続いた。
 階段の上に現れたのは、やはりシンプルで小さな扉である。ただし取っ手のところに不釣合いなほど大きく頑丈な南京錠が備えられていて、シェリアは驚いた。アシュートは懐からやはり大きな鍵を取り出し、手早く錠を開けにかかる。ガチリ、と重々しい音と共に錠が外れた。続いて扉をゆっくりと開く。見ているだけでその扉の重さが察せられた。そしてアシュートが両手で開いた扉の向こうに、まだ扉が続いている。ただし今度は扉というより鉄格子と形容した方がいいような代物であった。そちらも同じく鍵がかかっている。
 アシュートが最後の鍵を開けている間、シェリアは格子越しに室内の様子を観察した。先ほどアシュートが言っていた通り、たくさんの資料が無造作に棚にしまわれているだけのようだ。思った以上に狭い部屋で、窓は人の腕がやっと一本通る程度の小さいものが、入り口とは反対側の壁に三つくり貫かれているだけだ。そこにも鉄格子がはまっていて、まるで牢獄のようだとシェリアは思った。
「お待たせしました。どうぞ中へ」
 アシュートに促され、部屋へ入る。窓が余りに小さく日の光が十分でないため部屋全体が非常に暗い。しかし灯りをともせるようなものが見当たらず、シェリアはついアシュートに目をやってしまった。すぐにシェリアの疑問を悟ったアシュートが、首を振る。
「この部屋では火気厳禁です。本来ならば、図書館の入り口で見張り兵に身体検査をされるのです。そのとき火をつけるような道具を持っていればその後の立ち入りは一切禁じられます。図書館を出るときも同様。不当に資料を持ち出そうとする者は捕えられるのです。図書館だけならば原則として出入りは自由ですが、それほど国が気を使っている場所であるということですね」
「それじゃあ、灯りをつけられないの?」
「はい。その窓の側でしたらある程度日の光が差していますので、その光を利用するしかありません」
 その徹底ぶりにシェリアは驚いた。こんな小さな窓から、と近寄ったシェリアは、その窓の奥行きの「長さ」に再び目を見開く。どれほど壁が分厚いのか、窓の奥行きは優に長剣一本分以上の長さがある。
「その窓から資料を外に持ち出すのを防ぐためです」
 手前と、そして一番向こうにも鉄格子。
「……すごいね」
「それほどのものがこの資料室には置かれているということでしょう。さて、どうしましょうか?何か資料をお出ししましょうか」
「ええっと、どうしようかな」
 シェリアは戸惑いながらも棚へ向かった。何気なく手近にあった資料に目を落とすが、細かな文字でびっしりと書き込まれたその紙の束には、一体何の話題が書かれているのかすら理解できない。
「例えばこれなどいかがです?歴代聖女の簡単な経歴をまとめたものです」
 呆然と資料を見つめていたシェリアにアシュートの助けが入った。そう、それこそまさに探していた資料そのもの!アシュートが差し出した冊子に喜んで飛びついたシェリアだったが、そのアシュートがいつも以上に厳しい表情をしているのに気がついて、思わず出しかけた手を引っ込めた。
「シェリアスティーナ様、あなたもご存知のようですが、ここにある資料はどれも公にはされていないものばかりです。今まであなたが知らなかった事実ばかりが並んでいる。それを知って……本当にいいのですか?あなたは知らなくてもいいと、私はそう思います。それでも……」
「ううん、アシュート」
 シェリアはしっかりとアシュートを見すえて頭(かぶり)を振った。
「私は知らなくちゃいけないって、思うの」
 その一言に、アシュートはそっと目を伏せた。それ以上追及することなく冊子を手渡してくれる。
「ありがとう」
 受け取って、シェリアはページをめくってみた。記録が残っている限りの聖女の経歴が記されているようだ。以前読んだ聖女の記録には、千年も前からの聖女たちについてどれも神懸り的に書かれていたが、ここにあるのは項目一覧を見る限りせいぜい十人程度だ。言い伝えの域を出ない聖女の話は徹底的に排除しているということだろうか。
 どうやらその考えは間違っていないようで、一番古い聖女に関してはほんの少し、出身地と没年が書かれている程度であった。それから現代に近づくにつれて、事務的ではあるが詳細な聖女の経歴が綴られていく。
 その内容は、どれも衝撃的なものであった。
 聖女の生い立ち、王宮に上がった日付、王宮での暮らしぶり。かかった病気やその経過、死亡理由など。特にその中でも、彼女たちの「病歴」にシェリアは目が釘付けになった。
 彼女たちのほとんどが、精神を病んでいる。
 ひどい鬱状態になり寝たきりの状態などの続いた聖女が実に五人。拒食または過食状態に陥った聖女が三人。儀式の際に不安発作を起こす聖女もいれば、逆に公の場に現れるときだけ過度な躁(そう)状態なった聖女もいる。一人でいくつもの症状を抱える聖女もいたりして、健康状態を保った聖女はほとんどいなかった。
 前聖女のマルヴィネスカもその例に洩れない。長い間軽度の鬱状態が続いていたようだが、彼女の夫が病により早世すると、それ以降は頻繁に自傷行為を繰り返すようになったという。さらに食べ物も受け付けなくなり、すらりとした長身であったのに、亡くなる直前の体重は十歳児のそれと変わらなかったそうだ。結局流行り病にかかって亡くなったようだが、心身ともに抵抗力を失っていたことは大いに関係しているだろう。
「こ、こんな……」
 思わずシェリアは呟いた。しかしそれ以上の言葉は続かない。
「これは、歴史の陰に隠された真実の一部です。華やかに見える聖女の暮らしは、実際は厳しいものでした。あなたもよくお分かりでしょう。どれほど物理的に恵まれていても、それだけで心の平穏は得られない」
 アシュートが静かに、しかしどこか苦しげに告げる。その言葉の意味は痛いほどシェリアにも伝わってきた。――そうだ、自分も苦しかった。儀式ばかりが続く日々に、ほんの数日で嫌気が差していたではないか。こんな毎日が続けば精神的に参ってしまう、と。実際その通りだったわけだ。考えてみても分かる。幼い頃に親元から引き離され、まるで神の化身がごとく扱われ、育てられていく。明日の予定から数年後の予定、未来の結婚相手も、そう――死ぬまでの間、全てのことがらを他人に決められ、押し付けられて生きていく。自分の人生がただ人々の「シンボル」であればいいというその事実が、どれほど重く苦しいものか。そんな中で、どうやって生きがいや日々の幸せを見つけられるというのだろう?
「そうだね……つらいね。すごく、つらい」
「私のような第一神聖騎士は、まだいいほうです。幼少時は聖女の婚約者といえど一般貴族とほぼ同等の教育を受け、同等の生活を送ることができます。成人すれば、政治に関与する権限もある程度与えられ、国を動かすというやりがいのある仕事を得ることもできる。結婚した後も……望めば、妾を何人でも侍らすことができるのです。しかし聖女はそうはいかない。彼女たちに与えられる自由は、ほんの少ししかない。その中で自分を保ち続けることは難しいのだと思います」
 シェリアは冊子の最終項目を見た。シェリアスティーナの名前は無い。
「……シェリアスティーナ様」
 更に深刻な色を帯びたアシュートの呼びかけに、シェリアはゆっくりと顔を上げた。
「あなたは、『聖女シェリアスティーナ』の姿を探して、ここまでやってきたのですね?」