43.

 その後シェリアは、ネイサンを連れて花畑へ足を運ぶことにした。
 次の儀式までまだいくらか時間があったため、その時間にカーリンへの手紙に添える花を摘んでこようと考えたのである。
 本当はすぐにでもライナスのところへ行って事の顛末を確認すべきなのだろうが、心の準備ができずにいる。もう少し、もう少ししたら、と自分に言い訳をしながら、シェリアは花畑へ通じる廊下を歩いていった。
 花畑へ行きたいと言ったら当然のようにネイサンがついてきたので戸惑ったが、王宮内も安全ではないという彼の言葉を思い出し、「一人で行く」という言葉を引っ込めた。シェリアの後ろ数歩ほど離れたところを影のように歩かれるのはどうにも気になって仕方が無かったので、並んで歩くようお願いする。
「そういえば、ネイサン。ちょっと聞きたいんだけどね、イーニアスの結婚の話……」
「結婚?そのような話がありましたか」
「今は白紙に戻っちゃったみたいだけど、前は許婚がいたでしょ?」
「……はい」
 そのことか、というようにネイサンは頷いた。あまり感情が面に出ないので、その件をどう思っているのかまでは読み取れない。
「私のせいで婚約破棄になったみたいだから、どうしようかと思ってるんだ。何とか取り成したいんだけど、イーニアス自身は私に遠慮しちゃて『もういいんです』としか言ってくれないし。ネイサンってイーニアスと仲がいいみたいだから、イーニアスを説得するいい方法があったら教えてほしいなぁと思って」
 ネイサンはしばし押し黙った。
「取り成す必要はないでしょう。あいつも、あなたに遠慮しているわけではありません。本当に『もういい』と思っているんでしょうから」
「な、投げやりになっちゃってるのかな」
「そうではありません。もともとあいつ自身は望まない婚約だったので、むしろ白紙に戻って清々していることでしょう」
 そういえば、確かにイーニアスもそんなようなことを言っていた。が、それを真に受けて本当にいいのだろうか。周りに心配をかけまいと、わざとそんな風に気丈に振舞っていたのだとしたら。
 シェリアが考え込むように俯いたので、ネイサンもその考えを悟ったのだろう。これは本当です、と静かに念を押した。
「あいつは生真面目な奴ですから、名家に生まれた者の義務の一つとして『結婚』を捉えていたのです。だから親が持ってきた縁談を拒絶することなく、義務の一環としてそれを受け入れた。仕方がないと諦めていたのです。しかしあいつも、一般兵として過ごす間に随分我(が)を出すようになりました。嫌なものは嫌だ、と最近ははっきり意志を示しますね。だからあいつが、婚約が反故になって良かったと言うなら実際そうなんでしょう」
「そうなのかなあ。いろいろと我慢しそうな人に見える。自分のことより人のことを優先して行動しそうっていうか」
「そういう部分があるのは確かですが、『人のこと』ではなく、『あなたのこと』なんですよ」
「ええ?」
 驚くと、ネイサンがわずかに呆れたような顔をした。こんなに無表情な人物なのに、呆れ顔を見せるのはこれが初めてではない。それほど自分は間の抜けたことばかり言っているのだろうかとシェリアは少し不安になった。
「本当に何も分かっていないというわけではないでしょう?何故イーニアスがあなたに対してある種執着のようなものを持っているのか」
「……な、何故なんでしょう?」
 恐る恐るシェリアは呟いた。それが未だにどうしても分からない謎の一つである。しかし分からないなどあり得ないというネイサンの様子に、シェリアも及び腰になってしまう。
「子供でも分かることだと思いますが」
「ななななんで!だって私、イーニアスの『許せない奴ベスト3』に絶対入るようなことしかしてないのに!それでどうしてあんなに私のこと丁寧に扱ってくれるのか、全然分かんないよ!」
 まくし立てるシェリアを前に、ネイサンは至極冷静な様子だ。やれやれとでも言いたげにほんの少し首をかしげた。
「なるほど。本当はうっすらと分かっていらっしゃるのでしょうね。しかしそれを認めてしまわないよう、無意識に目を逸らしている」
「え、え、え?なにそれ。なるほど、って、何!一人で納得しちゃわないでよ」
「それよりも、少し足を速めましょう。次の儀式に間に合わなくなってしまいます」
 一人納得したらしいネイサンは、それ以上シェリアの言葉を取り合わずスタスタと廊下を歩いて行った。後ろをついてこられるどころか遂に置いていかれたシェリアは慌ててその背中を追う。
「ねえ、ネイサンってば。何か知ってるなら教えてよ」
「あと四十分ほどでお戻りいただかねば」
 だんまりを決め込まれれば、とても打ち勝てる気がしない。仕方なくシェリアは口をつぐんだ。

 花畑にはここのところ続けて足を運んでいるので、シェリアももう大分勝手が分かっている。どの辺りにどんな花が咲いているのか、問われれば答えられる程度には辺りを把握していた。
 きっとカーリンの部屋は殺風景だ。いつでも出て行けるように荷物はほとんどまとめられているというし、食事を差し入れるのがせいぜいだという今の状況で、彼女に何かを手渡した者はいないだろう。それならば、鮮やかな花束が彼女の部屋を彩ってくれれば。きっと色とりどりの花が彼女の心を動かしてくれるとシェリアは考えたのだ。
(とにかく、色んな花を摘んでいこう)
 長々とした手紙を渡しても困惑させてしまうだけかもしれない。それならば、言い訳がましくああだこうだと書くよりも、内容を簡潔にしてこうしたプレゼントを添えた方が喜んでもらえるだろう。
「ネイサンも手伝って!」
 この花畑なら視界が広いので、たとえ曲者が潜んでいても見つけやすい。そう考えたのか、ネイサンも一つ頷き花を摘みにかかった。
 陽射しは明るく照りつけているが、汗が吹き出るほど暑いというわけでもない。ちょうどいい気候で、時折風も吹き抜けていく。
「この花畑って、珍しい花もたくさん咲いてる。ほら、この植物の葉っぱなんて、煎じれば頭痛によく効く薬になるんだよ。でも副作用は無いし、妊婦さんとかにも安心なの。すごく重宝するんだけどなあ。この地方にはなかなか生息してなくて」
「植物にお詳しいんですね」
 感心しているような響きは無いが、ネイサンが言葉を挟んだ。
「や、まあ、ほら。毎日割と暇だから。本とか読んでると、こういう知識ばっかり増えていくんだ」
 シェリアは慌てて言いつくろい、手早く花を摘んでいく。
 すぐ側の荒れた平地に目をやると、ちらほらと地面から芽が吹き出しているのがはっきり見えた。――良かった、本当に大地が生き返ったんだ!嬉しくなって立ち上がると、平地の真ん中に大きな背中がうずくまっているのに気づく。
「――ロノさん!」
 シェリアは大声でその名前を呼んだ。呼ばれた背中が振り返り、よっこらせというように立ち上がる。シェリアは更に大きく手を振り、芽を踏まないよう気をつけながら駆け寄った。ネイサンもすかさず後ろをついてくる。
「ロノさん、こんにちは」
「おやどうも、こんにちは」
 ロノは相変わらず穏やかな声で挨拶を返した。シェリアの後ろにしっかりと控えているネイサンに気づき、数度目をしばたく。
「ええと。今日はデートですか」
「なっ、なにを言ってるんですか」
 シェリアはあたふたと首を振ったが、ネイサンの方はまるで動じる様子はない。それよりも目の前の男を気にしているようだ。
「……ロノ……?」
「あ、この人はね、この王宮の庭師、だったかな?やってるんだ。前にここで会ったことがあって、色々話を聞いてもらったの」
「どうも初めまして、ネイサン殿」
 ロノはにこにこと笑いながらその名を呼んだ。
「知ってるんですか?」
「もちろん、知っていますよ。聖女様のお付きの騎士といったら、王宮内で知らない者はいませんから」
「ええっ?だって護衛役になってもらったのってついこの間のことなのに」
「十分な時間ですよ。庭師だろうと皿洗いだろうと、皆もう知っています」
「そうなんだ」
 人の噂というものは侮れない。
 ネイサンは未だ値踏みをするようにロノを眺めている。本来立ち入り禁止のはずのこの平地に一人でいるので、怪しいと思ったのだろうか。
「ネイサン、ここで仕事してもらってるのは、私もちゃんと承知してることだから。心配しなくて大丈夫だよ。むしろロノさんは私にとって恩人なの」
「……はい」
 あっさりと引き下がったが、果たして本当に納得しているのかどうか。しかしロノが怪しい動きをしない限りはネイサンとて手出ししないだろう。そしてロノがそんな動きをするはずのないことを、シェリアは知っている。
「ロノさん、ここも随分芽が出てきたんですね。驚きました」
「ええ、最初の芽が出てすぐに。かなりのペースで成長していますよ。きっとあなたの加護を受けたからでしょう」
「私なんて何の力もありませんよ。きっとロノさんが一生懸命世話してくれたからだと思う」
 笑ってみせると、ロノも満面の笑みを返してくれた。
「あなたも元気になられたようで良かった」
 その笑顔に思わずシェリアは涙ぐみそうになる。ロノが良かったと言ってくれれば、本当に良かったのだと思うことができる。ロノが笑顔を見せてくれれば、それ以上の笑顔を返したいと思うことができる。なんて包容力のある人なのだろう。かつて夜の森で道に迷ってしまったときのことを思い出す……たった一人で泣きながら森の中をさ迷い歩いていたとき、駆けつけてくれた父親のこと。同じ目線になるようしゃがみこんだ父親のほっとした表情を見て、自分も心の底からほっとしたものだ。今はその時と同じ安堵感に包まれている。
「まだ色々と迷ったりもするんですけど。あの時のロノさんの言葉に、すごく元気をもらいました」
「人は一生迷い、そして惑い続けます。けして悪いことではないですよ」
「……ロノさんって、なんだか凄い」
「歳を取れば誰でもこのくらいのことは悟るもんです」
 ははは、とロノは口を開けて笑った。

 それからしばらく、花畑へ通うこともシェリアの日課の一つになった。
 カーリンの手紙に必ず花を添えて渡すようにしている。カーリンからは何の反応も無かったが、それでも毎日続けていた。何も言ってもらえないからといって拒否されているとは限らない。ほんの少しでも彼女の心に響くものがあれば、それでよかった。以前ふさぎ込んでいたシェリアの心を突き動かしたのもやはりこの花だったのだ。きっといつかカーリンが部屋の扉を開けるきっかけになってくれるだろう。
 手紙には、極力謝罪の言葉や励ましの言葉は書かないようにした。その日起こった他愛の無い出来事などを書き、カーリンの負担にならないよう気を配った。外の情報を知らせることで、いつ復帰しても場に馴染めるようにという思いもある。使用人たち独特の輪というものもあるだろうから、侍女のナシャにも手伝ってもらった。仲間内での面白い話や出来事を聞き、それを手紙にしたためる。自由に出歩けないシェリア自身にとっても、手紙を書く時間は楽しいものだった。
 一通、二通、三通……そして六通、七通。日に日に手紙は長くなる。始めのうちは簡単な手紙をと思っていたのに、いつの間にかカーリンに伝えたい日々の出来事はどんどん増えていくのだ。
 そして手紙が十八通目を数えた時。

 ついにカーリンからの、返信が届いた。