44.

 シェリアに部屋へ来てほしい、というのがその手紙の内容だった。
 要約するまでもなく、手紙には本当にそれだけしか書かれていない。カーリンは何を思っているのだろうかとシェリアははじめ困惑した。毎日一方的に送りつけられてくる手紙と花束に、とうとう我慢ならなくなったのだろうか。しかしどんな形であれ、自分と話をしようと考えてもらえたことは嬉しかった。
 その日の午後には必ず行くと返事を出して、もうそれからの儀式は心ここにあらずという感じだった。一刻も早く駆けつけたいという気持ちと、恐ろしくて逃げ出したいという気持ちがシェリアの中で激しくせめぎあっている。早くそんな葛藤から解放されたいと願っても、時間はいつもと同じように流れていくばかりだ。じれったい、とシェリアは心急く思いだった。ついに午前最後の儀式が終わったとき、すでに一仕事を終えたように全身の力が抜けてしまったほどである。まだこれからが本番だ。気を取り直し、改めて気合を入れなおす羽目になった。

「シェリアスティーナ様、その、私もご一緒いたしましょうか」
 カーリンの部屋へ向かうシェリアを追いかけて、ナシャが戸惑い気味に声をかけてきた。その更に後ろには、護衛としてイーニアス。シェリアはナシャの言葉を有り難く思いながらも首を横に振った。
「大丈夫。私一人で、カーリンさんと少し話をしてみるよ」
「ですが」
 ナシャはカーリンがシェリアのことを快く思っていないことを知っている。実際ナシャは、シェリアに気を許すことのないようにと直接カーリンから注意を受けていたから、なおさら二人の不仲を心配したのだろう。二人きりで対面すればますます関係がこじれてしまうのではないかと危惧しているのだ。しかしシェリアは、このような事態だからこそ二人向き合い話し合うことが必要だと考えていた。間に仲介を挟めば、ますます二人の心は遠くなる。それでは駄目なのだ。カーリンがこれまで内に溜め込んできた思いを全てぶつけてもらわなければ。そしてそれを受け止めたい。
(私は弱い、だからちゃんと受け止めきれないかもしれない。でも、受け止めたいって思っていることは分かってほしいから)
 そんな考え方はずるいのだろうか。私は努力していますとただアピールしているだけになりかねない、そんな言葉をカーリンが欲しているはずがないのでは?不意に迷いが心の中を掠める。しかし直後に、再びシェリアは心を奮い立たせた。いつでも人は迷うもの――ロノの言葉をお守り代わりに思い浮かべる。そうだ、迷ってももう立ち止まりたくない。目の前に道が広がる限り、行けるところまで歩いていきたい。
 そしてシェリアはカーリンの部屋の前に辿り着いた。
「ナシャ、イーニアス、ここまでありがとう」
「でも、シェリアスティーナ様……」
 かける言葉を探しあぐねて慌てるナシャに、笑顔で応える。
「本当に大丈夫だから」
「……分かりました。でしたら私、ここでお待ちしています」
「イーニアスが待っていてくれるから平気だよ」
「シェリアスティーナ様、俺達二人で待たせていただけませんか?」
 ナシャの懸命な様子に心打たれたのか、イーニアスが助け舟を出した。こうまで言われれば、断ることも気が引ける。苦笑して頷いて、改めて扉に真っ直ぐ目を向けた。――緊張はいつの間にか随分ほぐれていた。固唾を呑んでこちらを見守るナシャが代わって引き受けてくれたかのようだ。大きく深呼吸を一つして、ついにシェリアは右手を掲げた。

 軽やかなノックの音。シェリアの覚悟とは裏腹に余りにも軽く響いたその音に、却って心臓が跳ね上がった。
「あの」
 カーリンの返事を待たずに、上ずった声を上げてしまう。しまったと思うが、今更引き返すことなどできない。
「あ、えっと。シェリアスティーナです……。入ります」
 恐る恐る、扉を開いた。
 そんなシェリアを一番最初に向かえたのは、甘くて優しい――花の香りだった。
(えっ?)
 目を見開いて扉を大きく開ける。視界に入ってきたのは、ちょうど立ち上がったカーリンと、彼女を取り囲む山のような花の数々。そう、まるで花畑に足を踏み入れたかのような、明るく華やかな空間が広がっていたのだ。
 その花々がこれまで自分の差し入れてきたものであると悟ったシェリアは、驚きのあまりその場に立ち尽くした。すぐ後ろではナシャとイーニアスも同じように息を呑んでいる気配が感じ取れる。
 何故こんなにも、たくさんの花が。一度に贈った花の数はたかが知れていたはずだ。単に摘みとっただけだから、きっとすぐに枯れてしまうと思っていたのに。今こうしてカーリンの小さな部屋を包んでいる花々は、どれも今こそが一番美しい時とでもいうように絢爛(けんらん)と咲き誇っている。
「シェリアスティーナ様」
 か細い声が、シェリアの名を呼んだ。カーリンだ。低く落ち着いた声音はそのままだが、姿がなければ彼女と分からないほど弱々しい。そしてその姿もまた然りであった。随分とやせ細っており、椅子から身を起こしただけでふらつく様はあまりにも危なっかしかった。
「お邪魔、します」
 ナシャたちに目配せをして、シェリアは扉を閉めた。ゆっくりとカーリンの方へ歩み寄りながら、変わり果てた彼女の姿に思わず涙を浮かべる。しかしここで泣いている場合ではない。涙をこらえるためにシェリアはきつく唇を噛んだ。
「本来ならばこちらから出向くべきところ、お呼び立てして申し訳ありませんでした」
「そんな、気にしないで。いつでも呼んでくれていいんだよ。私、いつでも飛んで来くるから」
 カーリンは嬉しそうに微笑んだ。そしてその瞳のままぐるりと部屋を見渡す。自然とシェリアもその目線を追った。
「お恥ずかしながら、すっかり足腰が弱ってしまって。……でもそれだけではなく、ぜひこの部屋をシェリアスティーナ様に見ていただきたかったのです」
 二人を取り囲む、小さな花畑。色とりどりの花々に心が吸い込まれていきそうだ。
「この花は、私がこれまで手紙に添えて渡していた?」
「そうです、本当に美しくて」
「でもこんなにたくさんは……」
「全て、シェリアスティーナ様が贈ってくださったものです。こちらのメレア、これが初めての手紙に添えてくださった花ですよ」
 カーリンがそっと引き寄せた花は、萎(しお)れる様子もなく生き生きと輝いている。
「本当に不思議なこと。シェリアスティーナ様が贈ってくださった花は、一本たりとも枯れずにこうして咲き誇っているのです。きっとシェリアスティーナ様のご加護を受けた花たちだからでしょう」
「私の……」
 そんなこと、考えたこともなかった。しかしもしかしたら、確かにシェリアスティーナの力なのかもしれない。聖女にはそれぞれ特別な能力が備わっていると文献で読んだ覚えがある。その時シェリアスティーナの能力について少し疑問に思ったものの、そのまま詳しく調べることもなかった。そういえば先日ロノも言っていただろうか。大地に芽吹く新たな生命も、きっとシェリアスティーナの力で支えられているのだと。だとしたらそれは素晴らしいことである。花や緑の成長を促す、それがシェリアスティーナの力ならば。なんて希望に満ちた能力だろう。
「私はずっとこの部屋に閉じこもり、もう二度と外へ出たくないと思っていました。けれど少しずつ花々が私を囲んでいって、いつしかこの部屋が花でいっぱいになった時、もう一度外へ出たいと思うようになったのです。私の心の中に渦巻いていた暗い感情を、少しずつ溶かしていってくれた。そして私があなた様のことを本当はどう思っていたのか――自分自身の心と向き合う勇気も、与えてもらったのです」
 カーリンは真っ直ぐシェリアを見つめた。シェリアは再び緊張し、その視線を受け止める。
「私は早くに夫を亡くし、女一人で生きていかねばなりませんでした。そこで見つけたのがこの王宮での下働きの仕事です。もちろん貴族とは全く縁もないごく一般民の出、一生西の端っこで下働きをしていくのだと考えていました。それに不満を抱くことなど勿論ありませんでした。それがごく当然のことだったからです」
 そこでカーリンは少し疲れたのか、目線で腰を下ろしていいかとシェリアに尋ねた。シェリアは頷き、自分も手近にあった椅子を引き寄せる。
「しばらくは下働きを続けていたのですが、聖女マルヴィネスカ様のご意向により、すぐに聖女様付きの侍女となることが決定しました。時折見かけた私の働きぶりを気に入ってくださったとのことで、まだ年若いマルヴィネスカ様は非常に良くしてくださったのです。私はとても幸せでした。しかしマルヴィネスカ様はとてもそうは見えなかった。私に対して、というわけではありません。彼女はご自身を取り巻く多くの事柄に対して絶望を抱いておられました。婚約者である当時の第一神聖騎士様の支えがあって、どうにか毎日を過ごしているご様子だったのです。私は少しでもマルヴィネスカ様のお力になりたかった。姉か母親のような気持ちになっていたのだと思います。しかし何の力にもなれぬまま彼女は若くして亡くなられた。――その時の自分に対する怒りのような気持ち、それをそのまま――新しく誕生された聖女様に向けてしまったのです」
 全てはそれが始まりでした、とカーリンは疲れたように呟いた。
「もちろんその頃は新しい聖女様がシェリアスティーナ様であることなど存じませんでした。私には、それが誰であれ同じことだったのです。新しい聖女様が生まれたためにマルヴィネスカ様は亡くなったのだと、自分勝手に事実を曲解し、見もせぬ聖女様を恨みました。十四歳になっても国民の前に姿を現さない新しい聖女様、それでは何のためにマルヴィネスカ様は亡くならねばならなかったのだとますます怒りは強くなるばかりでした。しかも自分では全くその自覚などなかったのですから、恐ろしい話です。ついに新しい聖女様が王宮に上がられた時も、とてもお仕えする気にはなれなかった。そこで聖女様付きの侍女にはならず、他で仕事を与えてもらったのです。噂では――無礼を承知で申し上げますが、シェリアスティーナ様は非常に厳しく冷徹な方という話でしたので、やはりとんでもない方なのだ、マルヴィネスカ様が亡くなったことが間違いだったのだと、一人心の中で得心をしていました」
 けれど、と言葉を続ける。一度に話し続けたせいだろう、カーリンの声はかすれ気味になっていたが、本人はほとんど気にする様子もない。一気に話してしまいたいという気持ちが強いのだろう。シェリアは一度水を汲むのに中断しようかと思ったが、そのまま彼女の話を聞くことに決めた。
「ある日、上からシェリアスティーナ様付きの侍女になるようにとの厳命が下りました。同時に新人侍女としてナシャまでもが抜擢されたところを見るに、恐らくわざわざ平民出身の侍女を付けたのでしょう。その頃、身分ある貴族の娘たちでシェリアスティーナ様の侍女になりたいという者はいなかったのだと思います。私も断りたかったのですが、長年王宮に仕え侍女としての能力も節度も十分に備えた者は私しかいないなどと持ち上げあられ、更には断ればこの王宮内に居場所はないと冷たくあしらわれ、他に道はなくなりました。そうなれば人間開き直るもので、侍女としては完璧な仕事をこなしてみせよう、有能な動く人形としてならば与えられた使命をきっと果たそうと心に決めました。そして初めてあなたと向かい合ったのですが――」
 ほろりとカーリンの目から涙が零れ落ちた。
「実際のあなた様は、今まで聞いていたどの噂とも違っていた。そして私の中で長い間作り上げてきたシェリアスティーナ様の像ともかけ離れていた。ずっと上から見下ろす者ばかりだったこの王宮内で、初めて私と同じ目線で接しようとしてくれた貴人があなた様でした。王宮内で自分の地位を確保するためにかなぐり捨てた平民時代の穏やかで優しい気持ちを、あなた様は思い起こさせてくださった。けれど私はそれを認めたくなかったのです。あなた様は憎い聖女であると、そうであるはずなのだと、自分に言い聞かせる日々が始まりました。私とは対照的に、どんどんあなた様に心を許していくナシャを歯痒く思っていたのも、実は嫉妬心からだったのだと思います。私はナシャに、シェリアスティーナ様のことがずっと恐ろしかったと告げたことがありました。本当は、あなた様をいつの間にか信頼していく、自分自身が、自分のその気持ちが、恐ろしかったのです。はっきり、あなた様が、嫌いだ、と。そう口に、出すことで。もう一度、そう、思い込もうと、していたのです……。ですが、愚かなことでした。分かっていたのに、止められなかった」
 両手で口元を押さえながら、カーリンは体を奮わせた。幾筋もの涙が頬を伝い、手の甲を伝い、そこから滴り落ちて彼女の服に小さな染みを作ってゆく。しゃくり上げる声も、そのたびに揺れる体も、折れてしまいそうなほどにか弱く頼りない。
「カーリンさん、お願いだからもう自分を責めないで」
 シェリアも堪えきれずに泣き出した。もうずっと泣いてばかりいると頭の片隅で考えるが、それでも涙は止まらない。
「カーリンさんの本当の気持ち、話してもらえてすごく嬉しかった。カーリンさんを苦しめてきたのは、昔も今も――ずっとシェリアスティーナだったんだから。カーリンさんが悪いんじゃない。だから自分を責める必要なんて、ないんだよ」
「いいえ、私は自分の身勝手な思いからあなた様を傷つけてしまいました」
「身勝手なのは私も同じ。それに昔のシェリアスティーナも同じ。だからもうやめよう。自分を責める時間は、もうお終いにしていいはずだよ」
 シェリアはカーリンの側でしゃがみこんだ。顔を覗きこむようにして、微笑んでみせる。自分も泣いているのだからあまり説得力はないが、カーリンさんにはもうこれ以上涙を流してほしくないと心から願った。
「カーリンさん、私ね。……昔の記憶が全然、ないの。カーリンさんが噂で聞いていたっていうシェリアスティーナの話、ほとんどが本当にあったことなんだよ。でも私はそれを何も知らずにいる。だからそれを知って、昔のシェリアスティーナときちんと向かい合いたいと思ってるんだ。本当はもっと早くにそうするべきだったんだけど、今の環境についていくのに精一杯でできなかった。そんなの、都合のいい言い訳なんだけどね。私ってすごく身勝手だった。だけど今はちゃんと昔のシェリアスティーナを知ろうって思っているから。もしよかったら、カーリンさんにも手伝ってもらいたいんだ。カーリンさんも、本当の私を知りたいと思ってくれているのなら――」
「本当の、シェリアスティーナ様……を」
 そう、とシェリアは頷いた。
 カーリンは少しの間押し黙ったが、やがて深くしっかりと頷いた。が、その拍子に激しく咳き込む。
「カ、カーリンさん!」
「もっ申し訳、ありません。老いた身で、長々と話しすぎてしまったようです」
 落ち着こうとしたのだろう、深呼吸を繰り返すが、ヒューヒュー乾いた音が喉を通るばかりだ。
「ごめんね、カーリンさん。無理させちゃったよね。すぐ水持ってくる!今日はもう休んで。また今度ゆっくり話そう。――そうだ、今度は外の花畑に一緒に行こうよ。たくさんの花が咲いてて、本当にキレイなんだよ」
 水を運んで、カーリンに手渡した。それを受け取りながら、カーリンはもう一度部屋の花々を見渡し、柔らかく微笑んだ。きっとこの花々の向こうに、青空の下美しく咲き誇る無数の花の楽園を見ているのだろう。
「ぜひ、ぜひ連れて行ってください」
 まだ僅かに涙を流しながらも、カーリンははっきりとそう言った。
「シェリアスティーナ様、私は大丈夫ですから。私で力になれるのでしたら、できる限りのことはお話させてください」
「うん、また今度お願いね」
「いえ、今日はとても良い気分なのです。ずっと胸に支えていた重石(おもし)が取れたよう。お水も頂きましたから本当に大丈夫です。今、お話させてください」
 シェリアは逡巡したが、ありがたくその申し出を受けることにした。
「それじゃあ、お願いします」
 カーリンは厳かに頷く。幾分か力強さが戻っていた。
「私は古い昔からこの王宮に仕えてきました。賤(いや)しい身ではありますが、知っていることは他の者より多いはず。何を、お知りになりたいのですか?」
 そうだ。言われてみればその通りだ。アシュートやライナスのように以前のシェリアスティーナと直接の顔見知りではないとはいえ、この王宮内で起こった出来事ならば、カーリンは彼ら以上によく知っているはずである。
 シェリアスティーナの残酷な仕打ちが始まる全ての元凶になったかもしれない、あの出来事についても、あるいは。
「あのね。私がここへ来て一、二年の間に亡くなった人達のことについて。何か知っていたら……教えてもらいたいの」