45.

 新しい聖女がついに見つかった。
 王宮からその一報が発せられた時、人々はまず呆気に取られた。隣を歩いていた男がいきなり夢物語を大声で語り始めた、そんな状況で浮かべるような驚きの表情と、冷ややかな色の瞳。あまりに突然のことに理解がついていかないが、しかし考えるまでもなく「軽蔑すべき戯言」であると即座に判断している。それが人々の一番最初の反応だった。
 聖女が姿を現さないまま十四年余りの月日が流れた。その間に、人々はやがて来る破滅の時を見すえて生活するようになっていたのである。朝日が昇ればきっと闇夜が巡ってくるように、間もなく破滅の時は訪れると誰もが考えていた。聖女の印を持つ娘が十五歳を迎えても現れず、「破滅」を迎えた歴史は三度あった。だから誰もが知っていたのだ。自分たちの行く末に圧倒的な暗雲が立ち込めていることを。しかし誰にもどうにもできない。となると、残された道はその未来を受け入れ諦めるというものだけなのだった。
 そうした中で唐突に、聖女を王宮に迎えたなどと宣言されても、それを現実のものとして素直に受け入れることができなくて無理もなかった。それこそ、二度と夜はやって来ないと突然告げられたようなものだ。眉をひそめる民たちの心の中に、既に聖女は「生きて」いなかったのである。
 それではなにが彼らの常識を覆したのか?それは他でもない聖女自身の存在であった。
 初めてシェリアスティーナが民の前に姿を現した時、人々はその神秘的な美しさに釘付けになった。つい昨日まで道端ですれ違っていたかもしれないごく普通の少女であるなどと、誰にも考えられなかった。まさに神の遣わした天使のよう、いかな彫刻家といえどその美しさを作品に収めることはできやしないというほどである。
 首もとの聖印を示されるまでもなかった。人々は大いに喜び、沸き、とうとう現れた救いの女神を心の底から歓迎した。シェリアスティーナが彼らに直接応えることはなかったが、彼女はただ聖女として存在するだけで皆の支えとなった。

 一方、実際に彼女と接する機会のあった王宮の者たちは、基本的には一般民と同じ気持ちでシェリアスティーナに接していた。ただ彼女にはどこか人を寄せ付けない雰囲気があったため、遠巻きに見守っているというのが実際の状況だった。無口で無表情、一体なにを考えているのか分からない――誰しもが胸の内でそのようにシェリアスティーナを評価していたが、この歳まで孤児院で育ったというその生い立ちのために、多くの者はそうしたシェリアスティーナの態度に同情めいたものを感じていた。
 そう、シェリアスティーナは決して人々に嫌われるような性(さが)の持ち主ではなかったのである。実際彼女と近い位置にいた者たちは、どうにかシェリアスティーナと打ち解けようと心を砕いていた。ほんの少しでもシェリアスティーナが嬉しそうな素振りを見せると、五年分の幸福を得たと言わんばかりに嬉々として周りの者に報告する侍女。シェリアスティーナから質問を受ける度に、彼女はこんなにも優れた生徒だと誇らしげに親へ手紙を送る教師。小鳥の餌ほどしか物を口にしなかった彼女が初めて料理を残さず食べた時には、嬉しさのあまり部下全員に高級料理を振舞ってやった料理長もいた。そのようにして、シェリアスティーナは不器用ながらも少しずつ周りに溶け込んでいったのだ。
 そんな折であった。
 シェリアスティーナと打ち解け始めた侍女が死んだ。突然の病に倒れたのである。
 それまで病気らしい病気をしたことのない侍女だったので、周りの者は皆驚いた。ついこの間まで元気だったのに――なんともありきたりな表現だが、まさにそうとしか言いようのない突然の出来事である。シェリアスティーナも彼女の死には衝撃を受けた様子で、随分と長い間ふさぎこんでいたという。
 しかしそれは、度重なる王宮の異変の「始まり」に過ぎなかった。
 一人目の侍女が病死してしばらく経つと、今度は別の侍女が塔の上から転落して死亡したのである。彼女もやはり、シェリアスティーナ付きの侍女であった。
 その朝彼女は、侍女長に命じられて東の別塔に保管されている歴代聖女の衣装を整理しに向かったのだった。そのいくつかを持ってきてシェリアスティーナに披露すれば、きっと興味を持ってもらえるだろうとの考えからだった。滅多に人の出入りのない東別塔、空気の入れ替えをしようとしたのだろう、建てつけの悪い窓を開放しようとした拍子に、侍女は誤って転落してしまったようだった。
 このような「突然の不幸」や「不運な事故」に見舞われて――命を落とす者が、少しずつ現れ始めた。
 もちろん今までもそういったことが無かったわけではない。しかし明らかに、その数が多かった。シェリアスティーナと交流のあった者も多かったため、彼女にとっても心痛む話に違いないと皆考えた。せっかく王宮に馴染みかけていたシェリアスティーナだったが、いつのまにか周りの者たちとの距離は再び離れていった。
 そんな異変は、一年半ほどで徐々に治まりを見せ始めた。一時期は王宮内を不安の渦が取り巻いたが、治まってしまえば気にかける者ももはやいなかった。もともと、明らかな病死や事故死だったのである。何者かによる暗殺であったというのならともかく、そうでないなら論じても栓のないことと皆割り切った。――いや、実は「一連の出来事に聖女シェリアスティーナが絡んでいる」という噂は、ごくごく小さく流れ出ていた。亡くなった者の大半が彼女と関わりのあった人間だからである。しかし突然の病死など、彼女にどうこうできる話ではないものもあったし、なにより彼女自身が身近な者たちの死にひどく苦しんでいる様子だったため、深く追及する者は一人もいなかった。
 そのまま何事もなく事態は収拾する、はずだったのだが――。
 シェリアスティーナが突然動いた。
 自分の身の回りの世話をする者を、全員解雇すると言い放ったのである。
 寝耳に水の命令に、解雇された本人たちだけでなく周りの者たちも非常に驚き、困惑した。その理由を問いただしてもシェリアスティーナは絶対に答えようとしない。ただ付け加えたのは、命令に背く者は全て処刑する、というなんとも理不尽かつ無慈悲な言葉だけだった。
 聖女の命令となれば、無視することはできない。命じられたとおり、シェリアスティーナと少しでも関わりのあった使用人たちは全員解雇された。シェリアスティーナの身辺は一新されたが、今度はもうほんの少しでもシェリアスティーナが彼らに心許すことはなかった。なにを話しかけられてもほとんど言葉を返すこともなく、表情を動かすこともない。シェリアスティーナが一体なにを考えているのか、誰にも欠片さえも分からなくなってしまったのだった。

「シェリアスティーナ様が使用人たちに恐ろしい命令を下されるようになったのは、それから間もなくのことでした。些細なことで使用人に罰を与え、時には極刑に処す。皆、本当に震え上がりました」
 カーリンは、自身にも身に覚えがあるのだろう、両腕で身体を掻き抱く仕草をした。
「なぜ突然そのようになられたのか、全く分かりません。もちろんシェリアスティーナ様ご自身に理由を尋ねるわけにもまいりませんでしたから。けれどその時に、きちんと理由を知っておくべきだったのかもしれません。皆が考えていたことは、ただ自分に火の粉がかからないようやり過ごすこと、それだけでした。いつの間にか、シェリアスティーナ様がそうした行動を取られるようになった訳を考える者は、いなくなりました。……そう、今思えば、シェリアスティーナ様の周りで起こった不審死こそ、全ての原因だったのかもしれないのに」
「そこに改めて気がついたのが、アシュートだったんだよね?」
 カーリンは静かに頷いた。
「そうです。アシュート様はもともとシェリアスティーナ様の振る舞いをどうにか落ち着かせようとされていました。とはいっても、聖女様の権力は絶対的なものでしたから、最終的にはなにを言われても折れるほかなかったのです。おそらく、その場しのぎにシェリアスティーナ様を諌めても事態は好転しないと考えられたのでしょう。アシュート様は、シェリアスティーナ様が突然変わってしまわれた、その原因を探ろうとされていたようです」
「それで、一番初めの、数々の不審死に目を向けた。……アシュートは、それも私が手を下したものだと思ったんだよね」
「おそらくこれという確信はなかったと思います。ただ、手を下したとまではいかなくとも、なんらかの事情を知っていたのではと考えられていたご様子でした。その時になにがあったか、それさえはっきりすれば立ち込めた雲は晴れると」
「そしてアシュートは、私に直接問いただしたんだね。そもそも、なにが起こったのか。どうして私に関わりのある人たちが次々に死んでいったのか」
 頷くカーリンは実に痛ましげな様子である。アシュートが問いただした結果、なにが起こったのかを知っているのだろう。
「それでどうなったの? お願い、教えて」
「……シェリアスティーナ様はそのことについて一切お答えにならなかったそうです。代わりに非常にお怒りになって。自分が殺したと、そう言いたいのかと、アシュート様を責められました。お怒りになりながらも、いたくお心を傷つけられたご様子だったとか。涙を流しながら、どうして自分が殺したと思うのだと叫ばれたというお話です」
 シェリアスティーナが泣き喚いた。それは一体なにを意味しているのだろう? 本当にシェリアスティーナは無関係だったのだろうか。それともなにかしらの関係が、やはりあったのだろうか。
「シェリアスティーナ様は、ご自身を疑ったアシュート様をお許しになりませんでした。ただアシュート様は第一神聖騎士様であり、シェリアスティーナ様の未来の夫でもあります。シェリアスティーナ様といえど、さすがにアシュート様を直接罰することはできなかったのです。……そのために、却ってアシュート様には残酷なことになってしまったのですが」
「残酷な、こと?」
 カーリンは苦しげに首を横に振った。
「申し訳ありません……私ごときには、詳しく語ることは許されません。ただ言えることは、様々なことがあって、結果アシュート様の妹君が王宮を追放されたということだけです。アシュート様は幼い頃にご両親を亡くされ、唯一のご家族であられたのが、その妹君。アシュート様は今でも秘密裏に妹君を探されているとのことですが、シェリアスティーナ様が敷かれた緘口令のため未だ行方は分からぬままだそうです」
「アシュートの妹……」
 以前もカーリンが少しその存在を口にしたことがあった。唯一の家族である妹が行方不明と告げられた時は、彼に妹がいたという事実に驚き、行方がわからないという状況に同情のようなものを覚えた。しかしそれさえもシェリアスティーナの手によるものだったとは。
(それに、妹さんが追放されるまでにも色々なことがあったみたいだし。さすがにそこまでカーリンさんに聞くわけにもいかないか)
「更に詳しいお話を、となりますと、本当は当事者でいらっしゃるアシュート様にお聞きになるのが一番なのでしょうけれど。それも難しいでしょうから、シェリアスティーナ様と一番親しくされているライナス様に聞かれてはいかがでしょう」
「ライナス――ライナス、か」
 自分でも分かっていた。シェリアスティーナの鍵を握るのは、本人のいない今、ライナスを置いて他にないということは。
「でも、今はまだ」
「記憶を無くされた不安なお気持ちも、ライナス様ならきっと分かってくださいます。ライナス様は、前聖女マルヴィネスカ様のご子息であられますから。聖女様のお気持ちを一番よく分かってくださる方に違いありません」
「――えっ! ライナスが、前聖女の、息子?」
 思わぬ事実にシェリアの声が裏返る。その様子を見たカーリンも、驚いたように頷いた。
「そうです。……ライナス様は、話されていませんでしたか?」
「全然、全く。一言もそんなこと言ってくれてなかった」
 しかし――そうか。考えてみれば、聖女と第一神聖騎士の間に子供がいてもなんら不思議はない。その子供がライナスというのならば、確かに頷けることもある。あの若さで宰相補佐などという地位についていたことも、シェリアスティーナの後見人として非常に近い位置にいたことも。全ての者を遠ざけていたシェリアスティーナが彼を最後まで側に置いておいたというのも、きっとライナスの境遇が彼女に近いものだったからだろう。
「それではなおさら、きちんとお話になってください。以前のシェリアスティーナ様がお心を許されていたのは、ただ一人ライナス様だけだったのですから」
 そこまで言って、カーリンは少し疲れたように水を口に含んだ。ちょうどその時、部屋の扉が戸惑いがちに叩かれる。余りに長い時間シェリアが部屋から出てこないので、廊下に控えていたナシャとイーニアスが痺れを切らしたのだろう。
「申し訳ありません、お時間を頂きすぎてしまいましたね」
「ううん、こっちがお願いしたことだから。体調もよくないのに、色々と話してくれてありがとう。知らないことばかりだったから本当に助かったよ」
「いえ。ほとんどお力になれず申し訳ありませんでした」
「そんなことないよ」
 シェリアは鳴り止まないノックの音に急かされて席を立ったが――ふと思いついてカーリンを振り返った。
「カーリンさん」
「は、はい」
「まだ手元に、退職願、持ってるの?」
 はっとしたようにカーリンは目を見開いた。
「もう、必要ないよね? そうでしょう?」
 カーリンは困ったように視線を床に落とす。それがシェリアの問いかけへの答えだった。
「辞めるなんて、言わないで」
「ですがシェリアスティーナ様。あなた様に働いた無礼の数々、許されることではありません。ここはやはりけじめをつけさせていただきたいのです」
「違う。カーリンさんの言葉は、私に色々と考えるきっかけをくれた。私には必要なことだったんだよ。無礼なんかじゃない」
「それはあなた様がお優しい方だから、そのように感じていただけただけのこと」
「私が優しい人だなんて、それは分からないよ」
 カーリンは怪訝な表情で顔を上げた。
「本当のシェリアスティーナを探すために、力を貸してくれるんでしょう?」
「そ、それは。私にお話できることは、もうこれ以上ありませんし」
「それでもいいの。――お願い、私を見守っていて。これから私はどこへ向かうのか、まだ分からない。色々と迷うだろうし、間違ったこともしちゃうと思う。だけど本当のシェリアスティーナを見つけ出すまで、きっと頑張ってみせるから。側でそれを見守っていてほしいの」
「シェリアスティーナ様……」
「私のことを、出会う前から、ずっとずっと見つめ続けてくれた人はカーリンさん、きっとあなただけだよ。だからお願い」
 カーリンは再び目を伏せた。その瞳には戸惑いの色が浮かんでいる。だが徐々に迷いは影を潜めていき、芯のある透き通った瞳に変わっていった。
「……私はなんの力も持たない老いぼれに過ぎません。ですが、許されるのでしたら。――今度こそ私自身の意志で、シェリアスティーナ様にお仕えしたく思います」
「カーリンさん!」
 ありがとう、とシェリアはカーリンに抱きついた。優しい花の香りと、木漏れ日の匂いがする。
 その時、計っていたかのようなタイミングで扉が開かれた。いくらノックをしても返答がないことに焦りを覚えたのか、ナシャがイーニアスさえも押しのける勢いで部屋になだれ込んできたのである。
「シェ、シェリアスティーナ様、――カーリンさん」
 ナシャは呆然としながら肩を抱き合う二人を見つめた。が、すぐに安心したように息を吐き、じんわりとその目に涙を浮かべる。
「……ナシャ、お前にも迷惑をかけました。きっと随分と気を揉んだことでしょうね」
「カーリンさん、戻ってきて、くれるのですか」
「ええ。こんな私にも、まだできることがあるのならば」
「シェリアスティーナ様とのことも」
「もう目が覚めました。シェリアスティーナ様の側に、そしてお前の隣に、また私が立ってもいいかしら?」
「は、はい。お願いします。お願いします……!」
 いつの間にか立場が変わって、ナシャがカーリンの胸に飛び込む形になった。微笑みながらその様子を見守るシェリアの横に、そっとイーニアスが並び立つ。
「シェリアスティーナ様想いの、よい侍女たちですね」
 その言葉にシェリアは深く頷いた。幾多の出来事に迷い戸惑ってきたけれど、今回だけは自信をもって答えることができる。
「――うん、本当にそうだね」